第10話

 絵を描く気にもなれず、かといって今更部屋を出て食卓に着く勇気もないまま、時間だけがただ流れていった。引きこもりの一日なんて、こんなものだ。

 Twitterには既に人で賑わっていて、大好きなイラストレーターさんが何人か新作をアップしてくれていたのもあって、私の社会では幸せで溢れかえっていた。


「上手いな」


「でしょ? この人のイラスト、大好きなんです」


 後ろからまた声が聞こえる。ヨルンは時々画面を覗いては一言だけ喋る。少し乱れた前髪を整えながら、笑みが零れる。

 画面いっぱいに表示されたイラストは、晴れ渡る空に、下は反射された水っぽい場所。その真ん中にはギターを持ったセーラー服の女の子が一人。優しい顔で歌うイラスト。誰かの歌唱動画に描き下ろしたイラストらしい。その動画ももちろんチェックしにいく。

 女性ボーカルの、ゆったりしたテンポの曲だった。ピアノのラインが聞いていて心地いい。イラストとマッチしていて、少しだけ沈んだ気持ちが持ち直されていく。

 イラストの画面に戻って保存、新しい壁紙に設定し直すまでを流れるように終えると、感嘆の声が漏れた。


「すごいな、そんなことがぱっぱと出来るなんて。俺には何をしているのかさっぱりだ」


「こんなの慣れれば簡単ですよ。あ、そういえば聞きたかったことがあるんですけど、その手帳って何が書かれてるんですか? やたら私のこと書かれてたみたいですけど」


「秘匿情報だ」


「これの使い方を教えても、ですか?」


「……秘匿情報だ」


 パソコンをダシにしてもだめらしい。結構興味を持っていると思ったのに、意外と強情だ。まあでも、人間じゃない人に教えても意味ないか。ぐるぐるとネットの海に潜っても、いずれやることがなくなってしまう。

 海には住んでいるけど魚ではないから泳ぎ続けていなくたって死なない。一旦ブラウザを全て閉じて、本棚から一冊の画集を引っ張り出した。私のとっておきだった。

 アルフォンス・ミュシャ。チェコ出身の一九〇〇年代に活躍した画家で、美しい女性と凝った装飾が特徴的なポスターや、二~四連の作品などが有名なアール・ヌーヴォーを代表する画家だ。

 この画集は、専門学校の時に卒業旅行で行った大阪で、高校の入学祝いにお兄ちゃんが買ってきてくれたものだった。

 ベッドの上に寝転がって、ページをめくる。もう何度も見たたくさんの絵画が本の中で踊っている。

 色彩、デザイン、線のこだわり、女性の曲線美。どれをとってもこれに勝るものはない。


「ミュシャだな」


「これは知ってるんですね」


「あぁ」


 何度も見たはずなのに、ページをめくるたびに感嘆の息が漏れる。

 出世作の「ジスモンダ」も、「四季」シリーズも、チョコレートブランドのアマリエに描き下ろされた「夢想」も、全てが美しく感じられる。

 彼の描く女性たちはキャンバスの中で、生きているのだ。こんな絵が私にも描けたら、ゴミなんて言われずに済んだのかな。


「本当に、綺麗……」


 代表作、「黄道十二宮」は圧巻だった。横顔の女性に絢爛豪華な髪飾り。こんな豪華な絵画を、当時の人間はカレンダーに使っていたというのだから驚きだ。

 カレンダーを見るたびに、彼らは息を飲んだのだろう。今もなお人気の高いこの絵は、ミュシャ様式と呼ばれて構図として使う絵描きの人たちもいる。もちろん、私も含めて。


「そういえば俺も聞きたいことがあるんだが、絵師というのは何なんだ?」


「インターネットで絵をアップする人たちのことを総じてそう呼ぶんです」


「インターネットというのは、さっきまで使っていた機械のことか?」


「正確に言えば違いますけど、大体そうですね」


「本当に難しい時代だ」


「ヨルンさんっていつの時代の人なんですか?」


「彼と同じくらいの年代だな」


 なんと、この見た目でヨルンさんは百歳を超えているという。どう見ても二十代前半の見た目だ。そもそも人間じゃないから年を取らないのだろうか。

 というかしっかりこの場に馴染んでいるな、この人は。異常が続けば順応できるものとはよく言ったものだ。

 ミュシャの画集をたっぷり堪能したとき、隣から扉を閉める音が聞こえた。お兄ちゃんは泊っていくみたいだ。そのうち全ての荷物の手配が終わったら、きっと帰ってくるのだろう。あと何回同じような会話を続ければいいのだろう。ベッドから起き上がると、デスクに置きっぱなしの水を一口だけ飲んでまたパソコンに向かう。

 結局やることといえばこれくらいなのだ。


「都は本当にその機械が好きなんだな」


「いや、手持無沙汰だからですよ。他にやることができればきっと他の事をしていると思います」


 クリックの音と、たまに打つキーボードの音。毎日のルーティンでSNSに張り付いているが、もしこれがなければ私は本当に何をしていたのだろう。


「今日はもう絵は描かないのか?」


「今日は気分が乗らないので」


 小さく「そうか」という声を最後に、彼は黙りこくってしまった。サイトを行ったり来たり、ちょっとしたソーシャルゲームに顔を出したりしていると、あっという間に夜は更けていった。

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