第2話

 この部屋から出ることを諦めたとき、両親は私のことも諦めてしまったらしい。あんなにうるさかったお母さんは、もう「学校へ行け」と言わなくなった。

 リビングにも両親の部屋にもトイレでさえも、私の居場所なんてどこにもないような気がした。仕方ない。自分から閉ざしてしまったのだから。


 私の一日はお昼から始まり、夜明け前に終わる。閉め切っているはずのカーテンをすり抜けて、せっかく見ていた夢を中断させられた。何を見ていたかは思い出せないけど。

 重い瞼を開けて、あぁ、今日も目覚めてしまった、なんて思いながら、一階に降りる。靴下をはき忘れたせいで、スリッパ越しから冷気が忍び込んで足をくすぐった。

 洗面所で水がお湯になるまでの時間。流れる水を見るのも飽きて鏡を見ると、そこには当たり前のように自分が映っていた。

 伸びっぱなしの髪はぼさぼさでせっかく肩までかからないほどをキープしていたのに、すっかり肩につくようになってしまった。前髪ももちろん伸び放題で、鬱陶しくて仕方ない。くっきりとついたクマができて、自信のなさそうな目つきをした情けない顔の私が映っていた。なんだか無性に腹が立ってきて、顔を洗ってすぐに洗面所を後にした。

 閉め切られたカーテンはそのままに、薄暗いリビングの電気をつけた。テーブルの上に置かれた、ラップがかけられたご飯を温めなおす。今日は何をしようか。毎日同じことを考えながら、大体同じような一日が過ぎていく。さっきまでくすぐっていた冷気はだんだん本気を出してきたのか、徐々に足先を凍らせていった。


 さっさと済ませて自室へ戻ると、すぐにいつもの椅子に腰かけてパソコンの電源を入れた。

 描きかけのイラストの一時保存状態のアイコンが放置されたまま、アイコン化されているウェブサイトを立ち上げ、Twitterのログイン画面へ軽快にIDとパスワードを打ち込んでエンターキーを押した、その時だった。

 画面から、金色の頭が生えてきた。もちろん、文字通りの意味で。


「ひぇっ……⁉」


 その頃には天井が見えていた。そのまま椅子ごとひっくり返ったらしい。後頭部に鈍痛が走り、視界がチカチカする。後ろにある小さめのローテーブルに頭をぶつけなくて、本当に良かった。

 電気の光を受けていたのに、急に影が差さる。金髪頭の男だ。見間違いなんかじゃないといわんばかりに、男が私を見下ろしていた。


志筑しづきみやこ、十七歳。いじめのきっかけである荻原おぎわら香織かおりが転校してきたことによるショックで引きこもり始めて三か月と三日。SNSではそこそこ人気な……絵師?」


 顔を上げて真っ黒な手帳を片手にぶつぶつと私の個人情報を喋り始めた。見知らぬ男が急に現れて困惑しない人間がいるなら引きずってでも連れてきてほしい。

 倒れたまま、私は金髪黒ずくめ男と目が合う。男が青色の瞳を丸くしていた。その表情は私が作るのが正解なのではないだろうか。


「まさか志筑都、お前、俺が見えるのか?」

 

 ぶっきらぼうに私のフルネームを呼び捨てにする男に、返答することはなかった。というより、動転して声がでてこなかった。転んだままの状態からようやく上半身だけ起こして、散らかった前髪をさっと直す。

 ちらりと盗み見ると、全身真っ黒のスーツだった。ジャケットはもちろん、シャツもネクタイも黒という徹底ぶりだった。金髪の髪をくしゃくしゃと掻いきながら手帳と私で何度も見比べている。

 というか、その手帳は何なんだろう。人の個人情報がびっしりと書かれているなんて。一体何がどこまで書かれているのか見当もつかない。そもそもこの男はどうやって入ってきたんだ?

 もしかして、引きこもりすぎて見え始めた幻覚? 頭の中をハテナマークが飛び交っていく。


「まさか、な」


 呟かれた言葉とともに、閉め切られたカーテンをすり抜けて、あの謎の男はいなくなった。男が居たことなんて嘘だったかのように。


「な、なんだったの……? 本当に幻覚見ちゃったのかな」


 ようやく椅子を起こして座りなおす。

 しばらく呆けていても、元の静けさがあるだけだった。またさっきのようなとんでも現象なんて起きるはずもなく、まだ少しうるさい心臓をなだめるため、さっきのは幻覚だと納得することにした。むしろそれ以外になにがあるというのだろう。


 パソコンの画面はしっかり自分の分身であるルナのタイムラインに切り替わっていた。通知アイコンには赤い丸の中に三十二、と書かれている。昨日アップしたイラストの評判かな、とリプライにせっせと返事を書いていた。

 お年玉を貯めて買ったペンタブレットでイラストを載せるようになって早四年。中学の頃から使っているアカウントは加速度こそないものの、じわじわとフォロワーが増えて今や三千人を超えた。時折描いたイラストや水彩のイラストが誰かに評価されることが増えたことはとてもうれしい。芸術の目的は、私の思う美しくて綺麗なものを輝かせるためだと、思うから。

 自分で描いたイラストは、生みの親である私の分身のようなものだ。私が死んでも残るのは、少し恥ずかしい気もするけれど。


 やっぱり昼間はタイムラインの動きもスローだ。ここにいるみんなにも現実リアルがあって、その現実リアル仮想ネットを使い分けて生きているのだ。私とは違う。

 一通り返事を返し切ってから最小化ボタンを押して、ペイントソフトを立ち上げる。新規作成した真っ白なキャンバスに、私は自然とさっきの幻覚で見た男を描き始めていた。

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