第8話

「言ってくれないとわかんないだろ。またいじめられてるのか?」


「お兄ちゃんには関係ないでしょ」


「なんだよそれ、俺が信じられないのか?」


 まるでお母さんに泣きつかれているような気分だった。悲しそうに眉を垂れるお兄ちゃんの表情が、あんまりにもお母さんと似ていたから。そんな顔されると、なんだかお母さんに責めれられているような気がして、ふつふつと反抗心がぐつぐつと煮立ってきた。視線を下げて、お兄ちゃんの顔を見ようとはしなかった。


「急に帰ってきて、私の気も知らないくせにそんなこと言わないで」


 ぐっと拳に力が入る。何もかもうまくいっていたお兄ちゃんに何を言ったって、わかってくれるわけがない。今まで私がどんな風に耐えてきたのかも、いじめられたこともないくせに。


「……出て行って」


 絞り出すように出た声は少しだけかすれていた。少しだけの沈黙の後、お兄ちゃんは持ち込んだコーラとコップを抱えて、一度こちらを振り返って、でも何も言わずに出ていった。

 部屋に残されたこの空気も一緒に持って行ってくれたらよかったのに。

 一人きりの世界に取り残された後、やっと一人になれた、と思った。お母さんともお父さんとも、お兄ちゃんとも。もう誰とも話したくなかった。


 足音が遠ざかるのを確認してからまたすぐにカギをかけた。今度こそ、家族という社会を閉ざし切ったことに安堵していたのだ。

 家族や学校という社会がなくたって、私にはもう一つの社会がある。今日は何をしようか。音楽でも漁ってみようか。

 振り返った先にあったのは、いつものデスクチェアではなく、そこに座る人影だった。


「うわっ!」


 後ずさりした拍子に壁に激突する。ずるずるとその場に座り込んで、後頭部を押さえた。昨日から頭を打ちすぎてそのうちたんこぶになりそうだ。昨日の夢で「ヨルン」と名乗った金髪男が平然とチェアに座っていたのだ。

 確かに昨日の夢でもう会うことはないって言っていたのに、さも当然という顔でその場に座り続けていた。


「な、なんであなたがここに居るの……!?」


「……なんで志筑しづきみやこも俺が見えるんだ」


 彼は昨日の最後に見た優しい顔ではなく、人を殺してきたような目つきでこちらを見ていた。その視線に体がどんどん小さくなっていくようだった。


「あの、本当にあなたは何者なんですか? 人間、ではないですよね」


「昨日見た夢みたいなのを守る存在」


「夢?」


「夢」


 夢を、守る? 夢なんて自分の頭が作り出す単純なもの。誰かに守ってもらえるなら、悪夢でうなされている人たちに手を差し伸べてあげるべきだろうに。例えば、私が見たこないだの夢とか。


「とにかく志筑都。お前はなんで俺が見えるんだよ」


「し、知りませんよ! それよりずっとフルネームで呼ばないでください……」


「じゃあなんて呼べばいいんだよ」


「都、とか?」


「じゃあ都で」


 椅子から離れると、彼はふわりと浮いたかと思うと寝転ぶような格好でふわふわと浮いていた。またあの真っ黒な手帳をぺらぺらとめくっている。一体何がどうなっているのだろう。というかなんで普通に会話しているのだろう。


「人間に見られるなんてありえない。今までこんなことは一度もなかった」


 こちらとしてはあなたが私の部屋に居座られているほうが一番怖い。ぱたん、と手帳を閉じて内ポケットに戻すと、空中で胡坐あぐらをかいた。とても難しい顔をしながら。空中に浮けるなんて、便利そうだな、なんて考えていた。

 しかし真っ黒な格好のクセに夢を守るって、いくら何でもファンシーすぎる。もう少し可愛らしい恰好でもすれば納得もいくというのに。

 考えたって何かが変わるわけではないので、もうそういうものだと頭を納得させてデスクに向かおうと立ち上がった時、「……昨日の」と、唐突に言葉が降りかかる。


「はい?」


 思わず返事をしてしまった。


「昨日のボウズの絵、上手かった」


 面と向かって人に褒められたのはいつぶりだろうか。はたしてこの不思議生命体を「人」と呼んでいいのかはわからないけど。ぎこちなさそうに頬を掻きながら、視線はうろうろと泳いでいた。


「ありがとうございます」


 ふっと笑みが零れた。やっと椅子に座った。冷たい人だと思っていたが、意外といい人なのかもしれない。

 パソコンの電源を付けると、昨日みたいに頭こそ生えてこなかったものの、後ろからの視線がとてつもなく気になる。後ろを振り返らないようにして、いつものようにSNSを巡回していく。

 一通り終わってから動画サイトを立ち上げて、適当な音楽を流す。有名アニメ会社の主題歌がオルゴールアレンジされたメドレーを見つけてクリックした。再生されてすぐ表示されたのは、私が描いたファンアートだった。


「あー……」


 すぐに音楽を止めて通報ボタンを押した。俗にいう、無断転載だった。最近やけに増えてきた気がする。連絡さえくれたらいいのに、なんでこんなことするかなあ、と心底がっかりする。


「綺麗な絵だな」


 真後ろから低い声が降ってくる。私の頭の真上にもう一つ頭があった。少し驚いたが、今度こそひっくり返らずに踏みとどまれた。


「でもこれ、無断転載だから」


「なんだそれ」


「勝手に私の絵を使っていることです」


 ふよふよとまた部屋を巡回しだした彼は、あまり興味もなさそうに部屋の本棚を眺めていた。

 またデスクに向かって、別の音楽を流す。今度こそ落ち着いた先を見つけて、またペイントソフトを立ち上げる。私が立ち上げた描きかけのイラストは、昨日の金髪男の続きではなく、別のものだった。さすがに後ろにいる状態で描くのは少し気が引ける。


「それで絵が描けるのか」


「そうですけど……」


「変わった世の中だな」


 するとまた部屋をふよふよと飛び回っていた。なぜか昨日みたいにすぐいなくなったりはしなかった。すっかり部屋に馴染んだ黒い何かとの奇妙な時間が流れていった。

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