第5話
壁掛けの時計を見ると、もう夜中の二時半を回っていた。覚醒してすぐの頭が働くことはなく、ただぼうっと秒針が一定のリズムを刻んでいくのを眺めていた。右から左に視線を移すと、さっきまでこの扉の向こうで起こっていたことは、現実だったのだろうかと思うほど静かになっていた。
ほとんど発作的だった。
立ち上がってデスクにあるペン立てからカッターを取り出す。カチカチと繰り出した刃はぎらりと光って、なぜかとっても綺麗に見えた。
左手首の目立たなくなった傷の上に刃を乗せて、そのまま引く。じんわりと熱くなる手首から点が並ぶように血が溢れてきた。そういえば最近読んだ漫画で、体にできた傷のほうが心の傷よりもわかりやすい、みたいなことが書いていた気がする。激しく同感だ。
中学の頃から持っている見えない傷への唯一対処法だった。
正気に返ったときも、不思議と痛くはなかった。ただ少し泣きそうになって、腫れぼったい目を冷え切った手で覆い隠した。ひんやりとした感触は、熱を持った目には幾分か気持ちいい。血の伝う手首の感覚が、まだ生きているという事実を見せつけられている気がした。
少しずつまた目が熱くなってきたとき、手を離してごしごしと目をこすっても、腫れた目には痛いだけだった。ローテーブルの上に置いてあるティッシュで血をふき取って、そのまま布団に潜りこんだ。
「このまま目が覚めなければいいのに」
ふわふわと気怠い眠気が襲う。枕元にあるリモコンで電気を消して、また眠りに落ちていく。ぷつりと切れた意識はどこまでも落ちていく。抗うこともなく、落ちる感覚に身を任せていた。
*
浮遊感が唐突に途切れた。辺りは一点のシミもなく、真っ白だった。上も下もない。音だってまるでしない。どこまでこの空間が続いているのかもわからない。そんな空間に、私はいた。
なぜか、これが夢だとわかった。眠る前のスウェットに長袖Tシャツの上から羽織ったカーディガンのまま、謎の空間で「夢」と認識している私。どういうことなのか全く理解できなかった。ただ、不思議と落ち着いていた。取り乱すこともなく、ただここに居た。
「なんでここに
後ろから男性の声がした。振り返ると、昼に見た男が手帳を片手に煙草を
あり得ないというように顔をしかめている。手帳を睨みながらページをめくったり、また戻したりしている。夢に出てくるということは、やっぱり私の幻覚だったんだ。一度夢に見たことがあるとか、テレビで似たような人を見たとか、多分そんなのだ。
手帳を閉じて、目つきの悪い目がまた私を捉えた。
「まさか、そんなことあんのか? ……とりあえず早く起きてくんねぇかな、志筑都」
そんな無茶な。夢は目を覚ませ、と思って目覚められるほど簡単に終わらせられない。昼の時もずっと私のフルネームを呼び捨てにする彼は、蛙を睨む蛇のような視線を送っている。
答えられないまま、ただ茫然と立ち尽くしていると、彼は小さくため息をついた。少しだけ身構える。ため息は苦手だ。それは、一種の合図のようなものだったから。急に怖くなってきて、震えそうになった自分の体を抱きしめる。
「ここは他人の夢の中の入り口だ。だからお前がここにいることは、あり得ない」
他人の、夢? 今この瞬間に誰かが見ている夢ということか? そんな馬鹿な。だって私は今眠っていて、ここが夢だとわかっている。ということは、ここは私の夢のはずだ。
自分の足元に視線を落とすと、自分が素足ということに気付いた。もじもじと足を絡めさせて、瞬きをした瞬間に見慣れた自分のスニーカーが足元にあった。目をこすっても瞬きをしても、スニーカーがなくなることはなかった。
顔を上げると、少し難しそうな顔をした彼の顔があった。彼は煙草を一吸いして煙を吐き出すと、その煙がどんどん膨らんで一つの扉が生まれた。その扉も汚れ一つない白だった。
足が勝手に動いた。ドアノブに手をかけようとした彼のジャケットの裾をつまむ。振り返った彼は、煙草を銜えながらこちらを睨んだ。
「なに」
「あ、えっと、その……ここ、どこなんですか?」
「だから、志筑都以外の夢の中だ。俺はその夢を渡って、夢を守る」
「夢を守るって、なんですか」
「……着いてくるか」
ジャケットの裾をつまんだまま、閉ざされたままの扉を見つめた。どことなく部屋の扉と似ていた。
どうせ夢なら、この扉をくぐっても現実の世界が壊れるわけではない。先に待っているのがなにかわからないけれど、夢は覚めるから夢だ。なら、きっと向こう側だって夢だ。見慣れた部屋以外の風景も、この会話も、私の頭が作り出したものなんだから。
「い、いきます。着いていきます」
返事をするとまた扉のほうに向きなおって男が音もなく扉が開くと、かなり眩しい光が零れていた。何も言わずに歩き出した彼の後ろから恐る恐る扉をくぐった。
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