第7話
目が覚めた時、少し目が重たかった。昨日泣いたからだろう。いつもならぼうっとした頭は、とてもすっきりしていた。
でもはっきりと夢は覚えていたし、ヨルンという男の名前もきちんと記憶していた。あの絵を描いたことだって全て覚えていた。いつも通りお昼の一時過ぎに起きたし、何も変わらないはずなのに昨日の夢のせいか、とても不思議な気分だった。
大きな伸びをして、椅子に掛けていた愛用の薄茶色のカーディガンを羽織ると、毛玉が目立ってきていた。中のTシャツだけ着替えてから一階へ降りる。
するとリビングのほうからテレビの音が聞こえた。あれ? と思いながら恐る恐る扉を開くと、お父さんの姿はなかった。そのままリビングに入ると、カーテンの光を浴びながらソファに少し久しぶりな顔が座っていた。
「あれ、お兄ちゃん帰ってたの?」
「おそよう、
眼鏡の奥で笑った目がお母さんとよく似ている。キッチンからお母さんが出てきた。
「
ふふ、と笑ったお母さんも、少し目が腫れていた。少しだけ心にちくりと刺さった。お母さんがいるなんて珍しいな、と思って近くにあったカレンダーに目をやると、今日は土曜日だった。
「さ、都も顔洗ってらっしゃい」
にっこり笑ったお母さんは、昨日のことなんてなかったように振舞っていた。お兄ちゃんがお母さんたちのことを知っているかはわからないけど、お兄ちゃんの姿を見て少しだけほっとした。
お母さんのいう通りに顔を洗って食卓につくと、朝ごはんセットが置かれていた。卵の乗ったオープンサンドにサラダにヨーグルト。今はお昼だというのに、しっかり朝ごはんセットだった。お母さんも食卓のいつもの席に座って、私と目が合った。
「昨日は、ごめんね」
一瞬目を伏せたが、すぐにこちらに視線を戻した。目の奥はかなり濁って見えた。かなり疲れ切っているように見える。
「……いいよ、大丈夫。お父さんは?」
「さあ、起きたらいなかったのよね。車がないから釣りでもいったんじゃないかしら」
がた、と立ち上がって、キッチンに逃げ込んだ。触れられたくはないらしい。あんな大喧嘩をしたのだ、それはそうなんだろう。私が携帯の電源を入れていないことを聞いてこないのと同じことだと思った。
「心、コーヒー飲む?」
「もらうー」
間延びした声が聞こえると、テレビを消して私の隣を座った。ネイビーのシャツに、白いカーディガンを羽織った線の細いお兄ちゃん。よく絵のモデルになってもらったのは、自分の兄ながら、とても映えるのだ。主に細さが。
お兄ちゃんはゲームプログラムの仕事をしている。専門学校に通って、去年の春に卒業と同時に家を出た。昔から仲は良くて、いつも背中にべったりだった。
「うまい?」
にっこりと笑ったお兄ちゃんは、肘をつきながらこちらを見ていた。噛り付いたオープンサンドを頬張りながら「うん」と返すと、お母さんがコーヒーを手渡していた。
三人の時間は穏やかだった。まるで昨日のことなんてなかったように。これからずっとお兄ちゃんがいる。それは私にとって、とても嬉しいことだった。
とはいえ、リビングですることもないので自室に戻ろうと階段を上がっていると、お兄ちゃんに声をかけられた。コーラとコップをちらつかせながら。
「ちょっと、入ってもいいか?」
断る理由もないまま、お兄ちゃんを部屋へ招き入れた。ローテーブルにコップを置いて注いでくれた。お兄ちゃんは少しだけ飲むと、すぐにコップをテーブルに置いた。
「相変わらず漫画と雑誌が多い部屋だな」
「これでも減ったほうなんだよ」
「昔からファッション誌よりイラストの雑誌買ってたもんな」
私の後ろにある本棚を覗きながら、にやりと笑って見せた。なんだか急に恥ずかしくなってきて、むっと膨れて見せる。
「いいの、絵が好きだから……」
言いながら思い出す、「ゴミ」。そんな言葉がよぎって胸が締め付けられる。苦虫を噛み潰してしまったような顔をしていると、お兄ちゃんは少し眉を下げて口を開いた。
「都、大丈夫か? 昨日のこと、母さんから聞いてさ。俺、急いで帰ってきたんだけどさ。まだ荷物とかもあるから、しばらくこっちとあっちと往復することになるけど」
「大丈夫だよ。仕方ないよ、ずっと仲悪かったんだし」
二人の喧嘩が多くなったのは、もう十年も前のことだ。少しは慣れたつもりだったけど、それはお兄ちゃんがいつも止めてくれていたからだと知ったのは、出て行ってからだった。
自嘲気味に笑ったお兄ちゃんは、またコーラに口を付けた。まるで何かを口ごもっているように。
「なあ、なんで学校行かなくなっちゃったんだ? 入学してからは結構楽しそうに行ってたのに。携帯に連絡しても全然返ってこないし」
「別に、行きたくなくなっちゃって。携帯も、特に使うことないから、さ」
私もコーラを一気に流し込んだ。本当のことを言ったって、きっとわかってもらえない。そんな気がした。
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