第18話

 洗面台を出て玄関横の階段へ向かっていると、タイミング悪くお父さんに出くわした。相変わらず「ただいま」の一言もない代わりに、お父さんは少しだけ眉に力が加わってしわができた。

 今や私は、志筑家の重荷になったのだ。だってお父さんは、ゴミを見るような目で私を見ている。

 硬直したままの私は、辛うじて俯くことができた。はぁ、とため息が聞こえて、体が一層強張った。


「何をぼうっと突っ立っているんだ。おかえりも言えないのか。どこで育て方を間違えたんだか」


 その言葉がえぐり取っていったのは、私の体の自由だった。寒い廊下に立ちすくんでいると、お父さんは私を無視して二階へと上がっていった。がちゃりと部屋の開く音と同時に硬直が解けた私は、すぐに二階へ駆け上がって自分の世界へと逃げ込んだ。

 そこにいたのは、やっぱりヨルンさんだった。


「飯の時間だったのか」


「い、いえ、別に、そんなんじゃ、ないんですけど」


 しどろもどろな回答に、顔をしかめてこちらを伺っているヨルンさんの目も、見ることはできなかった。その青色の瞳は、どこまでも見透かされているような、そんな気がしたから。

 デスクに向かうとすぐに目についたのは、刃を出しっぱなしにしたカッターだった。まずい。急いでカッターを仕舞って、パソコンの電源を入れた。

 SNSには昨日の夜中に上げたイラストがかなり伸びていて、何があったのか過去最高記録を更新していた。

 それに伴ってコメントも多くなっていて、全てを読み返すことはできなかった。だけど目についたコメントたちは、今の私の心を砕くのに打ってつけだった。


『そこまで上手くはない』


『これ○○さんのパクリですよね?』


『ルナって人のイラストよく回ってくるけど好きじゃない』


『この手のイラスト嫌いなんだよね』


『ゴミじゃんwww』


 今更そんなコメントなんて慣れているつもりだった。ネット社会にだって一定数過激な人がいることは、パソコンを買ったときから気付いていた。だけど、今だけは。それを見たくはなかった。

 これから何を道しるべにしたらいいのだろう。私が唯一持っていたものは、これしかなかったのに。


 深海には光が差し込むことはなく、むしろ淀んだ海流が渦を巻いているだけだ。

 私が手にしていたのは、宝物なんかではなく、所詮誰かによって丸め込まれて捨てられるゴミだったのだ。

 悲しくなる気持ちを抑えることは不可能で、ぽろぽろと涙が溢れて止まらなかった。私の生きている道は、ここで完全に途切れて消えた。


「どうした」


「んっ……、いえ、なんでも、ないんです……っ」


「泣いてるじゃないか」


「でもそれって、ヨルンさんにはっ、関係、ないじゃないです、か」


 溢れた涙は止まることを知らないまま、袖をあてがっても湿らせていくだけ。関係のない人に八つ当たりまでして、惨めにもほどがある。

 このまま泣き続ければ、体の水分全てを出し切れば。私は死んでしまえるのだろうか。

 なんでもいいから、この世界が早く私を殺してほしい。私に解決の糸口を見つけさせることもできないなら、こんな世界なんていらない。


「すまない」


 それだけ呟いたヨルンさんは、音もなく消えた。一人残された部屋で、私は声も上げずに泣き続けた。

 切ることもしないまま、ひたすら泣いて、泣き続けて、涙なのか鼻水なのかわからない液体が顔を湿らせていく。この部屋が涙で浸かってしまえばいいのに。

 強い自己嫌悪はどんどん自殺願望として形を変えていく。もともとなにも映していなかった目は、ぐるぐると映し出される言葉に刺されて色を失っていく。


 不意に聞こえた両親の喧嘩の声で気が付いた。気を失うように眠っていた私は、首が取れそうなほど痛むのを抑えて、ヘッドフォンをかけた。

 動画サイトへ飛んで、自分の好きな音楽たちをかき集めたプレイリストを再生する。ほんの気休めにしかならない音楽は、幾分か落ちた気分を上げてはくれたが、だからといって自分の心を救ってくれるには何もかもが足りなかった。


 描きかけのクロッキー帳を開いて、ひたすらシャーペンを動かし続けた。描きあがっていくのは、どれもこれも夢で見た登場人物やヨルンさんばかり。

 自分から溢れ出る感情全てをそこにぶつけた。時折虚ろな目つきをした少女を描くようになった。これこそが私の正体なのだろうか。

 何枚も描き殴り続けて、ひたすら描いて描いて、描きまくった。最後に見えたのは、目つきの悪い金髪で全身真っ黒男のたくさんのポーズや表情だった。

 彼の構図、表情、手の形。それらも全てここへ吐くように描きつけた。最早私が一体何をしたいかなんて、私自身ですらわかっていなかったが、描き連ねた彼の絵はみるみるうちに出来上がっていく。


 こんなよくわからない感情のままシャーペンを握って出来上がっていく絵に、美しさなんて存在しない。芸術の目的すら見失った絵描きに、誰が期待なんてしてくれるんだろうか。

 底のない沼にずぶりずぶりとハマって、もう二度と抜け出せないような、何を描いても満足できない。納得できない。サイクルは巡りに巡って同じ所へ帰ってくる。


「死にたい」


 誰がこの気持ちを受け取ってくれるのだろう。気持ちとは裏腹に進むシャーペンの芯が折れて、やっと手が止まった。

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