第25話

 久しぶりに湯船に浸かったおかげで、体の芯まで暖まっていた。顔が紅潮し、全身を熱い血が巡る度に大きく脈打つ。服を着るのが嫌になるほど、体全身が熱い。

 下着でうろうろする訳にもいかないので、きちんとTシャツとスウェットを着込む。体の中から熱いおかげで汗がじわじわと浮かび上がってくる。

 羽織っていたカーディガンはさすがに着ずに、手に持つ。毛糸で編まれたそれは、持っているだけ熱がこもる。

 この時期にお母さんがアイスなんかを買ってくれていたらいいんだけど、と淡い期待を持ちながらリビングに行くと、お母さんが棒アイスを二本持っていた。さっきと同じような、


「食べる?」


「うん、いる」


 お風呂が好きなことは知っていたが、まさかここまで用意周到とは。ソーダ味のアイスバーのフィルムを剥いて、一口かじる。きんっとする冷たさが熱を持った体に染み渡っていく。自分の指定席に座って、その冷たさを噛み締める。

 早くも棒だけになったものをいつまでも噛み続けていると、銜えていた棒をお母さんに取られてしまった。いつまでも噛む癖があるのも、昔から変わらない。


「マカロン、部屋に持っていく?」


「そうしようかな、せっかくだし」


「明日はお母さん、家にいるからね。ご飯の時はちゃんと顔、見せに来てね」


 その問いに、私は曖昧な笑顔で返して、残った水色のマカロンを持って部屋へ戻った。濡れた髪が冷えて、今はそれが心地いい。

 いつからドライヤーをしなくなっただろう。誰にも見られることがなくなってから、一度もしていない気もする。

 とはいえ、久方ぶりのお風呂はとても気持ちがよかった。肩や背中の痛みも、心なしか和らいでいる気がする。


 思えば家族とまともに会話したのも久しぶりだった。慣れないことであったとはいえ、たまにはこういうのも、ありなのかもしれない。マカロンをデスクに置いて、チェアに座ると、お風呂上り特有の気持ちのいい脱力感が襲った。体が解けてしまいそうな、変な感覚だ。

 マカロンがころん、とデスクに転がる。可愛らしい見た目が、さっきの出来事が嘘ではないことを証明するようで、顔が自然と緩む。

 ここで最近部屋の住人と化した男が口を開いた。


「いつもより血色がいいな」


「久しぶりに湯船に浸かったからかも……」


「そういえば茶は持ってこなかったんだな」


「あ」


 しまった、いろいろあって忘れていた。まだ時間的には夜中の二時を過ぎたところだ。私的には寝るには早すぎる。

 部屋を出てもう一度リビングへ降りると、お母さんはまだダイニングテーブルに座っていた。机に広げられた何かの紙を肩ひじをついて凝視していた。

 扉を開くと、肩をびくりと震わせてその紙をささっと二つ折りにした。


「あ、なにか、いるものでもあったの?」


「う、うん、お茶取りに来たんだけど」


 あ、そう、とその紙を握りしめて私の動く先を見つめている。なんだろう? と思いながらもいつものボトルとグラスを持って、リビングを出た。

 明らかに動揺していたお母さんが気がかりだったが、深入りするのも違う気がして、私は部屋へと戻った。


 デスクに持ち込んだものを、マカロンのそばに置くと、アンバランスな組み合わせに笑みが零れた。さっきまでオシャレに紅茶なんて飲んでいたのに、今は麦茶がそばにあるなんて、本当にアンバランスだ。


「えらく機嫌が良さそうだな、何かあったのか?」


「ええ、実はさっき……」


 ドタドタっと乱暴に階段を下りていく音が聞こえた。お兄ちゃんか、もしかしてお父さんだろうか。

 こんな夜中に?

 どちらにせよ、珍しいな、なんて思っていたら、突然怒鳴り声が響いた。お父さん、だったのか。

 喧嘩が始まる。長い闘いが始まりそうだ。ヘッドフォンを付ける直前に、隣のドアが開く音がした。


 今日の喧嘩は別段長く、五時ごろにヘッドフォンを取ってみても、話し声がかすかに聞こえた。その話声ですら聞きたくなくて、早々にベッドへと入った。

 もうこれ以上、喧嘩なんてしないでほしい。お兄ちゃんがきっと止めてくれているはずだ。そんなことを考えながら、眠りについた。



「今日はあまり面白いものではないと思うぞ。今までのが面白いかどうかは、わからないが」


 突然そう告げられたとき、私はなんと答えていいかわからなかった。ここ数日、必ずヨルンさんの後ろを着いて回って、たくさんの夢を見てきた。

 そのどれもが、私にとって足りなさすぎる経験値を埋めるようで、どんな夢だろうが私は楽しんでいた。それは、紛れもない事実だった。


「どんな夢でも、大丈夫です。私は、ただ着いて行ってるだけですから」


「……そうか」


 煙が立つ。扉が開かれる。光に満ちたその先。今日はどんな夢だろう。一歩踏み出して、ヨルンさんはドアノブから手を離して、もう一度こちらに振り向いた。


「やっぱり着いてくるのか」


「ダメ、ですか?」


「いや、構わないんだが……。俺の仕事は」


「ドア、閉まりそうですよ」


 閉まるドアに足をかけると同時に、よろけてドアの向こう側へ踏み出してしまった。ヨルンさんに続いてドアをくぐる。見慣れた校舎に動悸が抑えられなかった。


 ここは、私が通っていた中学だ。

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