第14話
今日もお父さんはいないらしい。しかもお兄ちゃんもいないみたいだった。リビングにはこたつに入ってテレビを見ているお母さんだけだった。
もはや習慣になってしまったお昼に起きる生活を、今までお母さんが咎めることはなかった。
「おはよう。今日シーツ変えたいから、あとでお部屋に行ってもいい?」
少しだけ腫れた目が、痛々しかった。私は生返事を返して洗面所へ向かった。もこもこしたスリッパは、もう冷え切ってしまった足をほんの少しだけ温めてくれた。
自分の部屋以外ではヨルンさんは現れないらしい、と気付いたのはお腹にご飯を詰め込んでいる最中だった。
お箸を置く音と一緒にこたつから出たお母さんは、私と一緒に二階へと上がってきた。
「あら、ちゃんと綺麗にしているじゃない」
ふわりと浮かんだヨルンさんが横目に映った。ひやりとした汗が浮かぶ。もしお母さんが見たら、ひっくり返るような状況だ。
「替えのシーツ、あとで持ってくるからね。ちょっと待ってて」
ベッドのシーツを抱えると、お母さんはそのまま出て行ってしまった。本当に私以外には見えないらしい。
「母親か」
「はい」
「いい人そうだな」
返事に困った。確かにいい人ではある。私を絶対に否定したりしない。でも子供の前で夫婦喧嘩をするような親だ。私には「良い親」がどこからのラインで決められるのか、全くわからなかった。
シーツを持ってきたお母さんは、特に何も言うこともないままさっさと出ていった。カギをかけて、シーツをかけ直すともう生活に必要なことは終わってしまった。
さて、とデスクに向かうと、真っ暗な画面に映るヨルンさんは、私の後ろで視線を送っていた。
「また、絵を描くのか」
「そうですね、そのつもりです」
空中に椅子があるかのように座ると、熱心に画面をのぞき込んでいた。どうやら絵が好きみたいだった。
お父さんに言われた言葉なんて、一度寝たら忘れてしまったほど、私は今とても絵が描きたかった。
しかし描きかけのイラストは彼のものもある。うっかりフォルダを開けてしまわないようにしなければ。
私はほかの描きかけのイラストを立ち上げて、せっせと色を乗せていく作業に専念した。鉄格子に手をかけた、セーラー服の後ろ姿。まばゆい空の色は、一昨日見たあの夢の空をイメージしよう。
あぁ、この女の子の髪の長さ、昨日のアカリさんによく似ている。空の色はあの男の子の夢で見た色を再現したいな。あぁ、やっぱり楽しい。これだけが、全てを忘れさせてくれる方法だ。しかも、今参考にできているのは不思議な夢ときている。
引きこもりも存外悪くないなあとくだらないことを考えながら、私はすいすいと着色を進めていった。
ヨルンさんは私が絵を描いているときは絶対に話しかけてはこない。ただ、私が伸びをしたり、ネットを開いたりするとたまに声をかけてくる。
彼は彼なりの優しさで、私が集中しているときは黙って見守ってくれているらしかった。それはとてつもなくありがたいことだった。
だんだん出来上がっていくデジタルでのイラストに、ヨルンさんはただ後ろで眺めているだけだった。そしてひと段落ついたときに、ヨルンさんは部屋を出ていった。仕事だ、と告げて。
今がチャンスなのかもしれない、と金髪男、と名前付けされたデータを立ち上げる。線画で終わっているそのイラストに、少しだけ悩みを走らせた。さて、背景はどうしようか。
空白になっている所にペンを走らせる。『空』『ネオン街』など。どれもこれもしっくりこないまま、『白?』とだけ書いて、また唸った。何も浮かばない背景に、もはやポーズさえもしっくりこなくなってきて、キャンバスの絵を閉じてそばに置いてあったクロッキー帳を開いた。
いろんなポーズや表情を描いては消して、ああでもないこうでもないと唸っていたら、あっという間に時間が経っていた。結局何も描けないまま、晩御飯に呼びに来た母親に「今日もお腹空いてない」と嘘をついて閉じこもりっぱなしだった。
その間、ヨルンさんは帰ってこなかったけど、逆に筆も進むかもしれないとパソコンに向かい続けた。
一月の空気は夜につれてピリッと凍っていく。今日はいつにも増して冷え込みが激しい。たまらず暖房を入れてさらにじっと画面を睨んでも、やっぱり何も浮かばなかった。そうしているうちに、デスクで転寝をしてしまった。
*
私は海を泳いでいた。不思議と呼吸ができた。ずっと前に進んでいると、同じ方向で泳ぐ魚がいた。小さいころに水族館で見たアジかな、と私は近付いた。
同じ方向に渦を作るように泳ぎ続けるアジの群れに私も混じっていて、そして同じ方向へ泳ぎだした。
同じ方向に泳ぐのはとても心地よかった。それが良いことなのか悪いことなのか、それはどうでもよかった。
そうしているうちに、気付いた。全く逆方向に泳いでいることに。なんとか方向を戻そうとして、でも戻れなくて。どうしていいかわからずにいると、アジの群れは私を置いて去っていった。
でも不思議と悲しくはなかった。その代わり私を支配していたのは━━━……。
*
はっと目覚めると、真っ白なキャンバスが開きっぱなしの画面が付きっぱなしになっていた。変な体制で眠りこけていたせいか、体中が痛かった。なんの夢を見ていたのか、さっぱり覚えていなかった。
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