第21話 回想の渓谷(一)
イェスイは我々に小さな
「かたっ……かったいな、これ……」
「親子、いや親子ではなかったか、だが二人では生活していくのも大変だろうに。こうも世話を焼かれてはあり難いを越えて申し訳ない」
かたい乳製品をかじりながら、包の隅に寄りかかるように座っているユングヴィに話し掛けた。ユングヴィは難しそうな表情をしたまま黙ってうなずく。右手がくるくると編み込んだ金髪をいじっている。
「……どうかしたので? ずっと何やら考え込んでいるみたいだ」
「うん……いや、これからのことさ……」
ユングヴィはまあこっちに来いと仕草で示す。言われるがままに近くに座るとすっと革袋を取り出した。少し酒臭い。
「なんだ、飲んでたのかい?」
「酒飲んでバカ騒ぎは得意じゃないんだけど、しんみり話すのは嫌いじゃないんだ。さ、
薄暗い夕方の包の中で、ユングヴィの少し赤らんだ白皙の頬が、緑色の
「
「悪いが俺は羊とか犬とか、四足で歩く動物にはあまり興味がないんだ」
「へぇ、何に興味があるんだい? 鳥とか?」
自分の中で魅かれる生き物とは何だろうか? 子供の頃に、蟹を飼ったことはある。脱皮直後に触り過ぎてハサミの形が歪んでしまい、大変申し訳なく思った。
「そうだな、鳥も悪くないが魚とか虫とか貝とか蟹とか……血が暖かくない連中かな?」
その答えにユングヴィの表情が曇る。
「……ああ、そう。じゃあ人間もダメなのかい?」
「人間は二本足だが……そうだなぁ、じっくり見るには虫のがいいな」
「……」
ユングヴィの表情がさらに曇った。
「まあ、気を取り直して飲もうか」
ユングヴィは、
「少し暗くなってきたね」
ユングヴィは後ろにまとめ置きしている荷物から、さび付いた古い金属製の四角い壺を取り出す。不思議なことに、壺は上方だけでなく、水平方向にも四つの窓があり、そこから静かな銀色の光が漏れていた。
「なんだいこれ?」
「見たことないかな? 西のとある国で作られている照明器具だよ。
「へぇ、そんな便利なものが……」
壺ではなく、
「ユングヴィ、貴方は何のためにクィスを連れて来たんだ?」
杯を傾け、ユングヴィが注いでくれた酒を少し口に含む。飲み込む時、懐かしい香りがのどの奥に広がる。不思議な酒だった。
「そうだなぁ、あの目は断れなかったからかなぁ」
ユングヴィは
「ダルコト渓谷って知ってるかい? この国の西の山岳地帯にある景色が美しい渓谷なんだ」
「うーん、古書に見る
ユングヴィは懐かしそうに語りだす。そして、その日はあたりがすっかり暗くなるまで、ユングヴィとクィスの出会いのことを語って聞かせてくれた。
◇
「へい、では旦那様はルームから来た商人で?」
風に愛された谷に住む、風の民という呼称を持つアオルシ族、その村の一つへと続く野道の途中で出会った羊飼いの男が不審そうにこちらを見ていた。男は灰色のゆったりした長衣とすらりとした白い
「ええ、その通りです。村長さんとか、この集落の責任者っていらっしゃいますか?」
その日は晩秋の冷たい風が足元を駆け抜けていくよく晴れた日だった。この渓谷はほぼ南北に走っており、両側はほとんど樹木のない褐色が広がりつつある草原が、比喩ではなく麓から山頂まで続いている。東と南の方角には遠くに天を支えているのではないかと思うくらい高くそびえ立った山並みが威圧するかのようにそびえていた。山々の色は青灰色で、いずれの山もその頂上は白く雪を冠のように掲げている。まるで山の神の諸侯が居並び、下界を
「旦那様はあんまり見かけない顔だちをしてますな」
羊飼いが良く日に焼けた顔でこちらをじろじろと見つめる。ユングヴィは笑顔で応じた。
ここまで来るエルフは珍しいのだろう。とは言っても東方に旅をしたり、遠征したエルフの伝承はそれなりにエルフの世界では伝わってはいるのだが。
「まず、うちの親父に相談し、村長に取り継いでいただきます。それでよろしいで?」
もう一度笑顔を作ってうなずいた。権力者や代表に挨拶をすることは、商人にとって必須だ。そして、そのために取り継いでもらうことは同じくらい大事だ。たいてい、どこの国や部族でも取次役とのやり取りがうまくいかないと権力者に会えない。場所によっては、無能な権力者よりもその取次の方が実質的な権力を持っていることもある。
「こっちに」
男は一緒に羊の番をしていた少年に後を任せると、ユングヴィを案内すべく歩きだした。ついていけば良いのだろう。男と一緒に歩きながら、周囲を見渡す。所々岩盤が露出した草原で草を食む羊たち……いや、むしろ岩盤に必死にしがみついている草原とでも表現すべきだろう。それくらい、露出した岩が目立ち、ごつごつとした景観を作っていた。下方に見える谷の広くなった部分には、灰色の石でできた小屋がぽつぽつと散発的に建っている。あれがアオルシ族の家なのだろう。近くで見ると、木で梁を組み、壁として石が積まれていた。石の大きさは大小さまざまであり、拾ってきたものをそのまま積んでいるようだ。削ったり、形をそろえたりと言った加工はされていない。その上からコケのようなものを積んで屋根としている。コケにしては長く、一見草のようだが、近くで見るとやはりコケなのだろうといった質感だった。家屋の全体の形は長方形で、ここを旅するのが初めてでなければその貧相さに野宿の一時的な小屋なのかと思ってしまっていただろう。
「旅のお方、青い空の下よく参られた。」
男の親父と言うのは、人懐っこいまんまるの瞳を持った男性だった。頬から顎にかけて短い髭が生えている。頭部の灰色の頭巾には、男と同じ、魚の
「おなかは空いておられますか? どうぞどうぞ、どれでも安くします。旦那様は遠方から来られた友人ですからね、特別、特別な値段です!」
ユングヴィは笑顔で応対しながらも内心うんざりしていた。いきなり物を売りつけてくる、商魂たくましいというべきだが、このような相手からこちらを「友人」呼ばわりしてくるのはたいていこちらを「金」と思っている者の言動だ。
まぁ、こちらは旅をしながら商売しているのだから間違ってはいないけどね
内心そう思いながら、男の話を聞く。
「この辺りの山は寒いでしょう。この外套を馬二頭とでいかがですか? この先の旅できっと旦那様を寒さから守ってくれます!」
もちろん、この興味の持てない話が早く終わるようにと強く祈りながら。
「ここに来るのは初めてではないのです。寒さの対策は大丈夫ですよ。ご心配ありがとうございます。でも、これは美味しそうですね。そして、私は村長に会いたいのですが……」
この辺りでクルットーと呼ばれるチーズのような乳製品だろう。日持ちはする。これを幾つか買うことにした。そして、代金を受け取ろうと男が伸ばした手の中に、その代金だけでなく、余分に銀貨を握らせる。そして、言い含めるように繰り返す。
「貴方が村長に会わせて下さるとお聞きしております。ご尽力、感謝しておりますよ」
男は手のひらの中の銀貨を確認すると嬉しそうに瞳をぎらぎらと輝かせてうなずき、快諾してくれた。話が早くて助かる。以前北方で出くわした部族は、権力者に会うために、その親族に片っ端から贈り物をしないといけなかった。その時の出費に比べればうんと安い「仲介料」だ。そして、この谷で一番大きい家に案内された。入口には高級そうな織物が掲げられている。
「話はオラムから聞いた。青い空の下、良く参られた。御用は何かな、旅のお方」
村長は立派な頬髭を持ち、アオルシ族の男性らしく灰色の長衣と白い
「はて、旅のお方、わしは貴方に会ったことがあるような気がする。その緑色の衣に金色の髪、確かに子供の頃見た。その人も遠くから来た商人だったが、さて、あれはわしが子供の頃のこと……貴方と同じ部族の方だったのだろうか……」
村長は、後半は独り言のように語っていた。ユングヴィは「そんなことがあったのですか」と相槌を入れながら話を聞いていた。
村長が子供の頃に見たという人物は、きっと自分のことだ。だが、それを説明しても理解されないだろうから、ただ話を聞いた。
村長が落ち着いたころを見計らって商売の話をした。
「私はとある砂漠の中心部から持ってきた塩の板や北方で取れる琥珀、南方から入ってくる香辛料を売り歩いております」
そして所々で仕入れた品をまた別の土地で売るのだ。もっとも、一人でやる商いなのであまり多くは売りさばけない。小さくて持ち運びやすく、そして高額で売れるものを見極めるのだ。とりあえず、塩は遊牧民の暮らしや家畜の養育に重要だ。近くに海や岩塩の産地がない場合、驚くほど高値になることもある。また、香辛料の中には防腐作用があるものもあり、この類は肉や魚を長期保存するために有用で、一部の地域では高額で売れる。琥珀は完全に自分の趣味で取り扱っていた。
「この塩はただの塩ではありません。ほら、まるで雪のように白いでしょう。家畜に与えれば、成長がずっと良くなります!」
この地域では塩は良く売れる。人間だけでなく、家畜に取っても必須なのだ。動物も塩を取るために岩塩をなめたり、時には土をなめてわずかばかりの塩を摂る。餌や塩の質によって家畜の成長や肉質、ミルクの質は大きく変わる。大陸中央は遊牧民が多く、交易都市も多い。そのような環境で、遊牧民に塩を売り、贅沢品を都市で捌くのは有効だという実感と経験がある。そして、小規模商人がうまくやるコツは相場より少し安く売ることだ。そうすることでよく買ってもらえる上に、大量に流通させるわけではないので、他の大商人に目を付けられにくくなる。
この商売を終えたら次はどこに行こう?
ユングヴィは口では村長に売り込みを行いながらも、その心は既に遠くへ飛ぼうとしていた。
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