第9話

 奇妙な二人の時間が流れるのは意外と早かった。というのもこのヨルンという男は、本当に喋らない。私の絵を確認したかと思えば、また手帳を開いては閉じて、また画面を覗きに来るというのを繰り返していた。


「おい」


 あれから五時間ほど経ってからようやく声がかけられた。私が休憩がてらにTwitterを開いていた時だった。手は止めず、振り返りもせずに口を開く。そこに書かれた文章は頭に入ってこなかった。


「な、なんでしょう」


みやこはここから出ないのか」


 またこれか。昨日から何度目だ。


「出ません。あなたには何も関係ないでしょ」


「それは、うん、そうだな。あと、あなたはやめてくれ」


「では何と呼べばいいんですか」


「昨日名乗っただろう」


「……ヨルンさんは、どうしてずっとここにいるんですか」


「昨日からのこの現象が何かわからないから、とりあえず同じ空間にしばらく居れば何かわかるかと思った。何か不都合でもあったか」


 吐き捨てるように投げられた言葉に、不思議と棘は感じられなかった。やっと後ろを振り返ると、空中に椅子でもあるかのように座っていた。そこまで天井も高くないので、頭が天井を突き破ってしまうのではないかと少しハラハラしていた。


「特にありません。でも昨日はすぐどこかへ行ってしまったから」


「仕事だ」


「夢を守る?」


「まあ、そんな所だ」


 じっと見つめる目は本当に透き通っていて、目つきの悪さ以外は完璧だった。神様がもしいるなら、もう少し優しい目つきにしてあげられなかったのか。でも、彼は時折とても優しい顔になる。それは昨日の夢で唯一知ったヨルンさんの素顔だった。


「今日も夢を守りに行くんですか」


「そうだな」


「夢って、誰かが守らなければならないんですか」


「弱いやつは、な」


「じゃあ私の夢はどこに消えちゃったんですか」


 眉間に指を押し当てながら、その場でくるくる回った。尻尾を追いかける黒猫のようだ。

 吐き捨てるような物の言い方のくせに、表情はコロコロ変わる人だなあ。彼は少し不器用なだけなんだろうなあ。

 窓際に置かれたベッドのふちに座って、足を組んだ。そのポーズだけだとファッション雑誌の表紙みたいだった。


「上に聞いてみる」


「上って、神様?」


「そんないいもんじゃない」


「じゃあ閻魔様?」


「そこまで悪いもんでもない。とにかく上は上だ」


 すっと目を閉じると、彼はぴくりとも動かなくなった。これは、瞑想? 電車の中で膝を組んだまま居眠りをしている人みたいだった。その顔はキャンバスの中にいるような儚さだった。

 しばらくしても動かないヨルンをよそに、私はまた途中になった自分のキャンバスに色を乗せていった。昨日の夢そっくりな草原で寝転んでいる、女の子の絵。特に女の子の作画はかなり気合を入れたほうなので、着色もかなり気合が入っていた。


 トントン、と控えめなノックで、画面上に持っていかれていた意識は一気に現実へ戻された。気付けばもうそんな時間だったのか、とドアに歩いて行ってカギを開けようとして、止まった。

 きっとお父さんも帰ってきている。お兄ちゃんとも、お昼のことがあってとても気まずい。この扉を開けたら、今度は三人の喧嘩を見せつけられる羽目になるかもしれない。


「都? ご飯、できてるわよ」


 ドアの向こうで声をかけ続けるのは、やっぱりお母さんだけだった。

 いつもならすぐに出てくる私が出てこないからか、ドアノブを何度か捻っているのが見える。どうしよう、なんて答えたらいいんだろう。こういう時、どうしたらいいのか全く見当もつかない。


「……お腹空いてないの?」


「あ、うん、空いてない」


 とっさに出た小さな嘘。顔を合わせずらい二人を目の前に食事なんて、できそうになかった。


「そう、ならまたラップでもかけておくから、お腹が空いたら食べなさい」


 足音が離れていくのを確認して、椅子へかけ直した。どっと疲れた気がした。私の家って、ここまで気を遣うようなところだったっけ。

 心に鉛玉を投げ込まれたようだった。描きかけの絵も、さっきまであんなに夢中だったのにすっかり冷めてしまった。

 どうせ、ゴミだもんな……。

 一度くせが戻ると、また習慣になってしまう厄介なものが頭をよぎる。一種の中毒みたいだ。カッターに手が伸びたとき、ふわぁと間抜けな声がベッドから聞こえた。


「よく寝た」


「寝てたんですか?」


 どんなタイミングで寝ているんだか。その場で伸びをして、すぐに大きなあくびをしていた。あくびで少し潤んだ瞳は、いつもと少し違った輝きを見せた。


「原因はわかったんですか?」


「秘匿情報らしい。俺みたいな末端には教えてくれないそうだ。全くいい迷惑だ」


「面倒くさい組織ですね」


 腕を組んでしばらく唸っていたヨルンは、吹っ切れたようにこちらに向かってきた。少しだけ昨日の最後のような優しい顔だった。


「まあ、特に問題もないから黙っているんだろう。上は皆性格が少し、いや、大分ひねくれているからな。すまない」


「どうして謝るんですか?」


「巻き込んでしまっている。現に昨日は俺の仕事を手伝わせてしまった」


「そんなことないですよ。あれは私が勝手にしただけですし、気にしないでください」


 ぽん、と頭に温かい感触がした。あ、ちゃんと触られる感覚はあるんだ、と思いながらヨルンの整った顔を眺めていた。

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