第19話

 デッサンなのか、構図を考えて描いたのか、それすらもわからない絵が、眼前に広がっていた。よくわからない絵は何枚も続いていて、そっとクロッキー帳を閉じた。まだ二十二時過ぎだというのに、体は重くて頭はずきずきと痛んだ。

 ヘッドフォンを外しても、もう怒鳴り声は聞こえなかった。変わらない静寂と、ベッドに腰かけるヨルンさんがそこにいた。


「すまない、また戻ってきてしまって」


「いえ、私のほうこそ……。さっきはすいませんでした」


「いいんだ。俺も少し首を突っ込みすぎた」


 パソコンをシャットダウンして、ヨルンさんの隣へ腰かける。驚きもせずただ私を眺める彼は、別段嫌がる様子もなく座らせてくれた。

 眉が下がっている彼は、人殺しのような目というよりは、まるでワンちゃんみたいだった。


「ほんと、私が悪いんです。いっぱいいっぱいになっちゃって」


「さっき泣いてたことと関係あるのか?」


 まっすぐ射貫く青色の瞳は、キラキラと輝いている。その目は底知れない海のようで、輝きを失わない宝石のようで、私の落ち切った気分がふわりと浮かんだような気がした。浮ついた気持ちが、つい口を滑らす。


「……うちの親、あまり仲が良くなくて。毎日毎日飽きもせず喧嘩ばっかりなんです。この部屋って階段が近くて、よく怒鳴り声とか聞こえてくるから、それがずっと辛いんですよね」


「見ていて気持ちのいいものではないな」


「だから部屋にこもってても、絵に没頭してても、やっぱり気にしちゃって。離婚とかになっちゃったらどうしようって思うと、怖くなっちゃうんです。これからどうなっちゃうんだろうな、って」


 どうしてこんなことを話しているのだろう。こんなこと話したって、解決する糸口はヨルンさんにも私にも掴めないのに。震えだした手を落ち着かせるように固く握りしめる。俯くと伸びた前髪がさらりと垂れた。


「私の生きていく場所はどこなんだろうって思うと、怖いんです。学校もこの部屋以外の家にも、居場所なんてどこにもない。ここが、ここだけが、私の世界なのに。私は私のせいで何かを失いたくないだけなのに」


 ヨルンさんは何も言わなかった。上半身の力を抜いてベッドに転がる。白い天井が広がる質素な眺め。自分の好きなものだけを詰め込んだ、自分だけの世界。

 ちょっとでも踏み出せば崩れ去る世界。

 ただその事実だけがこれでもかというほど突き刺さる。


「すいません、変なこと言っちゃって」


「いいんだ。俺は所詮生きている人間じゃない。俺が出来ることなんてなにもない」


「……そうですね」


 わかりきっている答えだった。何をしたって覆らないなら、嵐が去るのを岩のようにじっと待っていたほうが幾分か懸命というものだ。削り取られながらでも、その場にあればいい。削りきられて砂利になったとしても、それはそれでいい。

 これから先のことを考えるくらいなら。真っ暗な未来へ向き直ることなんて、できないんだから。明日死んでしまっても構わない。それくらい、外の世界には期待も希望もない。


「もう、寝ますね」


「いつもよりだいぶ早いな」


「ちょっと疲れちゃって」


 きっと今日も夢を見るだろう。あの夢はちょっとした救いだった。部屋で眠っているだけで完結する冒険。たくさんの人の人生。誰かが見ている、それぞれの幸せ。

 今はそれらを享受させてほしい。どうせなにかをすることはない。ただヨルンさんの後ろに着いていくだけ。それでもいい。ネットの中だけじゃない。誰かと繋がっている。そんな小さな繋がりだけが、私を息苦しい世界に引き留めている理由な気がした。


 ヨルンさんはベッドから離れて、私は布団をかぶって、電気を消した。頭痛と吐き気が酷かったさっきと比べるとかなり楽だ。明日も目が覚めませんように。いつも願う。この世を呪いながら、私は今日も夢へ落ちていく。



「今日も着いてくるのか」


 同じセリフを、もう二度ほど聞いただろうか。でも今日はいつもと同じような声色ではなかった。こちらを覗く瞳が陰る。


「ここには何もないですし、真っ白すぎるのもなんだか怖くって。だから今日も、いいですか?」


 いつも通り煙草をくわえると、扉が現れることもなく煙を吐き出した。あれ? と小首をかしげると、ヨルンさんは体ごと私から逸らした。


「さっき一心不乱に俺を描いてただろ」


 ひっと喉が鳴る。見られてしまっていたらしい。絵描きにとってクロッキーの中身ほど見られたくないものはないのだろうか。あくまで持論だけど。


「都は、やっぱり上手いと思うぞ、絵」


「でも、あれはゴミになっちゃうんです」


「ゴミ?」


「いらないもの、なんです」


 嫌な思い出がどんどん溢れていく。底なし沼に引きずり込まれそうになる感覚は、ここでは味わいたくなかった。彼はこちらを一切見ず、ただ黙って煙草を吸い続けていた。その様子に、ただ見惚れていた。


「ゴミなんかじゃないぞ。少なくとも俺は、描かれて嬉しかった」


「え、え?」


「描かれることなんて今まで一度もなかったからな。なかなか照れるが、それでも嬉しかった」


 顔に血液が一気に集中する。火が出そうなほど熱くなってくると、私は視線をヨルンさんから外した。恥ずかしさでどうにかなってしまいそうだった。

 しゅぼっとライターの音が聞こえた。なんと、この短時間で一本吸いきったらしい。

 目線だけ上げると、すでに扉が開かれていて、ヨルンさんはすで歩き出していた。置いて行かれるのはまずい、とその背中を追った。

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