第30話

「高校で都が倒れたって聞いて迎えに行ったとき、何かあったんだろうなってすぐに感じたわ。あなた、中学の時と全く同じ顔に戻っていたもの。でも聞けなかった。お母さんに、勇気がなかったから。それからずっと都が学校に行けなくなって、お母さんともだんだん距離が空いてきて、拒絶されたことにやっと気づいたの。……気付いていたのに、助けてあげられなくてごめんね、都」


 首を横に振って、私はきつく目を瞑った。今まで会話らしい会話なんてなかった。進路ですら自分で決めた所を報告するだけだった。暗い視界に、涙がにじむ。絵の具を垂らしたように、じわじわと侵食してくる。

 涙は透明な血液だ、と誰かが言っていた。なら私たちが流しているのは、紛れもなく血液だ。


「私、私ね、勝手に思い込んで、ずっと怖くて、お母さんもお父さんもいなくなっちゃうんじゃないかって怖かったの。だから喧嘩なんてしてほしくない。でも私が止めたって、お父さんは聞いてくれない。……それを止めようとして、また二人が喧嘩しちゃう。二人が一緒に寝ていないことも知ってる。でもずっと見て見ぬふりしてた……。お父さんが、お母さんを」


「それはいいのよ」


 さえぎられた言葉の先に生まれるものは、何もない。目を開けてみると、お母さんは黙って涙を流しながら、それでもまっすぐ私を見ていた。瞳に映る私は、どれほど惨めに見えるだろう。あの日から、引きこもり始めてから、中学の時から、変わらない自分。

 いつもの喧嘩をヘッドフォンで塞いできた毎日。だけど一度だけ見たことのある、あの光景。


 お父さんが、お母さんに手をあげていた。

 それを見たときの恐ろしさは、今でも簡単に思い出すことができる。お父さんの怒鳴り声とお母さんの怒鳴り声が交じり合って、大きな声がピークになった時。振りかぶったお父さんの腕は、お母さんの左頬に吸い込まれていった。

 大きくて鈍い音が響いて、お母さんの倒れる音も追いかけるように聞こえて。次の日は腫れた頬を湿布で覆い隠していた。それすらも、気付かないふりをした。

 私にも、勇気なんてなかった。お母さんの味方だよって、言ってあげられなかった。

 きっかけは知らない。だけど取り返しのつかないところまで来てしまっていることだけはわかっていた。

 だからこそ止めたかった。私が感じていた家族の幸せの象徴だった絵は、いとも簡単に破れるただの紙になり果ててしまったけど。未だに縋り付いてしまうのは、まだ家族を繋ぎ留めたいと思っているからなのだろうか。


「都、お母さんの話、よく聞いてね。きっとあなたにとっては、全然いい結果ではないと思う。でもね、お母さんもお父さんも同じ空間ではもう無理。これから一緒にいたって、きっと都が一番見たくないものを見せてしまうかもしれない。あなたの一番望む形ではないけれど、それでも……!」


「……いいよ」


 泣きすぎたせいでかすれた声が、喉元から吐息のように漏れた。私の信じていた、縋り付いていた、大好きだった家族の形は、すでに形を変えて誰にも変えられない最悪の形となっていた。

 気付くのが、いや、向き合うのがあまりにも遅すぎた。私が今更「そんなこと言わないで」なんて言っても、どうにもならない。私にできることは、もうなにもない。


「私は、きっとまだ前を向けない。すぐに学校に行こうなんて思えないと思うし……。だけどね、二人の喧嘩はやっぱり見たくない。二人が考えてダメだって思っちゃったのなら……もう私にはどうすることもできないよ」


 言い終えると、面食らったような顔をしていたお母さんは、どんどん顔をしわくちゃにして、私に抱き着いた。わんわん泣くお母さんを、私は今度こそ抱きしめ返した。

 厳しいけど優しかったお父さん。心配性で臆病なお母さん。真面目すぎるたった一人のお兄ちゃん。そして、私。そんなありふれた家族は、ここで崩壊した。


 居間から部屋に戻ると、ヨルンさんはまた私のチェアに座っていた。あの黒い手帳に視線を落としていたが、ドアを開いた音で顔を上げた。


「……大丈夫か、腕」


「お母さんが、消毒してくれたので」


 包帯の巻かれた手首を見せると、幾分か安心したような素振りを見せた。でもその顔はやっぱり、ちょっと怖かった。


「いろいろ、ごめんなさい。私、ヨルンさんに八つ当たりしてばっかりですね」


「伝えていなかった俺も悪い。どうしてこうなってしまっているのかを訪ねても教えてくれないし、結果的に巻き込んでいるのは変わりない。……すまない」


 しゅん、とうなだれた姿があまりにも珍しくて、思わずへらりと笑ってしまった。今まで渡り歩いてきた夢の中ですら、そんな姿ではなかったのに。まるで叱られた子犬のようだ。


「いいんです。ヨルンさんのせいじゃないんですから」


 チェアに座った格好のまま、ヨルンさんは宙に浮かんだ。さっきまで血を流していたその場所。机には少量の血がこびりついていて、机のそばにはさっきまで震えながら握っていたカッターが落ちている。

 今日は死ねなかった。お母さんと話をして、悲しい気持ちも残っていたけど、それでもすっきりしたはずなのに。

 まだ心の奥で居座り続けている自殺願望に、無理やり目を背けるようにパソコンの電源を入れた。


 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る