第17話


「さて、わしはそろそろ」


 話飽きたのか、老猫はまた大きく伸びをしてまた歩き出した。瞬きをしたとき、またくるりと変わったその場所は、薄暗い路地裏だった。真下には段ボールがあり、その中にあの老猫はいた。丸まって、すやすやと眠っている。

 私はまたしゃがみこんで、その猫を撫でた。毛並みはふわふわと気持ちよく、すっかりくせになってしまっていた。


「にゃあ」


 たった一声だけ鳴いて、光に包まれた。この猫が、夢から覚める瞬間だ。さっきまであんなに雄弁に喋っていた猫は、もう人の言葉を話さなかった。


「仕事終了だな」


 一緒にしゃがみこんでいたことにも気付かず、彼はまた優しい顔をした。ずっとその顔だったら、幾分か怖がらずに済むのに。

 すっと立ち上がると煙草に火を付けて、煙を吐き出した。まだ扉は現れていなかった。この路地裏だけが取り残された、不思議な静寂は私を少しだけ不安に駆り立たせた。


「あの、ヨルンさん。この夢って―――」


 いつもと違う目覚め方だ。こんな夢を見るようになってから初めて、夢の外で鳴る何かの音ではっきりと目が覚めた。



 こんこん、と叩かれる音は、どうやら扉の外で鳴っているらしい。そう気付いたのは強制的にあの夢から退出して、嫌な汗を流していることが気持ち悪く感じた時だった。嫌にはっきりと目が覚めるものだから、気分はどん底のさらに下にいた。

 最後に言いかけた言葉が、今はもうあやふやになってしまっていた。私は何を言おうとしていたのだろう。

 壁の時計を見ると、今は十一時を少し過ぎたくらいで、いつもより早い目覚めに苛立ちがふつふつと湧いてきた。


「都、いい加減起きろ。ちょっと話を聞いてくれ」


 お兄ちゃんの声がよく響く。こんな朝に一体誰の許しを得て私を起こしたのだろう。湧きあがる苛立ちは、やがてはっきりとした怒りへと変わっていく。


「……何?」


「開けてくれないか」


「どうして?」


「お願いだ、話をきちんとしたいんだ」


 押しにも引きにも弱い、しかも怒りをうまくぶつけられない私は、結局カギを外して扉を開けた。そこに立っていたお兄ちゃんの目元には、うっすらとクマができていた。視線を下げて、お兄ちゃんの目が見えないように努めた。

 きっと、目が合った状態じゃ何も話せない。そんな気がした。


「さっき引っ越し業者と一緒にな、やっと荷下ろししたんだ」


「それだけ? ならもういいかな」


 扉を閉めようとドアノブに手をかけると、扉を掴むお兄ちゃんの手が閉めさせてはくれなかった。


「いや、それを言いたいんじゃないんだ。父さんたちのことだよ」


 どきりと心臓が跳ねた。嫌な汗がまたぶり返していく。昼間とはいえ、冬の寒さは一気にその汗を冷やしていく。左手首の傷は、そんな冷えを一気に吸い込んで急に痛みだした。

 流れるように部屋を出て、私たちはリビングへ向かった。


 ダイニングテーブルに座ると、ラップ掛けされたご飯はそこにあったし、リビングは綺麗なままで私とお兄ちゃんしかいなかった。

 ご飯を食べ終えるまでお兄ちゃんはしばらく口を塞いでいたが、私が手を合わせるとすぐに口を開いた。


「都はさ、この家好きか?」


「どういうこと?」


「この家はな、母さんのほうのじいちゃんとばあちゃんが買ったものなんだ。だからこの家は母さんのものってことになってる」


「それが、なに?」


「多分だけど……、父さんも母さんも、限界だと思うんだ」


 食べたものが、また戻ってきそうな一言だった。なぜか申し訳なさそうにしているお兄ちゃんが、やけに遠く感じる。


「俺は母さんを支えようと思って帰ってきた。都はどうする? もし、離婚ってことになったら」


「やめて!」


 椅子を跳ね飛ばして、ガタンッ! と大きな音が響いた。自分の声の大きさと、椅子が倒れた音も、まだ遠くに感じた。音も、色も、全てが遠くへ消えていくような錯覚があった。


「離婚なんてしない! 絶対しない! 私は、どっちに着いていくなんて考えない! 私、私は……!」


 リビングを飛び出して、部屋へ飛び込んでベッドへもぐりこんだ。

 嫌だ。そんなの嫌だ。離婚? そんなのどっかの昼ドラの話でしょ。うちの両親が離婚だなんて、そんな馬鹿な話あり得ない。

 二人が離婚しちゃったら、誰が私を―――。


「都、ごめん。急すぎたよな、悪かった」


 ベッドのそばで聞こえる声はやっぱり遠くて、真っ暗な視界がかすかににじんだ。枕に染みていく液体は、流れ落ちていくこの液体は、紛れもなく私から染み出た血だ。


「でも、片隅にでも置いててほしい。俺は絶対都の味方だから」


 それだけ伝えると、お兄ちゃんはそれ以上何も言わずに出ていった。心臓が骨と肉を突き破りそうなほど脈打つ。さっきまでの温もりがほんのりと残ったベッドの中で、声を枯らして泣いた。

 そのうち泣くことすら辛くなって、布団から這い出て力いっぱいカッターを、引いた。何度も何度も、引いた。


 血まみれになったカッターの色が戻ってきたのは、すっかり夜に染まったころだった。カギを閉めることも忘れて、閉め切った窓と傷だらけの腕を交互に見つめるだけで時間が過ぎていた。

 何もせずに、ただひたすら流れる血を見ていたはずなのに、その血は凝固してどす黒く乾いている。とても嫌な気分だった。

 部屋から出て洗面台で血を洗い流すと、傷が嫌に沁みて吐きそうになった。リビングからはとてもいい匂いがしているのに、とてもじゃないけど食べる気分にはなれなかった。

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