第22話

 昨日の夜はご飯を食べていないおかげか、温め直したご飯がすぐにお腹にたまっていった。全て平らげても物足りなかったので、いつもお母さんが隠しているお菓子棚を開けた。

 その中からポテトチップスを選び出して、新しいお茶とグラスを持って部屋へ上がった。自分の部屋にもテレビがあればな、と思いつつも、部屋へ戻った。


 扉を開けるとヨルンさんは画集を中心に置いてある所で、じっと動かずにそこに並んでいる本たちを眺めていた。


「ヨルンさんって、日本語読めるんですか?」


「慣れだな。もうこの国を担当してから随分と経つ」


「じゃあ簡単な本とかなら読めそうですね。最初は言葉も通じなかったりとか?」


「そういうのは仕事に支障が出るから、勝手に喋れるようにうえがしてくれた」


 人間では到底出来なさそうなことを平気でやってのける。それくらいでは驚かなくなってきたのは、ここ最近の出来事のおかげなのだろう。しかし各国の言葉全てを理解できるというのは魅力的に感じる。羨ましいかと言われれば、爪の先くらいは肯定することにしよう。


「画集、多いんだな」


「中学からずっと集めてるので。何か見たいのありますか?」


 そもそも夢でもないのに浮かび上がれるような存在は、本たちに触れられるのだろうか。

 たくさんの画集を眺めて、しばらく唸っている様をローテーブルのそばに座っていると、どれもこれも見たい様子で尻尾があったら振られているようにも見えた。

 真っ白なローテーブルに置いておいたお茶に口をつけると、悔しそうな顔がこちらを向いた。


「やっぱり現実世界のものは触れないみたいだ」


「見たいのはどれですか?」


 デスク横の本棚へ近づくと、ヨルンさんはチェアに座って楽しそうに画集を選んでいく。


「モネは久しぶりに見たいな。あとゴッホ。ボッティチェリは当時かなり憧れたからまた見たい。フェルメールの色使いもかなり好きだったな。あとは……」


 部屋に並ぶ巨匠たちの画集を抜き出すと、ざっと八冊ほどになった。床に積み上げられた分厚い画集たちが早く見てくれと笑っている。


「画家に詳しいんですね」


「あぁ、今のこの時代になってようやく見られるようになったんだ。美しい絵画や画家は、爆発的に売れた者が少ない分、俺たち平民が易々と見られるものでもなかったんだ」


 あんなに寡黙だったのが嘘のようにぺらぺらと話す彼は、幾分かは人間らしく見えた。ヨルンさんというよくわからない存在だったのが、かなり距離が近付いたように見える。

 ドアを背に向けて腰を下ろす。控えめな大きさのテーブルには画集全てを積み上げられないので、カーペットを敷いた床に置いて、一冊目のボッティチェリを開く。ヨルンさんがのぞき込むと、少しだけ恥ずかしさが私を薄いベールで包んだ。

 一枚めくったその先で、色彩の渦が私たちを飲み込んでいく。

 偶然立ち寄った古本屋で安く仕入れられた図録は、出版年数が経ちすぎていてあちこちの痛みが気になる。

 だけど印刷された絵画だけは、美しい色彩を失わないままだった。


「やはり彼の作品はどれもこれも美しいな」


「こんなテイストの絵はあまり描かないけど、私もかなり気に入っている図録です。特に一九世紀に入ったころなんかは特に」


「俺の時代がまさにそこだったんだ。十九世紀から二十世紀にかけての画家はかなり大物も多い。誇らしくなるよ」


 絵画を語るときのヨルンさんは、人間らしくてかなり好感が持てる。ただの青年だと思っていた彼は、どうして今よくわからない仕事をしているのだろう。

 代表作のヴィーナスの誕生を目に穴が開くほど堪能して、私はまた次のページをめくった。


 八冊もある画集や図録をじっくりゆっくり、穴が開きそうなほど見てあの絵を見たらまた違う絵に戻ったりなんかもして、外は夕暮れ時となっていた。

 ヨルンさんの豆知識や、現在飾られている美術館はここで、などと話をしながらの鑑賞は時間の流れを忘れさせるほどだった。

 これほど楽しいと思える時間は、美術部に通っていたころ以来だ。


「私、久しぶりにここまでいろんな画集を一気に見たの、初めてかも。もうお腹いっぱいです」


「俺はかなり久しぶりだな。絵を描く人に久しく出会わなかったから」


 ふふ、と笑って口を開こうとしたとき、ノックが響いた。まだ夕飯には早い時間だ。


「都?」


 お兄ちゃんの声だ。まだ五時というのに、早い帰りだ。クリエイター業というのはここまで早い帰りもあるものなのだろうか。

 返事に困ってドアを凝視したまま固まっていると、んんっと咳払いが聞こえた。


「誰かと話しているのか? 携帯の電源、入れたのか?」


 嫌な胸の高鳴り方をした。携帯は未だにサイドボードに置きっぱなしで、もちろん電源は入っていない。PCマイクを持っていないことは、お兄ちゃんは知っている。

 つまり今、私は完全に変な人だ。


「なんでもいいんだ。楽しそうに話す声が聞こえたから……。今日はご飯、ちゃんと降りて来いよ」


 隣の部屋のドアが閉まる音が控えめに聞こえてきた。焦りはしたが、まあ、今更変と思われてもいいか。引きこもっている妹なんて、お兄ちゃんだって私を変な子、と認識しているだろうから。

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