第18話 再出発

 佐成サセイが、ユングヴィとクィスと合流したのは、日が西に傾き出してだいぶ経ってからのことだった。日に焼け、砂煙に苦しんだ道のりだったはずなのだが、鮮于センウが死んだ衝撃から回復しきれていないのか、道中のことはほとんど佐成サセイの記憶になかった。ただ、口の中にずっと乾いた空気の味だけが残っていた。


 合流した辺りは、日干しレンガで守られた井戸が幾つも散らばり、井戸の南側には小さな岩山が、井戸を守るかのようにそびえ立っている。おそらくは崩れた民家のようなものが三つほどあり、その一つからは丸い葉を茂らせた低木がしっかりと根を張っていた。それをのぞけば、植物はところどころ、ほこりっぽい岩石の影に頼りない草が密集しているだけだった。


「お帰りなさい」


 ユングヴィとクィスが同時に声をかけてくれた。クィスは今晩の夕食の支度を始めているようだ。ユングヴィは井戸から水をくみ、ラクダにぐびぐびと飲ませている。その背後には、馬が間隔を置いてつながれていた。ただでさえ赤茶けている大地が傾いた西日を浴びてさらに赤く染め上げられている。


 ここまで、短い距離ではあったが砂漠を一人で旅していて、佐成サセイはずっと自分のこと、旅の仲間のことを考えていた。考えれば考えるほど、自分はユングヴィの寛大さに救われているという思いが強くなった。そもそもなぜ、数多くいる敗残兵の一人に過ぎない自分を雇ったのだろう。偶然なのだろうか。なぜ、マンらと一緒に行こうと言いだしたときに、不用意に構成員が増えることの危険性を知りながら自分との契約を切らなかったのだろう。


「さ、馬をこちらに」


 俺はユングヴィに言われるままに馬をつなぎ、ユングヴィの近くに腰を下ろした。熱を持った地面の温度が尻から伝わってくる。


「今日は、佐成サセイは疲れたでしょう。労いますよ」


 言うが早いか、ユングヴィはいつもの緑色の長袍ローブの懐から黒い巾着袋を取り出す。


「あ、あたしそれ好き!」


 なぜかクィスがはしゃぎだす。クィスの太い眉は、笑うとはっきりと二つの山形になる。


「なんだいそれは?」

「ちょっと待って下さいね」


 ユングヴィが袋から取り出したのは、手のひらくらいの大きさの乾燥した葉の固まりだった。円盤状に成形してあり、一見大きな碁石のようだが、その一部が削り取られている。


「都で見たことあるぞ、お茶か!」

「ご名答、苦手ですか?」

「いや、好きだがあまり飲む機会がない」


 ユングヴィは小刀を取り出して、円盤状の茶葉の固まりを鍋に削り落とした。ユングヴィが金髪を西日に輝かせながらやると、そんな何気ない仕草も優美に見える。


「何を入れようか」

「蜂蜜がいい!」


 ユングヴィは俺に問いかけたのだが、クィスがさえぎった。


「すまないが、蜂蜜はもう残っていない。玉ねぎか生姜かな」

「え~、せっかくのお茶なのに!」


 茶は香味野菜や乾燥した果物と一緒に煮込み、その煮出し汁を喫する飲み物だ。貴族たちの中では、茶の抽出した汁を単体で味わい、その産地を当てるという遊びがあるそうだが、そんな贅沢が遊びは自分たちには無縁だった。道士によれば、茶は疲れた体を癒し、一緒に何を煮出すかによってあらゆる疾病に効果があるという。


「生姜だと汗をかいてしまうから、玉ねぎにしようか」


 ユングヴィはクィスの抗議も聞かず、玉ねぎを切り、鍋に放り込んで茶葉と煮込む。しばらくして、いかにも薬といった黄味がかった液体がぐつぐつと音を立て、玉ねぎの香りを放ちだした。それを小さな陶器の椀に入れ、俺とクィスに渡す。


「ここに来る前に、西の方でたくから来たという商人と交換して手に入れたものさ、さ、召しあがれ」


 玉ねぎが入っているせいか、塩味をつけて汁物のようにしたくなる。そういって飲んでいると渋みがあとからざらりと来た。薬湯を飲んでいるかのようだ。


「うーむ、なんだかさっぱりしたよ」

「おや? あまりお気に召さなかったかな」


 少し残念そうな表情を見せるユングヴィに、クィスはやはり蜂蜜を入れるべきだと力説していた。


佐成サセイ、それ?」


 ふとユングヴィが何かに気が付いた。


「ん?」

「服の胸のところが裂けていますが、大丈夫ですか? 傷は?」


 ユングヴィに言われてふと視線を向けると、白いほうの左の鎖骨の辺りに手が入りそうなくらいの切れ目があった。マンと斬りあいをした時にできたものだろう。切れ目に手を入れてみるとほうの下に斬るさんまで切られており、その下に何か、かさっと当たるものがあった。


「これは……護符?」


 きれいに真っ二つに切れた護符があった。銀寧宮ぎんねいきゅうで道士から買ったものだ。もう一度服の切れ目から、自分の肌に触れてみる。乾燥してかさかさしてはいるが、どうやら傷はないらしい。


「そうか、俺を守ってくれたのか……」


 思い返すと、マンと戦ったとき、胸を冷たい切っ先が滑る感触があった。おそらく佐成サセイはあの時、斬られていたのではないだろうか。その時、この護符が佐成サセイの身代わりになって守ってくれたのだろう。

 二つに切れた護符を折りたたんで大事にしまい込む。また沙山真君さざんしんくんびょうにお参りできた時、感謝と共にお返ししようと思ったからだ。


「君の神様は君を守ってくれるんですね」


 ユングヴィは何気なく言ったのだろう。だが、その言い方に違和感を覚えた。


「ユングヴィの神様は信じる者を守護してくれないのか?」

「うーん、くれるとは思いますよ。ただ、先ほどのような戦いは違う。戦いは人間同士で決着をつけ、死者は神々の相伴しょうばんに預かりながら戦いのことを語りあうものです」

「なんだい、そりゃあ……」


 どうもユングヴィの育った世界というのは、自分の知っているところとはずいぶん異なる世界のようだ。



   ◇



 夜中、佐成サセイは尿意をおぼえて目が覚めた。潜り込むようにして寝ていた上着とむしろをかき分け、起き上がる。周囲は星明りでほのかに明るい。木の陰やまだ残り火が燃える焚火から自分の位置関係を把握し、用を足すために物陰へと移動する。満点の星空の下、放尿できるなんてなんと感動的なのだろう。

 便意を解放したことによる余裕のせいだろうか、この星明りの下、砂丘の海はどんな風景を見せてくれるのか、見てみたくなった。居ても立ってもいられなくなり、すぐ近くの小さな砂丘の上に登っていく。すぐに崩れる砂に難儀しながら、一歩一歩、滑り落ちないように歩く。万が一、足元の砂場が崩れだしても慌てず、砂の崩れが収まってから再びゆっくりと一歩を踏み出す。それを繰り返していると、いつしか砂丘のてっぺんに立つことができた。


「……」

 

 息を、言葉を飲み込んだ。星明りにうっすらと照らされて、砂丘群が冷たい銀色に照り返している。ほのかに、厳かに。


 まるで銀色の波浪が、時とともに止まってしまったかのようだった。この世のものとは思えない、神様でも散歩していそうな光景だった。南天に輝いている酔星すいせいがずいぶん沈んでいる。代わりに東の星空には、緑色の静かな光を湛えた星が輝いていた。酔星すいせいの次に南天の標をつとめる牧星ぼくせいだろう。背後に、牧星ぼくせいの目印となり、その名の由来とも言える無数の暗い属星ぞくせいが見える。属星ぞくせいを率いるような姿から牧星ぼくせいの名があるのだ。

 足元からふわっと静かに風が駆け上った。ずっと夜の景色を見ていると、しんっと体が冷えてくる。寝床のぬくもりが恋しい。来た道を戻ろうとして、はっとした。砂丘の上から見ると、どこも同じに風景に見える。帰る方向が分からない。足跡は星の光の影に入ってしまったのだろうか。夜の影は本当に暗い。それとも、砂のかすかな動きに飲み込まれてしまったのだろうか。焚火の明かりを探そうにも、砂丘などの物陰に入ってしまっているのかまるで見当たらない。

 

 背筋がヒヤッとした。


 慌てて足跡らしき痕跡のある方向に砂丘を駆け降りる。だが、何もない。ユングヴィらが寝ているはずの場所がない。井戸を囲っている壁や南側の小さな岩山が目印になるはずだが、見ている角度が違うのか、星明りの下では砂丘やほかの地形と区別がつかなくなってしまっているのか、それらが見当たらない。もう一度、砂丘のてっぺんに上る。つい先ほど、自分の心を静かに動かしたはずの美しい風景は、自分の帰るべき場所を覆い隠す忌々しい風景になっていた。あまり深く考えずに、砂丘の頂上から先ほどとは別の方向へ降りる。


 こんな、こんな近場で迷子になるなんて……


 砂丘のてっぺんからの景色を見てみたいという、自分の素朴な好奇心を恨んだ。そうして、砂丘の別の方向をもう一度探索したとき、やっと焚火の明かりを見つけた。どうやら、砂丘のてっぺんからでは、焚火の明かりは崩れかけた壁やわずかな砂地の高まりの陰に入ってしまっていたらしい。佐成サセイは心から安堵し、無事に寝床に戻った時には涙すら出そうになった。この安心と感動をユングヴィやクィスと無性に分かち合いたくなったが、あいにく二人はぐっすりと眠っていた。仕方なく、もう一度眠りにつこうと上着の下に潜り込んだ。だが、安堵したためだろう、また尿意を催した。

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