第4話

「出てこいみやこ! お前本当にどうするんだ、これから!」


 そんな怒鳴り声と激しくドアを叩く音が部屋を埋め尽くす。扉越しに伝わる振動が、私の恐怖心を駆り立たせた。


「なんで何も言わないんだ! 俺たちが何したっていうんだよ!」


「本当にやめてって! 子供に当たるなんてみっともない!」


 後ろからお母さんの震えた怒り声が聞こえる。また部屋の前で、言い合いが再開された。這いずりながらドアから距離をとる。もうやめて。私はお父さんもお母さんも、嫌いになりたくないの。自分から拒絶したけど、やっぱり大事な家族だから。だから、それ以上私の目の前で続けないで。


「大体お前が描いた絵なんてなぁ、上手くもないくせにいつまで続けていくつもりだ! そんなゴミを増やすな! それで飯食っていくつもりなのか、現実を見ろ!」


 激しい罵声は、パチン、という音で終わりを告げた。

 ドアの向こうで聞こえた破裂音は、お父さんを黙らせることには成功したが、凝視する扉がどんどん歪んでいく。どんどんぼやけていく。限界まで達したとき、頬に伝う温かい何か。

 私の一番大切なものだった。一番奪われたくないものだった。光る宝物だった。

 お父さんに初めて中学で小さい賞を取った絵を見せたとき、とても嬉しそうに頭を撫でてくれた。小さいころに描いた絵も、賞を取った絵も、どちらも家族四人を描いたものだった。今はただのゴミになった。家族を幸せにしていたと思っていた絵は、結果的に不幸にしてしまっただけ。その事実が決して割れない石のように転がっていた。


 外で起きていた壮絶な怒鳴りあいは大きな舌打ちと、一つの足音だけが階段を下りる音と共に終わった。

 頭がおかしくなってしまいそうだった。あの頃の、仲の良かった家族はもう存在しない。ここに存在しているのは、ぼろぼろの家族だけだった。


「都、ごめんね、ごめんね……うっ、うぅ……」


 お母さんのすすり泣く声が、どうしようもなく情けなくて、それと同時に申し訳なかった。私だって、踏み出したい。でも、どうしてもさっきまでドアの前で繰り広げられた惨劇が邪魔して、カギを開ける勇気を出してはくれなかった。

 膝に頭を埋めながら、湧き上がる自分のせいだという気持ちが膨らんで、もう何もわからなくなってしまった。



 天気のいい日差しが机を照らしていた。見慣れた高校の教室だ。何も変わらない楽しい日常の中に私はいた。

 きちんと制服を着ていて、私は友達と他愛のない会話をしていた。明日の小テスト嫌だね、なんて言いあいながら。そんな会話の途中なのに、席を立つ友達。

 どうしてだろう、と思うと、そこに立っていたのは中学時代の制服を着た荻原おぎわらさんがいた。あの頃の面影のまま、セミロングの髪を指で遊びながら。気付けばここは高校じゃなく、中学の教室だった。


「シヅ菌、なんでそんなとこで座ってんのぉ? 菌は菌らしくさっさと死ねよ」


 私も中学の制服を着て、荻原さんを見上げていた。あの頃の私が、そこにいた中学の頃の忌まわしいあだ名と一緒にフラッシュバックする記憶。

 机の上には乱暴な字で「死ね」とか「シヅ菌消えろ」とか「ブス」とかで埋め尽くされている。机の中にあったはずの教科書はなくて、代わりにゴキブリのおもちゃが大量に詰め込まれて、零れ出てくる。ひっ、と声を上げて顔を上げると、机には花瓶が置かれて菊の花が挿さっていた。

 描いていたスケッチブックを汚いと放り投げられ、目の前で破かれる。男子たちにサンドバックにされ、殴られる。殴られた拍子に血が出ると、また「シヅ菌だ」、と蹴り飛ばされる。トイレに入ると上から水が降ってきて、体育の時は必ず足を引っかけられる。

 送られてくるLINEは決まって「死ね」。突然知らないおじさんから汚いものが映った写真と、「早く会いたいよ、都ちゃん」と送られてきていた。いたずら電話は気持ち悪いおじさんばかりだった。


 ぐるぐると変わっていく場面に酔いそうになったとき、自宅のリビングにいた。お父さんがソファに座って笑いながら私に話しかけていた。お兄ちゃんも隣に座って同じように笑っていた。お母さんもキッチンから小気味のいい包丁の音を響かせている。

 なんだ、夢かと胸を撫で下ろして、手に持っていた私が描いた家族四人の絵をお父さんに見せようと紙を渡した。


「これね、お父さんとお母さんとお兄ちゃんと私を描いたんだよ。賞も取れたの!」


 それを受け取ったお父さんの優しく笑っていた顔は面影もなく、眉間にしわを寄せていた。お父さんの表情の中で一番嫌いな顔つきで、渡した紙を破りながら言い放つ。


「ゴミだ」



 はっと気が付くと、私は真冬だというのに、べたべたとまとわりつく汗が気持ち悪い。つけっぱなしの電気のせいで今の時間がわからなかったけれど、まだ夜なのかカーテンの色が浮きだって見えた。泣き疲れてそのまま寝てしまっていたらしい。

 とんでもない悪夢を見てしまった。でも、あながち間違いではない光景だった。

 きっと荻原さんがいる高校には、もう既に私の居場所なんてない。クラスの中心になることが得意な彼女だ。また同じようなことが繰り返されるんだ。家族だって、もう元には戻らない。全部、私のせいだ。私が弱くて何もできないから悪いんだ。こんな出来事のほうが夢だったらいいのに。


「……死にたい」


 ぽつりと出た、小さな本音。空気に触れてふわりと漂い、そして消えた。世界がこの部屋だけになってからもう三か月が経った。いつまでもこのままなのだろうか。まあ、それも……いいのかもしれない。こんな私に生きている価値なんてこれっぽちもないのだから。

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