第27話 蛇竜(前)

 クィスが回復し、イェスイとイェスゲンのもとを去ることになったのは、その二日後のことだった。空は青く、草原の草からは日の光を浴びてもやが立ち上っている。


「イェスイさん、大変お世話になりました。私は旅の商人で、個人に差し上げて喜ばれるようなものは持っておりません。ですが、せめてクィスの面倒を見ていただいたお礼としてこれらをお受け取り下さい」


 ぱおの外に見送りに出てきてくれたイェスイに対して、ユングヴィが荷物から事前に取りだしてまとめておいたものを持ってくる。金色の糸で刺繍された群青色の帯、エルフらしい植物模様の細工で作られた小刀、そして硝子玉の首飾り。ユングヴィが引き連れている駄獣から、馬一頭も寄贈した。元々はマンらが使役していた個体だが、家畜は遊牧民にとって財産そのものだ。昨夜、二人で話し合って決めた品々だ。お礼としては高価だが、イェスイとイェスゲンの二人暮らしで決して裕福とは言えない中で、もてなしてくれたことを考えて用意した。


「そんなとても受け取れません! 普通のことをしただけですよ?」


 イェスイを太陽の下で見たのは初めてではないだろうか。伊塞いさい人の黒い詰襟の上着と黒いズボン、そして衣服についた赤い菱形の模様と白い肌が鮮やかに対比される。目尻など皺がはっきり刻まれて、また赤く荒れた手が日ごろの苦労を偲ばせる。だが、その表情豊かな草色の瞳にこそ彼女の人格の本質が宿っているのだろう。まるではしゃぐ少女のような色がそこにあった。


「ご存じですか? エルフは、我々は義理と戦いからは決して逃げないことを美徳としております。クィスは大切な仲間です。それを助けていただいたお礼はちゃんとしたいのです。本当にお世話になりました」


 ユングヴィがお礼の言葉を言い終わらないうちに、クィスがイェスイに抱き着く。クィスは涙ぐんでいた。


「おば……イェスイお姉さん、XXXになりました! XXX、たくさん迷惑をXXX……絶対また来る! お土産持って、絶対にXXX会いに来るから!」


 クィスは最後の方は泣いてばかりで何を言っているのか良く分からなかった。いつの間にかイェスイももらい泣きしている。


「クィスちゃん……ほんとにこの数日間、私に、私に娘ができたみたいんで……」


 そう言われて感極まったクィスの涙腺が大崩壊する。


「XXX! うわぁぁん!」

「でもね、クィスちゃん、私まだおばちゃんじゃないからねぇ!」


 前にもこんな光景があった。クィスの泣き顔を見る度に、佐成サセイはこの子が屈折した強気さの奥に隠している、優しく柔らかい光を見るような思いだった。


「これ、私の部族のお守り!」


 クィスはいつも身に付けている藍い小石がじゃらじゃらとつなげられた腕飾りをイェスイに差し出した。


「絶対また来る……来るから!」

「いつでもおいで……私の可愛い娘」


 クィスがイェスイから離れるまで、それからまたかなりの時間を要した。だが、クィスの家族への思いを思い起こせば、佐成サセイもユングヴィもいくらでもクィスを待つことができた。


 イェスイとはそこで別れたが、イェスゲンが馬に乗って途中まで見送ってくれた。


「見送りはここまでだ。ではな、客人。」

「イェスゲンもありがとう!」

「イェスイさんともども、お体に気を付けて」


 クィスとユングヴィがイェスゲンに感謝の言葉を述べる。


「お世話になりました」


 佐成サセイの言葉にも、イェスゲンは少し微笑んでうなずいてくれた。あまり感情を出さない人物だが、イェスゲンなりに別れを惜しんでくれているらしい。この少年の草色の目が少し寂し気だった。


「今年はかにが多いらしい。この道には出て来ないと思うが気を付けられよ」

かに?」


 イェスゲンの忠告に、思わず佐成サセイが問い返す。ここは砂漠だ。かになんていそうにない。川はまだあるだろうが、気を付けるようなかにがいるとしたら、それは海や湖の主のような個体ではないだろうか。


「知らないのか? この辺りのかには荒野の狼だ。砂の下から、岩の陰からのぞく目に気を付けろ。追いつかれたら酒をかけろ」


 佐成サセイの脳裏に浮かぶかには故郷の小川に住んでいた小さなかにか、料理屋で出される蒸した大きなかにだ。気を付けなければいけないかになんて聞いたことがない。かにが荒野の狼とはどういうことだろうか。


「なんだいユングヴィ、かにってそんなに危険なのかい?」

「いや、私の故郷では塩ゆでにする」


 冗談のつもりなのか、ユングヴィも分からないのか、そんなことを軽く言っていた。


「出会えば分かるが、出会わないことを祈ろう……では、客人の行き先に幸運があらんことを」


 イェスゲンとはここで別れた。クィスが何度か振り返る。イェスゲンは別れたその場所で、ずっとこちらを見ていてくれた。距離が離れ、遠くに黒い点にしか見えなくなっても、見送っていてくれた。こうやって振り返っている我々の姿も、あの眼のよい遊牧民にははっきりと見えているのだろうか。



   ◇



「これはすごい景色だな……仙人でも出てきそうだ……」


 佐成サセイは感嘆の声を挙げた。イェスイらのもとを離れて二日後、我々は荒れ果てた平原と幾つかの丘を越えて、石だらけの荒野に出た。石と言っても転石ではない。まるで塔のような形状の巨石群が高く林立し、石塔の林を作り上げていた。一体、いかなる自然の力、あるいは神仙の力が働いたらこのような奇観が生まれるのだろうか。


「これ神様かXXXの作った神殿なんじゃないの?」


 クィスが途方もないことを言うが、そうも思えそうな景観であることは間違いない。石塔の間の距離はばらばらだが、だいたい馬数頭が横に並んで通れるような間隔だった。


「行こう」


 ユングヴィが合図をして、馬やラクダが静々と石塔の林に入っていく。ふと上空を見ると、青空が林立する石塔に分割されている。石造りの大神殿の廃墟から空を見上げているかのような感覚だった。数時間も進むと、相変わらず周囲は巨石の石塔が林立しているものの、少し開けた場所に到達した。


「ここで一休みしよう。このまま進めば明日には川のほとりに出る」


 ユングヴィが休憩を指示する。佐成サセイは真っ先に馬から降りて荷降ろしを始めた。クィスが、自分が長く休んでいたことを気にしているのか、無理して動こうとするのだ。


「クィス、君は病み上がりなんだ。ちゃんと休みなさい。ひと眠りしたらどうだい?」

「そこまでじゃないわ!」


 ユングヴィとクィスのやり取りを横に、佐成サセイは馬やラクダに食べさせられる植物を探そうとこの広場を歩きまわってみた。できれば汁気の多いものが欲しい。

 ふと、何か人工的に草や植物の繊維を敷きつめられた場所があった。明らかに生物の手が加わっているが、敷き詰められていたであろう植物が散乱しており、まるで放棄されて時間が経った巣のようだった。草や植物の繊維だけでなく、金属の欠片や装飾具などきらきら光るものが散乱していた。生き物が好きな佐成サセイはつい、引き寄せられてしまう。


「なんだ、鳥の巣か?」


 鳥の中には光る物を集めたいという欲求を持ち、祠堂の金属製の装飾や、富豪が好む蒼銀の腕輪などを盗んでは巣に集めるものがあるという。一つ二つ拾ってみると、矢じりや横刀の鞘の金具の一部などもあった。身に帯びる玉飾りもあった。玉は石より磨かれたものとして、貴族の象徴とされる。どこから持って来たのだろう。


「これは……印?」


 参軍さんぐんの字が掘られたぴかぴかの鉄印だった。たくではその役職に応じた印を授与される。印の存在がその者の役職の証明になり、その印を規定に従って押すことで書類の効果が発揮される。


 まだ新しい矢じりに、印、それも参軍さんぐんの印となると遠征軍のものか……?


 佐成サセイの予想が正しいとすると、自分が所属していた軍を襲った竜ということになる。蘇延ソエン以外の軍を襲った可能性もある。鉄印を見つめながらそんなことを考えていると、視界の隅、岩陰で何かが煌めいた。光沢のある何かがゆらりと動き、佐成サセイははっと横刀に手をやって飛び退く。


「なんだこれ……?」


 そこにあったのは抜け殻だった。何か大きな生き物の抜け殻が風に揺れていたのだ。人の背丈くらいはありそうだが、皮がくしゃっと潰れていて分からない。だが、佐成サセイはすぐにそれが何であるか気が付いた。おそらくはその皮の胸部のあたりに、びっしりと黒い光沢のある鱗状のものが貼りついていたからだ。それは以前、蘇延ソエンの陣で見かけた、あの黒い鱗によく似ていた。


 佐成サセイは手を伸ばして、抜け殻にふさふさとついているこの黒い鱗を一枚剥がしてみた。黒く、結晶のように光を反射する。


佐成サセイ、どうかしたのかい?」

「すまん、ちょっと後で!」


 佐成サセイはユングヴィにろくに返事もせず、自分の革袋からあの時に拾った黒い鱗を取り出した。そして、今さっきちぎったものを見比べる。

 

 間違いない。あの時に拾った黒い鱗と同じものだった。ただ、それがこの抜け殻に密集していた。


「あいつ……脱皮したのか?」


 佐成サセイの脳裏に蘇延ソエンの陣で出くわしたあの細長い、藍色の竜が、あいつの黄色い瞳が鮮やかに蘇る。あの時の恐怖の感情もするすると地面から滑り込むように背中に戻って来た。


 いや……


 あいつは確かに黒い鱗に反応していた。まるで大事な物とでも言うかのように、顔をこすりつけていた。しかし、あいつ自身にはこの黒い鱗は生えていなかった。


 この脱皮殻の主が、あの竜どもの餌なのか?


「おいってば」

「ひゃああっ!」


 ユングヴィの手が突然、肩に置かれ、佐成サセイは飛び上がるほど驚いた。


「びっくりしたなぁ!」

「いや、だから何しているんだい?」


 佐成サセイはこの鱗について知っていること、自分が予測したことをユングヴィに語って聞かせた。


「では、君がこいつが正体不明の生き物の抜け殻で、この黒い鱗におびき寄せられてその竜が来る可能性があると?」

「俺が見た地点もちょうどこんな風に、巣みたいになっていたんだ」


 佐成サセイとユングヴィが辺りをぐるっと見回す。佐成サセイはどことなく不安を覚えていた。鼻は良い方ではないが、何か嫌な雰囲気が漂っているような気がするのだ。ユングヴィも同じ思いなのだろうか。どことなく落ち着かない様子だ。


「もし、そいつに襲われたらどうやって戦えばいい? 逃げればいい? 佐成サセイ?」


 佐成サセイは腕を組んでうーんとうなった。以前、自分がでくわした光景を必死に思い出す。鞭のようにしなる尾と口から出す毒液のようなものには注意が必要だ。人間よりも大きな体をしている以上、接近戦は推奨されない。確か矢は刺さる。刺さるが一本、二本では絶命しなかった。


「あの鱗には何か誘引されているみたいなんだ」


 鱗を活用すれば誘き出して攻撃することもできるかもしれない。


「それが確かだとして、鱗に気を取られているところを矢で射ろってことかい?」


 だが、そのために鱗を大量に持ち歩くこと自体が、あいつらを誘引しそうで怖い。


「以前、ユングヴィ、貴方はあの巨鳥を倒した。覚えているか、鳥葬の丘の。貴方ならあの竜とも戦えるとは思う。だが、相手は空を飛ぶ」

「……すると、空からの奇襲が怖い?」


 佐成サセイは周囲を見渡した。依然として、この巨石が立ち並ぶ石塔の林は静かだった。


「それもあるが空を飛ぶということは、骨格はそこまで頑丈じゃないと思う」


 以前、イェスゲンが狩りで捕らえた鳥を何種類か佐成サセイたちにご馳走してくれたが、鳥の骨というのは意外なほど軽い。飛ぶために骨の材料が軽いのだと言う者もいるが、あの竜も空を飛んでいた以上、重くて頑丈な骨は持っていないだろう。


「なら、先に見つけて射ってしまえば……」


 ユングヴィがそう言い終わるか終わらないうちに不思議な声が遠くから響いた。どこか赤子の鳴き声のようだが、それにしては音が低い。だが、いつしか遭遇したあの竜の声にどこか似ていた。佐成サセイの顔が強張る。


「ユングヴィ、移動しよう。やつかもしれない……!」


 もう一度、同じ声が響いた。さらに別の声が響く。音程が少し違う。


 まさか二匹いるのか……!


 佐成の首筋を冷たい汗が流れた。

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