第15話

 目が覚めて確認した時刻はなんともう夜の一時を過ぎていた。人の眠りというのはつくづく時間間隔を狂わせる。

 お腹の中で小人が暴れ回る前に一階へ降りて食卓を見る。今日は肉じゃがらしい。昨日と全く同じようにチンして、流れるように胃に流し込んですぐに部屋に戻った。

 暖かい空気が部屋に充満していて、ずっとこの空間にいたい気持ちを加速させていく。

 ヨルンの姿はなく、このままもう会うこともなければ、夢を一緒に見ることもないのかな、と少し寂しくなった。

 デスクに向かって、でも筆は進まず、今日は諦めていつも通りTwitterのチェックをしにいく。

 まだ二時ごろということもあってか、私と交流のある人がちらほらとつぶやいていた。


『今日は全然筆が進まないので、過去のイラストあげます』


 深夜帯ということもあってそこまで伸びないツイートだが、すぐに「いいね」と「リツイート」が二十件くらいに増えた。

 こんな夜更けなのに、ありがたい限りである。それだけの人数が私のイラストを好きといってくれているのは、かなり心の支えになっていた。

 少しだけ見えた傷が、どうしようもない毎日を自覚させてくる。それが目に入るだけで、一気に現実に引き戻される気がした。


「今日も、切っちゃおう、かな」


 特に嫌なことがあったわけではない。何かを言われたわけでもない。でも、いたずらに体を傷つけることくらいしか、現実リアルで生きていくのには苦しすぎるのだ。

 あんまりにも苦しいから、別のはけ口でモヤモヤとした影を追い出そうとする。明日への不安、家族の闇、学校への恐怖。そういったものを全部自分の血液として流し切りたかった。


 零れ落ちる血が、自分の情けなさを表しているようだった。こんな陰気なやり方じゃないと、こんな影を追い出すことすらできないなんて。昨日の傷が完治していなかったからか、その傷からも血がじんわりと滲んできた。

 ふっと自嘲気味に笑ってみても、誰かが反応することはなかった。

 ただ零れる血を眺めては、いたずらに過ぎていく時間だけが夜の闇に消えていく。


 寝起きの頭は一向に働く気がなさそうなので、暖房を消していつもより早い三時過ぎに床に就いた。まだ冷たい布団の中で、ごそごそと自分の寝やすい体制を探る。ふ、とサイドボードに置きっぱなしになった携帯に触れた。指先がひんやりと冷たくなってすぐに指を引っ込めた。

 電源が切りっぱなしになっているため、薄い金属板のようにしか見えない。この携帯も、持っている意味なんてないに等しい。


 買ってもらったときはすごく嬉しくて、四六時中触っていたこともあった。LINEを登録して、Twitterも入れて、私だけの世界が手のひらにも収まるようになった! なんてはしゃいでいたっけ。

 今や無用の長物と化したこの板に、あまり未練はない。今も電源を入れようとは全く思わない。

 じわじわと私の体温と溶け合っていく布団の中で願った。明日、目が覚めませんように。



 今日は珍しく一人だった。改めて見回すと、この空間はどこまで続いているのだろう、と好奇心がうずき出す。

 どこからが壁で、どこからが床なのか。私は今浮いているのか、それとも実は逆さを向いているのかもしれない。想像しだすとなんでもできそうだ。

 まるで『不思議の国のアリス』のアリスになったような気分だった。もっとも、青いドレスに黒いリボン姿なんかではなく、いつも通りの部屋着姿なのだけれども。


「なんだ、都か」


「あ、ヨルンさん」


 真っ黒姿の彼の声が後ろから聞こえたとき、もう会うことすらないかもしれないと考えていたせいか、なぜかとてもホッとした。無造作な金髪が、今日はやけに眩しく見える。手帳を片手に、彼はまっすぐこちらへ向かって歩いてきた。


「どうした、そんな顔して。なんかあったのか?」


「いえ、特にないです。そういえばどこに行っていたんですか?」


 手帳を少しだけ見つめて、すぐに閉じた。あの手帳にはこの世の全てが記されている、のだろうか。そればっかりは私にもわからない。あまり聞くつもりもない。真っ黒な手帳というのは、なんだか少しだけ不気味だったのだ。


「ちょっとした野暮用だ」


「そ、そうですか……。では今日はどこに?」


「今日はちょっと変わった場所に行く。散歩と思ってゆっくり着いてきたらいい」


 散歩、かあ。ここ最近の出来事を考えると、かなりハードルが低くなった気がする。ずっと家に引きこもっているくせに、夢の中で誰かと関わるのはまだ大丈夫らしいと思うと、我ながら都合がいいなと笑えてくる。もちろん、少し自虐的な意味で。

 白い扉がふわりと現れてから、少しだけ彼を盗み見た。端正な顔は、いつも通りの目つきの悪い目。扉を開ける手は意外とごつごつした手で、高い身長が余計に威圧感をかもし出している。


「ヨルンさんって、実際煙草の量ってどれくらいなんですか?」


「そうだな、一日二箱くらいだ」


「結構ヘビースモーカーな人なんじゃないですか?」


「まあ、そうだな」


 目じりが下がることはなかったけれど、優しく笑った。やっぱり、私の部屋にいるときはかなり我慢をさせてしまっているらしい。家族は誰も吸わないからあまりわからないけれど、ずいぶん前に見たテレビで煙草の量について言っているのを見たことがある。

 やっぱりヨルンさんは、見た目は怖いけど優しいんだな、と再確認しながら扉をくぐった。

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