第20話 クィスの不調(後)
「だから! もう大丈夫って言ってるじゃない!」
クィスがその灰色の
「XXX!」
おまけに意味は分からないが、おそらくは
「クィス! よしなさい! お前はまだ回復していないのだから」
ユングヴィが珍しく大きな声をあげる。クィスはなお不満そうだったが、ユングヴィの指示には抗弁しようとしなかった。
「一人で行こうとするんじゃない。私と同じ馬に乗りなさい」
「私は……XXX……」
「いいから、いいね?」
「……はい」
クィスをユングヴィの馬に乗せるために荷物を再配分し、出発する。
「ユングヴィ、どうしたんだい?」
「以前、この道を来た時、この辺りに村があった。そこで休憩を取りたい」
「どのあたりだい?」
ユングヴィが峠道の先を指さす。
「この峠道の先、過去の記録によれば川筋が広がっているあたりだ」
「よし、俺がひとっ走り見て来よう! そちらはクィスとゆっくり来てくれ」
「分かった。泊まれそうな家があれば聞いておいてくれ」
「ああ、ではまた後で!」
ユングヴィに言い放つが早いか
「ゆっくり来てくれ!」
もう一度ユングヴィに言い放ち、馬を走らせる。景色がはねていくように自分の後方へと滑っていく。ここ最近はゆっくりと旅していただけに駆ける馬の速度が懐かしかった。それほど速度は出していないつもりだが、まるで自分と馬が空気を切り裂いて駆け抜けていくようだ。
ふと、軍にいた頃を思い出す。多くの書物を読み、軍の指揮官、あるいは占領地域の行政官となることを夢見たあの日。だが、戦いの現場はそんな
指示通りに動かない部下、いや、自分が人を動かせるような指示を出せなかったのだろう。
書物通りには展開しない敵の動き、いや、自分が敵の動きを的確に観察できなかったのだろう。
具体的な指示を出さない上司、いや、自分は指示の具現化をはかるべき立場ではなかったか……
恐らくは詩作であろうとも、農事であろうとも、何事も多くの経験から学び、臨機応変に対処できなければ書物の知識など無意味なのであろう。本当の天才ならば経験せずとも、知識と思考で乗り越えることもできるのだろうか。そんな存在に憧れた時もあったが、自分がそうではないことを実感するまでにさして多くの時間は要しなかった。
「大したことはなかったのだな、俺は……」
風に向かって声を出す。どうせ誰にも聞こえはしない。そこまで感傷に浸かって頭をぶんぶんと振った。今すべきことはこれではない。景色の変化に注意を払い、ユングヴィが言う川筋を探す。遠くからは新緑の絨毯にしか見えなかったが、近づくと緩やかな高低差がある。一つ、目に着いたなだらかな丘のような地形に登ってみた。高いところから周囲を見るためである。
「あれか」
目指す川筋はすぐに見つかった。それほど離れていない丘の裏に、陽光を受けて銀色に輝く流れが見える。川はその下流の方で、緩やかに広がり、細い幾つかの流れに分岐している。ユングヴィが言う通りなら、目的の村はあの辺りにあるはずだ。良く目を凝らしてみると枝分かれした流れを見下ろせる位置に、緑の草原の一部を押しのけるように白い建物と、茶色くくすんだ何かの構造が見える。おそらく、あれがそうなのだろう。早速、馬を走らせ、白い建物へと向かおうと高みから駆け下りる。
「もし、どこへ行く?
急に声をかけられた。
驚いて振り向くと、黒い馬に乗った一人の少年がいた。どことなく落ち着いてはいるが、疲れた目をしている。黒い筒袖・詰襟の上着に、黒い
「どこへ行かれるのか?
少年は呼びかけをこちらが聞き逃したと判断したのか、同じことをもう一度はっきりと話した。少年の年の割には落ち着き、しっとりとした声だった。
「私は
「村? この辺りに?」
馬上の少年は眉をひそめた。話しながら少年を良く観察する。服装からして、反乱を起こしている
「君は
その問いかけに、草色の瞳をした遊牧民の少年は、こくりとうなずく。
「そうだろうな。
少年はそれよりも言いたいことがあるようだった。
「この辺りに村はない。一番近くてあの川の向こう、歩いてなら一日以上はかかるだろう」
「え!?」
思わず間抜けな声を出してしまった。まさか、本当にないのだろうか。こんなはなずじゃないのに。
「そうは言われても村などない……そういえば、向こうに建物の土台みたいなものが少しある。それが貴方の親方の言う村だったのでは?」
ユングヴィが見た村は今はなくなっているということか。
「ところで、貴方方が商人なら物々交換できないか? 野菜が欲しい」
我々の事情を聞き届けた少年は、少年の方の事情を初めて口にした。
「野菜か……ユングヴィに、こちらの親方に聞いてみよう……」
確か、
「ありがとう」
「だが、待ってくれ。その村の跡のようなものを確認したい」
村があるにせよ、ないにせよ、自分の仕事は果たしたかった。
「そんなに遠くはない。案内しよう。あと、その、体調を崩した子のために休む場所が欲しいなら我々のユルトに寄ると良い」
ユルトとは遊牧民特有の移動式住居のことで、
「そちらから声をかけてきたが、
少年の話す言葉があまりにも自然だったので聞いてみた。
「しゃべれるも何も、生まれも育ちもこの国だ。そちらとは生活の仕方は違うかもしれないが、な」
少年に案内された先は、川筋の一つを下に見ることのできる、やや高台になっている原っぱだった。確かに石で組まれた基礎や倒壊して腐敗したのであろう木材の慣れの果て、そして機能の分からない、さび付いた小さな金属片が残されていた。これでは人が済まなくなって一年、二年ではないだろう。
「確かにこれは……」
少年は
「ありがとう、状況は理解したよ」
「そうか、ではここへ病人や親方を連れて来い。ユルトに案内しよう」
急いで馬首を返し、ユングヴィのもとへ駆けた。事情を説明し、皆で少年の
「伯母上、客人だ」
少年が入口から声をかけると、少年と同じような黒づくめの服装をした小柄な女性が顔を出した。
「あら、旅のお方? あらあら、いらっしゃい、飲み物でもいかがです?」
歳は二十代後半から三十代くらいだろうか。肌の様子に苦労の跡が見えるが、その目元は若々しく、少年と同じ草色の瞳は
「伯母上、こちらの方々、病人がいるそうだ。診てやってくれないか?」
「あら、その女の子? じゃあこちらへ……」
こちらが事情を話す前に、少年から女性へと話をつける。この少年、表情の変化に乏しいが親切だ。女性はクィスを寝台に寝かせてその襟元を緩め、自身は調理台らしきもので何やら料理だか調合だかを始めた。
「そう、クィスちゃんって言うのね。かわいい名前しているじゃない。私はね、イェスイ。今、元気が出るように特別な飲み物を作ってあげるわね」
「XXX……」
イェスイと名乗った女性の呼びかけに、クィスは上の空なのか、何やら聞きとれないことばかり呟いていた。ユングヴィはそんなクィスを心配そうに横目で見ながら、少年から何やら焼き菓子のようなものと白い飲み物を勧められる。
「草原の民は客人を大事にする。良く参られた。せめて
ユングヴィが白い液体に口をつけ、微かに眉をひそめる。少年はそんなユングヴィの様子をじっと見ていた。
「
「失礼だが、貴殿はアイアルルの民か?」
少年がユングヴィに話し掛ける。
「ええ、そうでしょうね。草原の民は私たちをそう呼ぶことが多いです」
どうやら、ユングヴィは肯定しているらしい。
「なんだいアイアルルって?」
「元々はヤールルって言います。我々の……そうですね、首領のことだと思ってください。その地方の殿さまと言えばよいかな? この方々は、我々が殿さまに率いられているのを見てそう命名したのでしょう……多分」
ユングヴィがそう説明すると、後はこの少年に幾つも質問を投げかける。今年の草は良いのか、いつもこの辺りで遊牧しているのか、家畜の子の育ち具合はどうだ、街に出ることはあるのか、等。草原世界の世間話とはこういうものなのだろうか。二人の様子をぼーっと見ていると、ふと少年と目が合ってしまった。少年の草色の瞳が静かにこちらを見返す。クィスと違い、この少年の目元にはあまり感情が出ない。まるで冬の
「なあ、貴方方はなぜ
少年の目線に耐え切れず、思わず適当なことを聞いてしまった。
「我々の昔話に出てくる。祖父から聞いた話だ。昔、まだ我々がこの国に住まず、はるか西方、砂漠の彼方の草原に住んでいた頃、侵攻してきた部族と戦った。敵の部族は人口も多く、強かった。その時、同盟していた国より援軍として送られてきたのがアイアルルの民だ。アイアルルの戦士は皆、金色の髪に尖った耳を持ち、肌が白く、死を恐れずに戦い、恐ろしく強かった。アイアルルの民が参加した戦いはすべて勝利した。彼らの活躍のおかげで我々は敵を打ち破ることができたのだ」
少年は淡々と話していたが、先ほどまでの口調に比べてどことなく楽しそうだった。
「すごいなユングヴィ。君の民は最強なんじゃないか?」
「んー、どうだろうね。その同盟していた国とはどこのことですか?」
ユングヴィはこちらへの返答も曖昧に、少年に質問をした。だが、少年は頭を横に振った。
「すまない、客人。祖父から聞いたはずだが、国名は聞いたことがない。確か西の方の国だったとは思うが、記憶に自信がない」
そこへイェスイがやって来た。その顔は先ほど同様、人懐っこそうな表情を浮かべている。自然に話題は中断され、私とユングヴィの視線がそちらに向かう。
「クィスはどうですか?」
待ちきれない様子で、ユングヴィはイェスイに尋ねる。
「病気とかではないと思うわ。疲れね。ちゃんと宿で休んだ? 見たところこの子は旅に慣れた体つきではないようね」
「いや、このところ無理をさせてしまったかもしれない」
ユングヴィの言葉は短かったが、響きが重い。その後、ユングヴィとイェスイの間でクィスに関するやり取りが行われた。イェスイが言うには暑さだけでなく、疲労の影響も大きいとのことで、胃腸も弱っているとのことだった。また、足にマメと爪の割れも見られたことから、せめてそれらが治るまで数日休んでいってはどうかとの話であった。
「わかりました。クィスのこと、どうぞよろしくお願いします」
ユングヴィはイェスイに頭を下げると、こちらに今後の打ち合わせをしようと仕草で示してきた。ちらりと
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