第23話

「やっぱり俺の声や姿は都にしか見えないみたいだな」


「そうみたいですね……。一人で話しているように思われてちょっと恥ずかしかったです」


 くすりと笑って、ヨルンさんが難しい顔をしている間に、画集をもとの場所に戻した。立ったついでに椅子に座って、パソコンの電源を付けた。

 描きかけのものに手を付ける気も起きなくて、新規キャンバスを呼び出してから、動画サイトで『ボカロ 作業用』と検索をかけた。

 首にヘッドフォンをかけて、くるくるとホイールを回す。スクロールバーが同じ速さで降りていって、長めな動画をクリックした。

 たまに聞きたくなるボーカロイド音楽のBGMが、首元でシャカシャカと軽快なメロディーを奏でていた。今日は、爆音で聞きたい気分だった。ヘッドフォンを耳にかけて、画面に目が釘付けになる。


 お兄ちゃんに言われたようにご飯時に居間へは降りなかった。今回は無視をした訳ではない。意図的に行かなかったわけでもなく、ヘッドフォンから流れる音楽と、画面に映し出された絵に完全に集中しきっていたのだ。

 集中が切れて時間を見たとき、日付を超えているのを見て思わず二度見してしまった。

 画集をたらふく見たおかげか、創作意欲がどんどん湧いてきたのだ。ここ最近で見たたくさんの夢を、一つ一つ思い出しながら絵に閉じ込めて、猫の夢まで下絵を完成させた。

 それからあの可愛らしい少年と草原、そして淡い空をまるで水彩で塗ったように彩色を施して、完成したのが今という訳だった。


 我ながらとんでもない集中力だった。完成したあの夢は、少年がスケッチブックを抱えて笑っていた。ヨルンさんはその隣で少年を見下ろしていた。

 なぜか、表情は描けなかった。あのときヨルンさんは、どんな顔をしていたっけ。


 ヘッドフォンを耳から離して首にかけると、肩も首も凝り固まっているのがわかる。ヘッドフォンが十トンくらいあるように感じた。


「これは、見事な水彩画だな」


「水彩っぽく見えるだけです。本物の水彩には絶対勝てませんよ、デジタルは」


「本物の水彩は使わないのか?」


「画材は全部、学校ですから」


 それにこの部屋で水彩を使うにはローテーブルでしか描けない。このデスクで水を扱うには、精密機器が乗りすぎている。学校に取りに行くなんて論外だ。クロッキーと使い古したシャーペンと、このパソコンで十分。

 きちんと保存をして、そろりと部屋を出た。なくなったお茶のボトルとグラスを持って。

 ぱっぱとご飯を済ませてシャワーを浴びに行くと、お母さんが顔を拭いていた。引き戸を開けた手がぴたりと止まった。


「あら、まだ起きてたの?」


「う、うん……。お母さん、は?」


「ちょっと調べ物してたら遅くなっちゃって。ご飯、食べた?」


「食べたよ」


 ふっと顔が綻んだ。化粧を落としたところだろうか。とんでもなく老け込んだように見えた。


「……ねえ、一緒にお風呂入らない?」


「え、え?」


「追い炊きしたらすぐよ。どう?」


 いたずらっぽく笑った顔は、いつも何もないように接してくれているお母さんそのものだった。思わずうん、と言ってしまいそうになるのを必死に抑える。お風呂になんて一緒に入ってしまったら、傷がばれてしまう。怒られてしまう。それは、怖い。


「いや、もうこんなに遅いよ? 明日も仕事でしょ、シャワーで済ますよ」


「お母さんお風呂まだなの。都が部屋に戻っちゃったら、お母さんが出るときわからないでしょ?」


「それはそうだけど……」


「じゃあ決まりね。追い炊きするから紅茶でも入れてあげるわ」


 さっさとボタンを押して水場を出ていった。強引なところは小さいころから何一つ変わっていない。私は思考停止した頭を必死にフル回転させた。

 さて、どうやって隠したものか。


 手際よくお茶の準備をしているお母さんはどこかご機嫌のように見えた。

 どんどん一人で入ると言い辛くなっていく。どうしようか……、と悩みながら椅子に座ると、マカロンの包みを二つ手渡してくれた。可愛らしいピンクと水色のマカロンは、枯れきった女子力を小さく刺激した。


「会社の人にもらったの。男二人にあげるには可愛すぎるからね」


 逃げ場がなくなった気がした。可愛らしいマカロンと、傷つけすぎた左腕の天秤が同じ重さになって平行となった。

 ティーポットとカップを持ってくると、カップへ紅茶を注いだ。湯気の出るカップはかなりの熱さを物語っている。黙って揺れる湯気を眺めていると、こちらへスライドさせてカップをくれた。今すぐに飲む勇気は、ない。

 ピンクのマカロンに手を伸ばして、一口かじった。とてつもなく甘く感じた。


「ねえ、携帯の電源入れたの?」


 自分の分の紅茶を注いで、黄色のマカロンの封を切った。お兄ちゃんにだけではなく、お母さんにもばれていたのか。


「ううん、入れてないよ」


「……そう、疲れてるのかしら」


 右手を頬にあてて、眉をの字に曲げて笑った。前髪を上げっぱなしにしているせいで、お母さんの表情がよく見える。

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