第29話
部屋へ戻ってくるや否や、私はデスクの前に座った。止まらない涙と、痛む心。胸の奥を誰かにめった刺しにされているような気分だ。
この部屋では、私が女王様。そこに住む人間をどうこうしようと、私が決められる。つまり私のことだ。
自己嫌悪と今までの現実は、私の心を容易く砕いていく。端からじわじわと、一気に崩れさせるようにはしないように、ゆっくりと。
カッターを握って、切った。何度も何度も肉を切り裂いていく。カッターを握る手に力が入る。切り裂くときの嫌な感触は嫌でも「生きている」と実感させようとしてくる。
涙は止まらないまま、私はそのまま泣いた。私を傷つけることしか用途のないカッターをデスクに放り投げた。刃に着いた血がデスクに付いた。
すっかり枯れきったのか止まった涙とは裏腹に、左手首は真っ赤に染まっていた。横一直線の傷で埋め尽くされた、汚い手首。
流れる血を眺めながら、ぐっと目を瞑って、そして首筋にカッターをあてがった。私は口を開いた。きっと答えてくれるだろうと、確信しながら。
「教えてください。私が見ていた夢は、死んだ人の夢なんですか」
「正確には違う」
返ってきた返事は、いつもよりかなり低い声だった。私の背後にいるのであろう、ヨルンさんの声が世界を支配する。
「俺が守っている夢は『死ぬ前の夢』だ。『死ぬ前の夢』が幸せであればあるほど、幽霊になりづらくなる。未練で満たされた人間は幽体となって彷徨うことを防ぐために俺のような存在がいる」
首筋にあるカッターは、血を浴びて生暖かい。ヨルンさんの話を丸々納得できたわけではない。でも、辻褄は合うと思う。どうしてそんな夢に私は迷い込んでしまったのだろう。真っ黒なモニターを凝視しながら、反射して映ったヨルンさんと目が合った。
「どうしてそんな顔をしているんですか」
今までで一番悲しいような、辛いような、そんな表情だった。こちらの顔まで歪んでしまう。
「俺は現世の、特に生きている人間に口出しはできない。人の死を操作もできない。その刃物を引けば、都が死んでしまうかもしれないのに。それがたまらなく、嫌なんだ」
「柄にもないことを言うんですね、誰にもそんなこと言わなかったのに」
自嘲気味に笑ってみても、私の中にある気持ちは変わらなかった。もう、いいだろう。
世界のバグかなにかで、他人が死ぬ前の夢なんかを見た。どれもこれも幸せそうな夢だった。消える前に、みんな笑っていたから。
「私はどうしようもない子です。またいじめられる、居場所がなくなるって怖くなって、引きこもって。それが私のただの気にしすぎで、私に謝りたがっていた荻原さんはいじめられて自殺した。家族にも迷惑をかけて、家族の仲もどんどん悪くなって…」
手が汗ばむ。それなのに体だけは妙に冷えて、カッターを握った拳が震える。頭の中では生と死の間で激しく暴れ回っていた。
「私のせいなのに。私が生きているからなのに。あの夢に出てきた人たちが死ぬことなんてなかったはずなのに。でも、思ったんです、私。死ぬ前なら幸せな夢が見れるんでしょ? あなたが守ってくれるんでしょ? ……なら見せてくださいよ。私にも幸せな夢、見せてくださいよ!」
ぐっと力を入れたとき、ドアが開いた。顔を真っ青にさせたお母さんが、私に近付いてくる。強い力で首筋から手を遠ざけられた。握られたカッターは行き場を失って、力が抜けたようにだらりとその場に垂れた。
「なにしてるの!」
私をきつく抱きしめている人物。それは、紛れもなくお母さんだった。
「あんた、なに、なにしてるのよ! お母さん、昨日言ったわよね!? 都がいないと寂しいって! ご飯一緒に食べようねって、言ったわよね!? どうしてそんなことするのよ! どうして、いなくなっちゃおうとするのよお……」
ぐずぐずと鼻をすする音が聞こえる。緊張が途切れたように、また涙が止まらなくなった。抱きしめ返す力はどこにも残っていなかった。握っていたカッターを落としてしまうくらいには。
お母さんに連れられてリビングへ来ると、左腕を消毒してくれた。時折鼻をすすらせながら、一言も話さないお母さんに胸が痛んだ。
「いつからしてたの? こういうこと……」
ある程度消毒液で血をぬぐい切ると、血はぴたりと止まった。ガーゼを当ててテープで止める。痛みはあまり感じない。
「中学の、いじめられてるとき、から」
「……ごめんね」
包帯を巻きつけながら、ぐずりと鼻を鳴らした。
「お母さんもお父さんも、何もわかってあげられてなかった。だから都をここまで追い詰めてしまった。一度相談されたときだって、お父さんが怒鳴っちゃったから……。それから私たちも喧嘩が増えちゃって、きっと言い出しづらかったわよね」
きつく結ばれた包帯は、かなり綺麗だった。私の左手を握ったまま、お母さんは顔を上げた。ひどい泣き顔だった。
「お母さんね、知ってたの。都がいじめられてること。お母さんも小さいころいじめられてたから、お母さんとため込み方一緒だもん。でも何もしてあげられなかった。ずっと後悔してたわ。だから問題なく高校が決まった時、こっそり中学校に確認したのよ。そちらの生徒さんは誰もこの高校には進学しませんよねって。だからとっても安心したの」
うるうると涙がたまるお母さんの目は、開けられたカーテンの向こう側の色を反射してキラキラと光っていた。それが涙とわかるからこそ、私もぽろぽろと涙が零れ落ちた。
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