第11話

 一日の天辺が過ぎたころ、さすがに耐えきれなくなった腹の虫が盛大に鳴き始めたので遅すぎる夕飯を取りにリビングへ向かった。

 真っ暗なリビングはかなり冷えていて、電気をつけても、温め直したご飯を目の前にしても、温まることはなかった。

 一人でご飯を食べること自体はこの三か月でかなり慣れたほうだったが、初めて夕飯をボイコットしたことへのちょっとした罪悪感と、自分への激しい劣等感のせいであまり喉を通らなかった。

 仕方ないので半分以上残ったおかずをラップし直して冷蔵庫に仕舞った。冷蔵庫からお茶のボトルとコップを拝借して一度部屋へ戻った。

 ヨルンさんはなんと、床で眠っていた。のん気なものだ。人の、しかも若い女の部屋で堂々と眠るなんて。


 お茶とグラスをローテーブルに置いてすぐにお風呂へ向かった。もちろんお湯は抜かれているので、シャワーで済ませた。

 階段を上がって、部屋の前にあるトイレに寄って部屋に戻ろうとすると、すすり泣く声が聞こえた。多分、トイレ横の物置になっている部屋から。

 その声は聞こえないふりをして部屋へ逃げ込んだ。もういいだろう。家族と仲良しごっこなんてもうこりごりだ。

 無意識に小さなため息が二酸化炭素となって部屋いっぱいに広がった。


 新規キャンバスを立ち上げて、筆が止まる。私は、何が描きたいんだろう。こんな狂った外の世界から隔絶された部屋で、一体何を描けるというのだろう。

 ヘッドフォンで塞いでも、耳にこびりついて離れない荻原おぎわらさんの声。クラスメイトの嘲笑う声。お母さんのすすり泣く声。お父さんの怒鳴り声。たくさんの声が、私の耳を支配する。狂いそうな恐怖の中、湧き上がるのはどろどろとした赤。もう、だめだ。

 カッターを手に取り、見覚えのある傷がまた一つ。二つ。そして三つと増えて止めた。

 赤黒く染まる手首は、やがて自分の肌を汚していく。脈を打って、避けた傷跡から零れる血がたらりと垂れて、ただそれを見守っていた。


「何してるんだ」


「ひゃあっ!」


 とっさに腕を隠してカッターを放り投げた。つくづくわからない人だ。


「べ、別に! 何もしてませんけど!」


 これじゃあ「何かしていました」と言わんばかりの言い訳だ。自傷行為なんて、誰かに見られて気持ちのいいものではない。見られていたのだろうか。


「……そうか」


「と、というかよく人の部屋で寝れますね! すごいですね!」


 心臓が口から飛び出そうになった時ほど、訳のわからないことを言ってしまうんだな、と思った。

 その場で立ちっぱなしのヨルンさんは、やっぱり真顔のままふむ。と考え事をしているようだった。やっぱり目つきは少し怖い。


「仕事をしていた。俺も眠らなければ仕事ができない」


 なるほど。夢を守る、というはそんなに便利なものではないみたいだ。

 私が見えていなかっただけで、今までも近くにこういう類のものが部屋で眠っていたかもしれないと思うと、複雑な気分だ。


「というか、都は寝ないのか。もう夜中の三時だぞ」


「あともう少ししたら寝ようかなって思ってます、一応」


 彼はつくづく静かな人だった。私が何も言わなくなると、また手帳を取り出してそれっきり黙りこくっていた。

 ネットの海も深夜になるにつれてどんどん居なくなっていく人々を見送って、私もだんだん睡魔に襲われていく。瞼が今にも落ちそうだ。

 電気を消すと、瞼の奥でまたヨルンさんの姿が見えた気がした。



「またか」


 もう既に聞きなれた声が聞こえた。また真っ白な世界。


「私がここに来るのって本当になんでなんですかね」


「それが分かればもう迷惑もかけないで済む」


「迷惑ではないんです、けど」


 ぶっちゃけ自分の夢を常に覚えていることなんてほぼないことも相まって、少しだけ楽しかったりするのだ。

 誰かの家を勝手にのぞき見しているような気分だったから。彼は昨日と同じように煙草を取り出した。


「部屋では吸わないですよね」


「迷惑かと思ってな」


「何度も吸っている所を見てますけど、全然臭くないですよ。今はほんのりチョコレートの香りがします」


 真っ白の空間でもそこにあることがわかる煙を見守りながら、私の足元にはしっかりとスニーカーが履かれていた。

 これが夢だとは、全く現実味のない話だった。

 白い扉の先に、誰の夢が待っているのだろう。昨日みたいに幸せな夢だったらいいな。夢の中くらいは、誰かの幸せを享受してもいいだろう。


「……行くのか」


「もしよければ」


「ならその恰好から着替えたほうがいい、もう少しよそ行きのような恰好がいいな」


「え?」


「今日は、そういう夢だ」


 着替えろと言われても、昨日の格好から変わったところといえば、中のTシャツだけ「作業着」とプリントされたものに変わっているくらいだった。

 これも他人の仕事だ、と思って、自分の持っている中でイメージできる最大限の「よそ行き」に着替えた。

 と言っても、Tシャツとカーディガンはそのままで、下に水玉のスカートを履いただけだった。

 あの白い光。眩しい光は、扉をくぐった時も違った眩しさを放っていた。

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