第26話

 正門の前に立っていると、溢れ出る記憶に溺れそうになった。私が一番帰って来たくなかった場所。誰も味方してくれなくて、死にたいと思って、もう何度も死のうと思った、その場所。

 一瞬にして着いてきたことを後悔した。今からでもあの空間に戻れるだろうかと後ろを振り返っても、あの扉はなかった。誰もいないのか、辺りはかなり静かだった。


「どうした、大丈夫か、都」


 猫背に磨きがかかったように丸まって、手と手をぎゅっと握りしめた。夢の中だというのに、吐き気がすごい。その吐き気は一瞬で止まった。代わりにその目を疑った。道路の向こうから歩いてきた人物は、私が最も会いたくない人だったのだ。

 目の前にいたのは、紛れもない荻原おぎわら香織かおり本人だったのだから。


「知り合い、なんです。その子」


 絞り出した声が聞こえたのか聞こえなかったのか、彼女はヨルンさんだけを見つめていた。私なんてちっとも見えていないように、じっとヨルンさんだけを視界に入れているようだ。これも夢の効果なのだろうか。

 あの頃の記憶通り、耳の下で二つに結わえられた黒髪。無表情だけど、こちらをじっと見つめるその目は、鋭くこちらを射貫いている。

 起きてしまおうか。

 でも、ここは夢だ。危害を加えたりすることは、ないだろう。私のことなんて見えてすらいなさそうだし。

 彼女の夢。荻原さんの、夢。

 真っ黒な記憶の中心人物が、どんな幸せな夢を見るのだろうか。それは随分、憎い。だけど気になるのも人間の性分というやつだ。

 覗き見たって、罪にはならないだろう。私が何かをすることだってできないんだから、それくらいのことは許されたっていいだろう。私は目覚めることなく、この夢に留まることにした。


 お互い視線を交わせ合って、やがて荻原さんのほうから視線を外した。と、思えば、門に手をかけて飛び越えていく荻原さん。ヨルンさんもそれにならって、門を飛び越えた。

 そんなことをしたことのない私は、すり抜けられないものか、と門に手をかけると、本当にすり抜けることができた。まるで門なんてなかったかのように、たった一歩で乗り越えてしまった。

 

 無言で校舎に入っていくと、荻原さんは教室へ入った。見知った教室。随分前に決別した教室は、誰もいない無人の教室に、机がぽつんと一つあるだけだった。


「オニーサン。私ね、この教室で女王様だったの」


 荻原さんの独白を、ヨルンさんの背中に隠れながら私も耳を傾ける。ちらりとその姿を見ると、荻原さんはその机に手を着いて、俯いていた。その席は、私の机だ。横にかけられたカバンに着いたキーホルダーに見覚えがある。


「みんな私の言うこと聞いてたし、勉強も陸上も成績よかったし、だから推薦もらえたときは舞い上がるくらい嬉しかったんだぁ。でもね、それと同じくらいすごい子がいたの。その子はね、絵がとっても上手くて、美術だけはその子に勝てなかったの。なんでも一番だった私が、それだけ負けたの。めちゃめちゃ悔しくて、だんだんムカついてきて、私はその子をいじめた。とことんいじめ抜いた。私じゃもう止められないところまで来ちゃったの。酷いことしたなって思うよぉ、今ならね」


 耳を塞ごうかと思ったとき、ぐるんと世界が変わった。

 見慣れない教室。見慣れない制服。ただ、その制服には覚えがある。転入してきたときに荻原さんが着ていたものだ。

 また、教室だった。教壇の前でヨルンさんと私は立っていた。さっきとちがって、机はびっちりと並んでいた。生徒の数は相変わらず一人としていない。荻原さんはもう髪をくくってはいなかった。薄く化粧をしているのもわかる。


「私が当事者になったんだもんねぇ。まさか私が被害者になるなんて考えたこともなかったからさぁ、びっくりしたよね。上には上がいるんだなって思ったよぉ。私より成績優秀な子なんてたくさんいて、この狭い社会で上を取ることなんてできなかった。そんなときにね、足、

やっちゃってさぁ」


 ふっといなくなった荻原さんに困惑していると、教室の後ろから教室の後ろがロッカーになっていて、ちょっとした空間。そこに何人かの女子が誰かを囲んでいた。

 口々に罵り合いながら、囲んだ誰かを殴る。蹴る。男子たちも止めず「女子こえー」なんて笑っていた。一人の女子が髪を引っ張って「きったな」と吐き捨ててロッカーに向かって投げ飛ばす。

 散り散りになった女子たちの中心にいたのは、ボロボロの荻原さんだった。


「この学校にいよいよいる意味もなくなっちゃったからさぁ。新しい学校でやり直そうって思ったの。そしたらいじめてた子がその学校にいてさぁ、本当にびっくりしたよ。でもその子、私と会ってから学校来なくなっちゃったの。あ、絶対私のせいだなぁって。学校に来たら謝ろうって思ってたのに、本当にずっと来ないの。まあでも、そうだよね。私の顔見て、その子吐いちゃったの。それくらい嫌ってことだもんねぇ。そうしてる内に、前の学校の噂でも広がっちゃったのかなぁ、この学校でもいじめられちゃってさぁ。もうどうしていいかわかんなくなっちゃったの」


 ふっと降り立ったのは、見知った景色だった。空を描くときや街並みのスケッチのときに、たまに開けてもらっていた高校の屋上。綺麗な景色に、知っている制服があまりにも似合っていない荻原さんは、柵の向こう側で座っていた。

 なぜか、ヨルンさんも柵を超えて隣へ座った。私はさっきまでヨルンさんが立っていた場所から動くことができなかった。ただその様子を見ていることしかできなかった。

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