第3話

 ネットのサーフィンを乗りこなしながら、あのよくわからない男の線画が終わるころには、デスクの後ろにあるカーテンをすり抜けて差し込んでいた光はなく、すでに右下の時計には八時を示そうかとしていた。

 椅子の上でぐっと伸びをしていると、控えめなノックが聞こえた。


みやこ? ご飯、できたわよ」


 カギをかけた扉は両親を拒絶した証だった。喧嘩ばかりの二人には、もう何も頼らないと決めた。私なりのちょっとした反抗だった。最初の頃はカギをかけていたことを怒られもした。

 こんな時、お兄ちゃんが家にいてくれたら止めてくれたのかな。無言の代わりに、カギを開けるといつも通り勝手に扉が開けられる。

 申し訳なさそうな、でもどこか悲しそうに微笑むお母さんがいた。後ろで縛られた髪は、私と似て少しだけくせ毛っぽくうねっている。ぱっと顔を逸らして意味もなく廊下のフローリングを見つめる。


「先、行ってるね」


 ぎこちなくそう伝えられて、靴下だけで歩いていく。お母さんの背中がとても小さくて細く見えた。また痩せてしまったのではないだろうか。

 でも、私だって辛い。お母さんたちが喧嘩している声を毎日聞かされて、もううんざりなのだ。

 リビングに入ると、お父さんがもう既におかずを突いていた。眼鏡の奥の目に、家族を映し出してはいない。無表情でお箸を動かし続けていた。

 いつからだろう、大皿に盛られたおかずを皆で取り合わなくなったのは。皆揃って「いただきます」を言わなくなったのは。会話がなくなったのは。席に座るとお母さんが二人分のお茶碗を渡してくれた。


「いただきます」


 お母さんと二人だけの号令。何も言わないお父さん。無言の空間が支配する食卓。すっかり慣れてしまったが、最近は特に肩身が狭く感じる。


「おい、都」


 珍しくお父さんが口を開いた。すでにお箸を置いてがっしりとした腕は組まれていた。引きこもってからというもの、会話らしい会話をしなさ過ぎて、思わず箸が止まる。いつもお父さんの声を聞くのは、自室の扉を突き抜けて聞こえる、お母さんへの怒鳴り声くらいだった。


「な、なに?」


「学校はもう行かないのか」


「……わかんない」


「はぁ……」


 あからさまに吐かれた大きなため息に、びくっと肩を震わせた。昔から怒っているときのクセだった。その後待っているのはもちろん説教だった。下を向きながら、サラダに手を付ける。泥の味がした。


「いい加減にしないと留年するぞ。なにがあったのか知らんが、お前がそんなだとお父さんたちも周りからなんて言われるかわかってるのか」


「ごめんなさい」


 ちらりと顔を見ると、やっぱりお父さんの眉間にはしわがだんだん寄っていっていた。せっかく揚げたてだったであろうとんかつが、どんどん冷え切っていきそうな、冷酷な沈黙だった。


「いい加減にしないと出て行ってもらうぞ。ろくに部屋からも出てこないし、俺は心配して言ってるんだぞ」


 心配なんて嘘だ。引きこもってから三か月経った今だって、ドアをノックしてくれるのも、寝る前にノックして「おやすみ」と声をかけてくれるのも、お母さんだけなのだから。

 お父さんが心配しているのは私じゃなくて、世間とやらの体裁でしょ。

 そんな言葉をご飯と一緒に飲み込んでいく。また、泥の味がした。カチャ、とお箸の置かれた音が隣から響いた。やけに大きく聞こえる。


「やめて、ご飯中に。ご飯がまずくなっちゃうでしょ、都も気にせずにさっさと食べちゃいなさい。せっかく作ったんだから」


「元はといえばお前の育て方だろう。俺はこんな事の為に働いてるんじゃないんだぞ!」


「なんでそうなるの、子供は二人で育てていくものでしょ! それに私だって働いてる、あなたと立場はほぼ同じじゃない!」


「ならお前もちょっとはこいつに学校へ行けと言えんのか! お前はいつも何してるんだよ!」


 久しぶりに直接見た、二人の大喧嘩。いつも扉越しで、始まったらヘッドフォンをつけていたから、見ることはほぼなかった。

 しかも目の前で繰り広げられているのは紛れもなく私のことなのだ。どんどん口の中が酸っぱくなっていく。下に広がる自分のご飯に手をつけることは、もうできなかった。


「ふ、二人とも落ち着いて……私が悪いから、本当にごめんなさい」


「うるさい! 元はといえば都が悪いんだろうが!」


「やめてって言ってるじゃない!」


 そのタイミングで、私は勢いよく席を立った。突然のことに怒鳴りあう声が一瞬止んだ。目頭がだんだん熱くなっていく。私のせいで、また喧嘩させてしまった。見なくても突き刺さる二人の視線。


「……本当に、ごめんなさい」


 バタバタと階段を駆け上がった。自室に逃げ帰ってカギを閉めて、ずるずるとそのままへたり込んでしまった。ぽろぽろと溢れた涙は、羽織っていたカーディガンの袖を濡らしていく。扉を背に座っていたせいで、いつもより大きく喧嘩の声が聞こえる。階段の近い部屋を、今は呪う。耳を塞いだってそんな抵抗が無駄なことくらい、わかっていた。

 こうなってしまったのは、私がこもりだしてから余計に増えた気がする。全部、私が悪いんだ。自己嫌悪の渦に飲み込まれそうになった時、近づいてくる足音があった。ドンドン、と力強く叩かれた扉が、お母さんじゃないことを物語っていた。

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