第24話

 お母さんは何も言わず、紅茶をすすった。熱いね、なんて笑いながら、私が降りてこなくなったことなんて、何でもないように。

 私も紅茶に口をつけて、熱いね、と笑い返した。するとお母さんはふふ、と笑って見せた。


「都とこうやってお喋りするの、久しぶりね」


「そう、だね」


 お母さんのマカロンは黄色と茶色だった。一口かじると「甘っ」と袋をまじまじと見つめていた。そんな風なお母さんを見るほうが久しぶりに感じた。


「そういえば、絵は描いてる?」


「ぼちぼち、かな」


「お母さんね、都の絵が大好きなのよ」


 急にそんなことを言うもんだから、妙に恥ずかしく感じて伸びた髪を指でくるくると遊ばせる。視線もあっちへ行ったりこっちへ行ったり、大忙しだ。


「今までのはちゃんと取ってあるのよ。お母さんの宝物なの」


 紅茶とマカロンの愛称は抜群なのに、恥ずかしさともどかしさが交差して、味がよくわからない。もう一つのマカロンに手を伸ばして、手に取るのをやめてカップへ手を伸ばした。


「やめてよ、恥ずかしいよ」


「どうして? 都の作ったものはなんだって宝物よ。幼稚園で作って母の日に初めてくれた香り袋とか、初めて描いた絵とか、小学校の時の作文とか、パソコンで描いてくれた絵はプリントしてファイルに入れてあるわ。全部全部、お母さんの大切なものよ」


 紅茶を注ぎ足して、お母さんはやっと熱くはない程度になった紅茶をすすった。なんて言っていいかわからなかった。どの言葉が正解かも、どの行動が正当なのかも、なにも。

 給湯システムが軽快なメロディーを響かせた。追い炊きが終わったようだ。


「さて、お風呂入っちゃお!」


 ぐいっと紅茶を飲み干したお母さんが立ち上がる。私も急いで全部飲み切って、置きっぱなしのマカロンはそのままにして一度部屋へ戻った。下着と着替えを持ってお風呂場へ向かった。

 なるべく見えないようにしよう。なにか色の濁るバスロマンなんかがあるとありがたいが、果たしてあるのだろうか。

 久しく湯船に浸かることがなかったせいで、そんな気の利いたものがあるのかどうかすら知らなかった。我が家なのに。心の中で自嘲気味に笑った。


「そういえばここ最近寒いし『きき湯』でも入れる? 今はこれしかないけど」


 ピンクのボトルを手にして、こちらに向きなおった。これが濁るものでありますように、と願いながら入れてもらった。さっさと服を脱ぎだしたお母さんは、寒い寒いと言いながらシャワーを出して扉を閉めた。

 見えませんように。

 そう願いながら服に手をかけた。露わになった傷が、やけに浮きだって見えた。


 視界は湯気で白いもやがかかっていた。シャンプーをして目を瞑っているすきに桶で体を流して湯船に浸かった。

 こんなに広かったっけ。と、しっかり伸ばせれた足の感覚に驚く。シャンプーから顔を上げて、コンディショナーに手を付けた。脇くらいまで伸びているだろうか。水に濡れるとまっすぐになるのに、どうして乾かしたらうねってしまうのだろう。

 顎より下を湯船に付けて口から空気を吹き出す。ぶくぶくと泡が立って、しばらく続けていた。


「都、考え事してるでしょ」


 ざば、と口を出した。髪を流し切ってボディソープを泡立てながら微笑んでいた。


「なんで?」


「小さいころ、一緒にお風呂に入ってるときにね。都が言ってたの。ぶくぶくしながらいろいろ考えるの楽しいんだあ、ってね」


 身に覚えはなかった。小さいころの記憶を持っている人はこの世に存在してはいないんじゃないだろうか。自分の体を洗いきると、お母さんはこちらを向きなおった。


「ふふ、背中流してあげる。出ておいで」


 その笑顔と暖かいお風呂の温度で和らいだ心ごと、湯船から上がってシャワー場に出た。お母さんが椅子を渡してくれたので、遠慮なく座ると泡がたくさんついたタオルで優しく背中を撫でるように洗ってくれた。

 疲れて凝り固まった体には究極の癒しのような感覚が、体中を一気に駆け巡っていく。


「パソコンとか勉強とか、そういうのってこるでしょ。たまには湯船に浸かってゆっくりしなきゃダメよ」


 ふわんふわん。コシコシ。ほわほわ、さらさら。

 背中が泡だらけになったところで、おしまい。とタオルを渡してくれたので、私はで受け取った。

 傷が見えた瞬間暖まった体が、ひゅうと風に吹かれたように冷たくなっていく。見られたかもしれない。どうしよう。

 お母さんは何も言わずさっさと体を洗い流して湯船に入っていった。

 よかった。見えなかったみたいだ。気を付けなければ、何が起きるかわからない。


 シャワーでやること全てを終えて、体を拭こうと思ったら、入らないの? と声がかかって結局湯船に戻った。

 対面で座ると、お互いの足が触れる。もじもじとしても抗えなかった。白いお湯は何もかも隠してくれていい。


「ねえ都、これからお母さんと二人で遅めにご飯食べない?」


「どうして?」


「お母さん、やっぱり都の顔見ないのやっぱり寂しいの」


 私が世界で一番嫌いなお母さんの顔をしていた。不快感はあまり感じなかったのは、その申し出が少なからず嬉しかったからだ。


「……考えとく」


 また湯船に口まで浸からせてぶくぶくと泡を出した。その様子に、お母さんはなぜかとっても嬉しそうに笑っていた。

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