第27話

「センセーに、その子が入ってたって言う美術部でね、絵を見たの。描きかけっぽかったけど、すっごく綺麗な空と天使の絵だったの。まだ完成してなかったのに、本当に綺麗だったんだぁ。早く完成させてほしいって、きっとみんなが思ってる。……また、学校来てくれるようになるかなぁ」


「さあな。お前がしたことは罪深いとは思うが」


「なかなか手厳しいね、オニーサン」


 柵の向こうで立ち上がった荻原さんは、その場で大きくジャンプをした。落ちてしまう、と一歩だけ踏み出すと、私の体がふわりと浮いた。

 ヨルンさんも、荻原さんも、私も。空を、飛んでいた。

 慣れない浮遊感に戸惑いながらも、徐々に風を切ることに慣れ始めると、私たちは横一列に並ぶ形で飛んでいた。


「とっても気持ちいいー! すごい! 鳥ってこんな気持ちで飛んでるのかなぁ」


 荻原さんはとっても嬉しそうにその場で旋回したり、雲を突き抜けたり、雲の上で仰向けで寝転ぶようにしてから、ゆっくり伸びをしたり、とにかく楽しそうだった。

 ヨルンさんと私は、雲を突き抜けてからしばらく荻原さんを見守っていた。何をするでもなく、ただその様を見ていた。うつ伏せのまま、荻原さんはこちらも見ずに空を眺めながら呟いた。


「私さぁ、きっともう謝れないから、オニーサン代わりに謝っといてくれない?」


「そんなことは自分でやるべきじゃなかったのか」


 起き上がって、こちらを覗いた荻原さんの目に、悲哀の色が見えた。どうして今更そんな顔をするのだろう。


「諦めちゃったからさぁ、私は。だから、よろしくね。オニーサン」


 雲を破り、落下していく荻原さんを追いかけるように私たちも落下して、そして彼女は光となって四散した。私たちは落下したはずなのに、まだ上空で立っていた。街を見下ろすというのは、少しばかり慣れない気分だった。


「荻原さん……」


 彼女の独白は、想像以上だった。言葉すら見つからなかった。彼女のストーリーを知ることは、私をその先へ進ませることをさらに臆病にさせた。そんなこと、聞いていない。それに、何を諦めたのだろう。また学校をやめたのだろうか。

 光となって、空に消えていく光は、やがて見えなくなった。空に溶け込んだように。


「荻原香織が謝りたい対象って、都なのか?」


「なんか、そうみたいです、ね。すいません、頭ごちゃごちゃで、何と言えばいいのか」


 こんな形でヨルンさんに過去を知られるなんて思わなかった。彼女は今日も起きて、学校に行くのだろう。昔の私のような絶望感を抱えながら、それでも通うのだろう。

 彼女が女王様のときの性格を思い返せば、やられっぱなしな訳がないと思う。なら、やっぱり彼女は学校にいるのだ。こっそり私の絵を見て勝手に自責の念に堪えられずに、その罪悪感から逃げるために私に謝ろうとしているのだ。

 私という登場人物がいなければ、荻原さんは次へ進めない。なら、一生進まなければいい。


 私は逃げるためにあの学校に行った。今荻原さんがいじめられているなんて、知らない。前を向けた私を後ろへ振り返らせたのは、荻原さんだ。荻原さんのエゴで謝られるなんて、まっぴらだ。許せるような気も全くしない。

 でも私はこれからどうすればいい? 学校に行ったって、もしかしたら何も変わっていないのかもしれない。考えていたことすべてが違っているのかもしれない。ありもしない影に怯えていただけなのかもしれない。


 だとすれば、私は一体何のために三か月も引きこもっていたのだろう。


「都? 顔が怖いぞ」


「え、あ、す、すいません……」


 見下ろす街は見知っているはずなのに、心はこの空のもっと高いところに飛んで行ってしまったようだ。


「いじめ、というのは現代病みたいなものだろう。大勢で一人を追いやるという。昔からそういうのは存在していた」


 こちらを見るヨルンさんの目は、どこまでもまっすぐで、空を映しこんで青の瞳が一層光って見えた。


「荻原香織が持った絶望感は、都。お前の中にある才能に対してだったのかもしれない」


「し、知りませんよ……。もう関わることすら、ないと思ってましたし」


「それでも荻原香織は都に詫びを伝えた」


「だ、だからなんなんですか!」


 音もなく流れだした涙は、顎から真下の街へと落ちていく。人っ子一人いない街へめがけて。湧きあがる憎悪と嫌悪感でどうにかなりそうだった。


「私は荻原さんを許さないといけないんですか! 人を憎むことは、そんなに悪いことなんですか!? 私は、私は! ……彼女を許すことなんてできない! 私と同じ傷を持てばいい、私より多く傷つけばいい! そう願うことはいけないことなんですか!!」


 これじゃあただの八つ当たりだ。頭ではわかっている。でも止まらない。止められなかった。ヨルンさんにこんなこと怒鳴ったって、どうにもならないのに。

 次々と流れ落ちる涙は、世界に雨を降らせる。青々とした空はもうなく、暗雲が立ち込めている。雨は勢いよく降っているのに、私もヨルンさんも濡れてはいなかった。


「誰かを許すことって、そんな簡単なことなんですか?」


 その問いに、ヨルンさんが答えることはなかった。その代わり、煙草を銜えた。雨なんて関係なく火がついて、雨の中に煙が消えていく。無機質な上空には、やっぱりあの扉があった。


「俺にはわからない。だけど生きている都だからこそ、できることはあるんじゃないか? 例えば、学校にある絵の続きとか、な」


 扉を開けて、進もうとする。そしてその足を止めて、扉からひょっこりと顔だけこちらに向けた。相変わらず目つきの悪い、無表情な顔だけ。


「それに、俺は都の絵が好きだ」


 そう言い残して、扉の向こうへ消えた。私は、ひたすら泣き続けた。誰もいない街の上空で、雨を感じながら。

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