第17話 砂塵(再々)

マンのやつが、あいつがお前を殺ったといのか? おい、鮮于センウ!」


 いくら呼びかけても鮮于センウは目がもう一度開かれることはなかった。あの気弱そうだが人の良さそうな眼の光は失われてしまった。佐成サセイが何か仕事を言い付けると些細ささいなことでも一生懸命取り組んでくれた鮮于センウの声は、もう地上から消えてしまったのだ。最期に放たれた言葉の意味と、鮮于センウの死、この二つで頭が混乱している。ただ、混乱しながらも鮮于センウの死に様を整えてやっていた。手を組ませ、遺髪を少し切り取り、顔についた汚れを落としてやる。

 ここまでしてやっと佐成サセイの頭が動くようになった。マン鮮于センウを殺したのなら、理由は分からないがユングヴィらが危ない。立ちあがると日が昇り始めていた。丘の頂きへ、狼煙台のろしだいの方へ戻ろうと歩きだすとその先に影があった。大きな体の人の影。そこにマンはいた。太陽はマンの背側から昇っているため、その表情は逆光に隠れて見えない。


「何をしている?」


 思いの他、低く、落ち着いた声が出てきた。佐成サセイ自身、それが自分の声だと理解するのに少し時間がかかった。マンは一瞬たじろいだように見えた。マンの顔は影で見えないが、太陽を背にしたマンからこちらの顔は良く見えることだろう。その表情の細部まで、きっと、きっと憤怒で強張り、憎悪に歪んだ有様がはっきりと。


マン鮮于センウはお前にやられたと言って事切れた。本当か? なぜ?」


 問いかけながら、マンの方へゆっくりと歩む。なぜ、と尋ねたが答えははっきりしていた。マンの服が腰から左脚にかけて真っ赤に染まっていたからだ。不思議とマンと対峙することに恐怖はなかった。恐怖とは別の感情が佐成サセイの態度を落ち着きのあるものにしてくれていた。


鮮于センウは……あいつはとんでもない奴だったんだ」


 マンは、まるで叱られたいじめっ子が親に抗弁するかのようにしゃべりだした。


「俺が朝、小便がしたくて起きたら、あの鮮于センウの奴、何をしていたと思う? 俺の財布から銭をごっそり盗もうとしていやがったんだ。それで追いかけているうちに取っ組み合いになり、あいつが剣を抜いた。それでよ、俺に斬りかかって来やがった。俺は生き延びるために抵抗したら、この様ってわけだ」


 佐成サセイ鮮于センウの遺骸へと目を走らせた。


「……マン、なぜ嘘をつく?」

「なんだ、俺よりあいつのことを信じるのか? そりゃあ、お前の元部下だろうから情もあるんだろうが」

鮮于センウの剣は抜かれていなかった。お前に斬られた後に、剣を鞘に戻したとでもいうのか?」

「……」


 佐成サセイは自分の心の中で不安と怒りが広がりつつあるのを感じていた。まるで、夜の帳が天を覆っていくかのように。だが、もはやそれは必然なのだと実感している自分がいた。自然と横刀の柄に手がいく。マン佐成サセイよりも体が大きく、武術の心得はないがとにかく力に優れていた。力任せに戦う兵だ。数撃は持つとは思うが、戦いが長引けばおそらく力負けするだろう。


 万が一斬りあいになれば……どうすればいい


 こちらの雰囲気を感じてか、マンも自身の横刀を手で触れた。佐成サセイが持つ横刀よりも一回りほど大きい。また、その体は短冊状の加工された牛皮をつないだ鎧で守られ、その下には藍色のほうが身に付けられていた。力で斬りこむとしたら、顔か両腕、鎧の隙間のある脇腹か、はかましか身に付けていない下半身だろう。


セイ、お前は物知りだったな。俺たちはこの辺りに疎くてな」


 マンはこちらを迎え入れるかのように両手を広げ、笑みを浮かべて語り掛けてきた。


「何が言いたい、マン?」

「お前の力を貸してほしいんだ。軍のお偉方は無茶な命令ばかり出して、俺たちを死地に追いやってもなんとも思っていない。だが、もうそんな人生はごめんだ。俺たちは俺たちで生きていく!」


 マンほうの胸元を開く。そこにはじゃらじゃらとした金銀、宝石の首飾りや帯が幾つも巻かれていた。


「どうだ、お前にも分けてやるぞ」


 大きさも模様も様々、おそらくすべて盗品だ。ここに、マンだけがいることに疑念と心配とが湧き上がってくる。


「あの女みたいなやつ、聞いたぞ、白亜仙はくあせんなんてすごいじゃないか、やつらは遠くから来るからな、金持ちも多いらしいぞ」


 マンが何が言いたいのか、はっきりと悟ることができた。横刀の柄を持つ右手に力が入り、汗がじっとりとにじむ。佐成サセイの中で感情がぐるぐると渦を巻く。

 

 俺は間抜けだった。心底間抜けだった!


 その可能性はまるで考えていなかったのだ。鮮于センウが殺されたのは、マン鮮于センウの間で金銭や怨恨といった問題でもあったのかと疑っていた。マン佐成サセイやユングヴィのことを狙っており、鮮于センウがそれを止めた、あるいはそれに反抗した可能性を考えていなかった。あの手の甲の傷、逃げれば良いのに逃げずにマンに反抗してくれたのだろうか。


「あの異国の娘もいいな、踊り子としていい値で売れるだろう。まあ、もったいないからまずは俺たちで……」

「黙れ、貴様っ!」


 感情のままに刀を抜き放つ。マンには勝てない。そう思っても激情が自制心を上回る。


「……おいおい、悪かったよ。お前のお気に入りか? じゃあちゃんとお前を最初に……」

「黙れ、この盗賊風情!」


 ありったけの敵意をマンにぶつけた。マンの表情が強張り、その瞳に苛立ちと怒りの濁りが映る。


「貴様っ! 天子様の軍兵たるものが、敵から逃げ、弱者を襲って粋がるとは……恥を知れ、この豚野郎っ!」

 

 マンも横刀を抜き放った。じりじりと近づいてくる。


「逃げたのはてめぇも同じじゃねぇか! いや俺がバカだったよ、てめぇはさっさと殺すべきだったな!」


 マンが牙をむいて威嚇する猿のように、凶悪な表情をむき出しにする。じりじりと距離を詰めるマンに対して、佐成サセイは慎重に目当ての位置を取ろうと少しずつ動いていた。


 今、ここでユングヴィがどこからともなく現れて加勢してくれないか、それを期待し、望んだ。だが、それは非現実的なことだった。


「殺す? そんなでかい図体で逃げてきた弱虫が何を言う。やはりお前は豚だ!」

「こんのぉ……」


 待てば、負ける。殺される。


 そのことだけは、マンから立ち上る怒気からひりひりと感じ取ることができた。マンが動く、と感じたその刹那、期先を制する。


「あああっ!」


 砂を風下に入ったマンに対して蹴り上げる。マンは一瞬、たまらず眼をつぶった。


「!」


 マンの右目めがけて突きかかる。マンは刀で防御しようという動きを見せた。


 予想通り!


 人間は眼を狙われると無意識に眼をつぶったり、手で眼を守ろうとしたりしてしまう。マンの刀が防御に回ろうとしたところで、一気に踏み込みその切っ先でマンの左腹部を捉える。鮮血がぱっと飛んだ。


「ぐっ、てめぇっ!?」


 だが、マンが振り回した刀が横殴りに佐成サセイの左肩を襲う。その衝撃で佐成サセイはよろめいた。鎧の隙間を狙ったはいいが、マンの傷は浅かったらしい。


「このっ! このぉっ、よくもっ!」

「畜生っ!」


 マンが二度、三度と怒りに任せて斬撃を繰り出す。いずれも単調なのでなんとか刀で防ぐことができたが、一撃が重く、長くは防げない。佐成サセイは徐々に後退し、距離を取ろうとした。


「てめぇっ! 逃げるなっ!」


 マンが踏み込んで繰りだした突きが佐成サセイの胸を滑る。確かに、剣の冷たい感覚が体を滑った。一瞬ひやりとしたが、何事もない。なんとかかわせたようだ。


 ダメだ、逃げないと!


 必殺の一撃が失敗した以上、隙を見て逃げるしかない。手負いの相手からなら逃げきれるかもしれない。


「お、お頭っ!」

 

 ふいに後方から、マンの仲間の一人が現れた。気を取られた瞬間にマンがこちらに斬りかかるのが視界の隅ではっきりと見えた。


 間に合わない!


 反応が遅れた! 両親や友の顔が、ユングヴィとクィスの顔がさっと佐成サセイの脳裏に浮かぶ。


 絶望したその瞬間だった。ひゅんっと音がしたと思うと、姿を現したばかりの男が倒れた。次の瞬間、ダンッという衝撃音と共にマンの額に矢が突き刺さった。


「こ……が……!」


 マンは声にならない声を出して倒れた。砂煙が風に舞う。どくどくと頭部から流れる血が砂地にしみ込み、赤黒い染みを広げていく。さっきまで佐成サセイに敵意をじりじりと焼きつけていた眼球はあらぬ方向に向けられ、そこに宿る光は不可逆的に変色していた。

 

 佐成サセイは何が起きたか分からずにいた。ただ、混乱し、心臓は警鐘けいしょうのように激しく乱打していた。恐怖に襲われ、矢に狙われぬようその場に伏せる。


佐成サセイ、君は狙わないよ……」


 聞き覚えのある穏やかな声が聞こえた。気が付くと、矢が飛んできた方向から、緑色の長袍ローブを着た人物が近づいてくる。その手には短いが、強力そうな弓があった。


「ゆ、ゆ、ユングヴィ!」

「やぁ、無事で何より」

 

 何も変わったことがないかのように微笑むユングヴィの後ろにはクィスがいた。いつもは凛々しく見える太い眉も緊張に歪んでいた。不安なのか、腕に巻きつけた藍い小石がついた腕飾りをじゃらじゃらといつまでも触っている。


「そっちは無事だったのか?」


 ユングヴィは何のことかとでも言いたげに首をかしげる。


「ああ、あの連中のことかい? 全員殺しておいたよ。」


 ユングヴィは頼もしくも怖いことをさらりと言ってのけた。


「クィスは無事か?」

「ああ、傷一つない」


 クィスの代わりにユングヴィがそう答えた。もう一度クィスに視線を向ける。思えば、丘の上の風葬ふうそうだか鳥葬ちょうそうだかの土地で人の死骸を目撃し、今度は、おそらくはマンの手下の襲撃を受け、彼らがユングヴィに殺されるところを目撃しているはずだ。それなのに、少し塞ぎ込んだような表情は見られるものの、取り乱した様子もない。心配すると同時に、その肝っ玉に感心もしていた。


「佐成……君の友達は助けられなかった……すまない」

「気づいていたのか?」

「血の臭いがしたから……ね」


 佐成サセイはユングヴィのその話ぶりから、まだ自分のことを仲間と思ってくれていることが感じられ、安堵すると同時に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。今回の一件はすべて自分の余計な行動、かつての戦友への同情が生んだものであったのだから。


「ユングヴィ、すまない、俺のせいで……本当に申し訳ない。少し先に行っててくれ、鮮于センウはちゃんと葬ってやりたい。あいつは悪くないんだ……他の連中も死体を放置しては後から来る商人に申し訳ないだろう」


 それは自責の念から出た言葉だ。砂漠で単独行動が危険なことは分かっている。ただでさえ、佐成サセイ自身には初めての道なのだ。だが、マンらの同行を願ったのが他ならぬ自分である以上、ユングヴィらと一緒に行動するのが辛いという気持ちもあった。また、鮮于センウのことは本当に葬ってやりたいが、そのために二人を足止めすることは気が引けた。


「いいよ、手伝うよ」


 ユングヴィはこともなげに言い放つ。


「いや、そういうわけにはいかない。いかないんだ」

「……それで君は気が済むのかい?」

 

 ユングヴィはそれならと、砂丘の海の一角を指さす。


「この方向に歩き続けると、おそらく昼前にはオアシスに着きます。そこで待っています」


 佐成サセイは黙って首を垂れた。好きにさせてくれるのはありがたかった。このまま一緒に歩き続けていたら、鮮于センウ、ユングヴィ、クィス、それぞれへの申し訳なさで居たたまれなかったことだろう。穴の開いた容器で水を運び続けるように、いつまでも感情が漏れ、満たされなくなっていたと思う。


「クィス、俺が浅はかだった。すまない」


 クィスはこちらの言葉に何も答えず、ただ首を静かに横に振った。その深い湖のように青い瞳には、慰めか、同情の色が浮かんでいるようにも見えた。



   ◇



 あれからどれくらい時間が経っただろうか。真っ先に鮮于センウを丁寧に埋葬し、その抜かれていなかった剣を墓標代わりに立て、衣服の一部を切り取って墓標に巻き付けた。鮮于センウに別れを言うのは後回しにして、マンやその手下を簡単に埋葬した。何人かは一人では動かせない体格をしていたため、皆、それぞれ死んだ場所に埋めた。マンたちの墓は本当に簡単に作ったものだが、それでもすべての作業が終わった頃には、太陽は南中を過ぎていた。日が沈む前にユングヴィとクィスに追いつかなければ。最後に鮮于センウの墓の前にもう一度立つ。


鮮于センウ、お前の遺髪は必ず遺族に届ける。今までありがとう。守ってやれなくてすまなかった、せめて、せめて安らかに眠って……」


 なぜかわからないが涙が出てきた。そこまで鮮于センウと親しいのかと言われると分からない。だが、言ったことをいつも一生懸命やってくれるかわいらしい部下だった。もう鮮于センウと会えないのかと思うと涙がさらに溢れてきた。書物のように、もう一度読みたいところを開いたら、そこから人生をやり直せたらどんなにいいだろう。だが、一つ物語が過ぎ去ってしまったのだ。もう会えない人間ができてしまった。自分がもう少しよく考えて行動していたら、鮮于センウは無事帰国し、家族と穏やかに暮らせたのではないか。ああ、それを言うなら自分の属にいた他の連中もそうではないか。そんな考えも泡沫のように揺れ出でてははじけていく。

 しばらく泣いていると気持ちが落ち着いてきた。知り合いのある古老が、人が泣くのは誰かのためではなく、自分のためだと言っていた。その気持ちが少しわかったような気がした。


「さて、行くか」


 誰に言うわけでもなく、一人そう言い放ち、ユングヴィが示してくれた方向を見直す。道はすぐに見つかった。いったいいつからのものだろうか、無数のラクダや馬、人、そして良く分からない足跡が砂上の同じ道を同じ方向に続いている。これを辿っていけば良いのだろう。それにしても、風で足跡など簡単に消えてしまいそうだが、とここまで思いを巡らせて、この辺りに入ってからほとんど風が吹いていないことに気づいた。そういう土地、風のない土地なのだろうか。


「お前とも長い付き合いになったなぁ」


 軍から逃げてきた時から一緒の馬にそう語り掛け、その背に乗る。いつも思うことだが、西域さいいきの空はどこまでも広い。山があまりないせいだろうか、街並みが見えないせいだろうか、空気が乾いているせいだろうか、そして昼の太陽を受けて真っ白に輝く砂の海が眼の前に広がっていた。この空と砂の海を前にして思う。自分の存在のいかに小さなことか。

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