第16話 砂塵(再)

 日が昇る。まだ静かな冷やかさと夜の残り香を宿した朝の大気がゆっくりと、だが確実に熱を帯びていく。


「暑くなる前に水のあるところに行きたいなぁ」


 佐成サセイのつぶやきも夜の残り香と一緒に天に昇っていくような気がした。旅に必要なものを買い揃え、その日、我々は阿勒あろくの街の東門から出発した。少し雲がある晴れた朝のことである。


「クィス、気を付けてね」

「また、ナンを食べにおいで」


 クィスが「弟子入り」していた、あの老夫婦が見送りに来てくれた。クィスのためだ。クィスは結局、一日だけだが老夫婦にナンの作り方を教えてもらっていた。鼻っ柱は強いところはあるが、根が素直なためだろう。老夫婦にはとても可愛がられた。眼を少し潤ませながら別れを惜しむ三人の姿は、老夫婦とその孫娘に見えた。


「ありがとう、おじいちゃん、おばあちゃん。XXX、ぜったいまた来るからね!」


 老婆からは緑色の石の首飾りがクィスに贈られた。緑色の石は、無事に次の緑あふれる緑州オアシスにたどり着けるようにとの意味があるのだそうだ。クィスも感極まったのであろう、大切にしている青い石がちりばめられた腕輪の一つを老夫婦に渡した。最後に老爺より沙山真君さざんしんくんのお札がクィスに送られる。


「お嬢ちゃんに、沙山真君さざんしんくん様の守護があらんことを……」


 クィスと老夫婦の長い抱擁が終わったときが出発の合図だった。先頭をユングヴィとクィスが乗るラクダが行く。その後にユングヴィの馬二頭が続き、その次が鮮于センウ佐成サセイの馬だ。


 砂漠を旅するときは馬はすべて売り払ってラクダに代えろという者もいるが、ユングヴィは大丈夫だと言う。砂の海のような砂漠を長期間移動するのならラクダが有利だが、そうでないなら馬で問題はないとのことだった。阿勒あろく馬利克まりく間にも砂漠はあるが、砂丘が続く部分は限られている。ほとんどは乾燥し、岩がごろごろしている大地だという。川も流れているそうだ。


 さらにその後方に、マンらの一行四人とその馬二頭が続く。周囲の風景は来た時とあまり変わらない。赤茶けた大地が続き、所々、おそらくは小河川や湧き水があるところには、やや色あせた緑が密生している。北側には頂上に雪の冠をのせた尖がった山々が連なる。来た時と違いがあるとすれば、前方に太陽に照らされた砂丘の海が見えていることであった。


「絶対また来る!」


 あの老夫婦はまだクィスのことを見送ってくれていた。クィスも何度も後方を振り返り、手を振る。そんなクィスの姿は、佐成サセイにふと故郷のことを思い起こさせていた。


 上都じょうと央京府おうきょうふの右街の小錦橋の東側、学者として名高い甫徳ホトクびょうの南側に佐成サセイが生まれ育った家がある。焼いた煉瓦が使われてはいるが、官僚の家にしては素朴な家屋だった。壁の表面にははまぐりを砕いた粉が刷り込まれ、特に夏の日中は日差しを照り返して真っ白に輝いていた。

 夏と言えば、夏の朝食は蒸した穀物に塩漬けした野菜、それも漬け込み過ぎてすっぱくなったもの、たまに近くの沼で採れる小エビを焼いたものを少し……子供の頃は酸っぱい味の漬物が嫌いだった。毎日同じ味わいの漬物で飯をかき込んでいるとなんだか情けない気持ちになったものだった。だが、今ではそれが懐かしい。今、一番食べたいものは何か?と聞かれたら、あの母のいつもの味わいの朝食を選ぶかもしれない。母は元気にしているだろうか。父は望州ぼうしゅうに赴任しており、家は母とその親族が管理しているはずだ。


 クィスはもう見えなくなった老夫婦の方向を何度も振り返る。その様子を見ていると、自分もまた家に帰りたくなった。出征している間、気にすることなどほとんどなかったにもかかわらず、だ。


鮮于センウ、あの戦いの後、チンと逃げていたというがどこへ行っていたのだ?」


 久々に何か話そうと鮮于センウに話題を振ったが、鮮于センウの表情が強張る。確かに楽しい話題ではない。佐成サセイは自らの逃避行のこと、ユングヴィに拾われたことなどをかいつまんで話した。少しは鮮于センウの口も緩むかと思ってのことである。それを感じ取ったのか、鮮于センウも自分のことを話してくれた。


「そうでしたか、自分はチンと川沿いに逃げていました。他にも何人か同じ方向から逃げてきた兵がいたのです。ですが、逃げ出して二、三日目だったでしょうか、朝、目を覚ますとチンがいなかったのです」


 チンめ、鮮于センウを見捨てたのか?


 ふとそんな思いに捕われ、部下の不義理に苛立ちを感じた。だが、鮮于センウが続けた言葉はその予想とは異なるものだった。


チンだけでなく、持っていた食料も幾つかなくなっていました。ひょっとしたら俺が寝ている間にチンは他の敗残兵に食料を奪われ、抵抗して……」


 鮮于センウはそれ以上何も言わなかった。察するに、本当のその先は分からないのだろう。佐成サセイは勝手に疑ったことを心の中でチンに詫びた。


「あー、無事に都に戻ったらいろいろ食べたいな」

「……そうですね」

「建徳橋の近くで売っている焼き餅を食べたいなぁ」


 なんとか明るい雰囲気を作ろうと無理に話題を振るが効果がないことがすぐに分かった。そうこうしているうちに小ぶりな砂丘が続く、小さな砂地に差し掛かる。この先に見える砂丘の海からしたら、池のようなものだ。そう思ったが、いざ馬が砂丘を登ろうとすると足元がさらさらと崩れるため、うまく登れない。一見なだらかな斜面だが、砂地だとこうも勝手が違うものか、と驚いた。


「あいつら、どうやって乗り越えたんだ」


 悪所であるならば先行くユングヴィらが何か合図をしそうなものだが、そんな様子はなかった。ユングヴィとクィスが我々の苦戦に気づいたのか足を止めてこちらを振り返る。大声をあげてやっと届く距離だろう。迂回路を探すが、左右どちらも同じように斜面になっていて、かなり大きく迂回するか、この斜面をなんとか乗り越えるかのどちらかしかない。


鮮于センウ、馬を押そう」

「はい、隊頭たいとう


 佐成サセイ鮮于センウと馬を後ろから押すようにして進むことにした。だが、力を入れるほどに今度は自分たちの足が砂に埋まる。進みはするものの一歩一歩が遅い。なんとか一里を進む頃には二人とも汗だくになっていた。鮮于センウのまだ幼さの残る顔が真っ赤になっている。


隊頭たいとうは、相変わらずですね」


 鮮于センウから話を振ってくる。比較的珍しいことだ。線の細さを感じる鮮于センウの顔つきに穏やかさが広がっている。


「何がだ?」

隊頭たいとうは指揮官でありながら、真っ先に自分が動こうとされます」


 佐成サセイは恥ずかし気に笑った。兵法によれば、指揮官は個人の武勇を誇るよりも、大勢を見るのが良いとされている。すると自分は指揮官失格ということになる。佐成サセイがそんなことを冗談交じりに言うと、鮮于センウがにっこりとほほ笑んだ。


「そうではありません。威張り腐ったことがなく、兵と同じ行動を嫌がらずにされる。だから信頼されていたのです」

「俺がか!?」


 たくの軍団の中で定員割れのぞくを率いていた頃、ついぞそんな評判を聞いたことはなかった。佐成サセイ自身は本来、現場指揮官よりも幕僚を志望していた。そもそもが科挙を受けた頃は文官での出世を望んでいた。ぞくを率いることになったのは、お偉いさんのご機嫌を損ねた結果、つまり不本意なことだった。むしろ現場を分からない青二才だった。謙遜ではなく、いろいろな場面からそう感じていた。


「そういう見方もされていたかもしれません、でも信頼もされていたのですよ」


 鮮于センウ佐成サセイの否定的な見方を笑って否定する。だが、すぐにその表情は堅いものとなった。


「あ、失礼しました。このような言い方は失礼でありました」

「気にしないでいいよ、さ、次の砂丘だ、馬のケツを押すぞ、鮮于センウ

「はい、隊頭たいとう!」


 気が付けば前方のユングヴィらも、後方のマンらのことも忘れ、かつて自分が率いたぞくの雰囲気を感じていた。後方では、マンらが我々と同じように苦労して砂地の斜面を進んでいる。前方ではユングヴィの緑の長袍ローブとクィスの灰色の長袍ローブが赤茶けた砂地と青い空の狭間で鮮やかに翻っていた。



   ◇



 その日は、荒涼とした丘にぽつんと立っている狼煙台のろしだい跡で眠りについた。狼煙台のろしだいはここらの村と同様日干しレンガで作られ、その明るい茶色の壁には何やら刻まれている。昔、ここに勤務していた兵士が落書きしたのだろうか。それとも、ここに攻め寄せた外敵が戯れに刻んだのだろうか。近くには井戸もあり、水量は多くないが、新鮮な水が手に入るのは貴重だ。まだ比較的新しい、火の跡や馬糞があった。先行く隊商がいたのだろう。この先は部分的にとは言え、本格的な砂漠になる。ユングヴィによれば、ここで一泊して翌日から砂漠へと歩みだすのが定番の道なのだそうだ。


 食後、佐成サセイは星空の下、火に当たっていた。空から降り注ぐ無数の星光に対して、地上からはこの隊商のわずかなたき火が周囲を照らしている。少し離れたところでは鮮于センウが眠っていた。ぼーっと火にあたりながら今後のことを考えていると、佐成サセイもうとうとと眠くなってきた。視界の隅で遠くに火がもう一つ見え、黒い影がちらちらと動いている。ユングヴィが番をしているのだろう。マンらを警戒しているのだろうか。ユングヴィはクィスの傍を離れず、そして佐成サセイマンのグループとは距離を置いて野営していた。マンら新たに隊商に加わった連中の動きを警戒しているのだろうか。


 まあ、ユングヴィの立場からしてみれば、警戒も当然か……


 そうこう考えているうちに眠ってしまっていた。ふと、目を覚ますと火は消え、余熱も一切感じることができなくなっていた。空はうっすらと明るみ始め、冷たい風が地上をなめるようにゆっくりと流れている。佐成サセイむしろと上着に包まるようにして眠り直そうとした。だが、尿意を覚え、どうにも我慢ができず、起き上がる。周囲から蔭になる場所で用を足し、戻ろうとすると微かに何かが聞こえた。


「う……うぐ……」


 腰に横刀があることを確認し、足音を立てないように音のする方へと近づく。息を殺し、風の音一つ聞き漏らさないよう動きを止める。誰かのうめき声のようだ。うめき声がした方向へ、一歩一歩、慎重に踏み出し、そして近づいていく。声がした場所までまだ遠いだろうか。

 そう思っていると丘から下る道の方、少し外れたまばらな草むらの中、真っ黒な泥の中に人が倒れていた。ぎょっとしたが、すぐに倒れている人が鮮于センウであることに気が付く。


鮮于センウ!? どうした?」


 鮮于センウの様子を見ようと駆け寄って膝をつくと地面がぬるりとした。泥だと思っていたのは、鮮于センウから流れた血、それを吸って赤黒く染まった砂だった。思わず悲鳴をあげた。


「あああっ、鮮于センウ! おいっ! 一体誰にやられた? 野盗か!?」


 鮮于センウの閉じていた眼が弱々しく開かれる。いつもくりくりとしていた眼は、今は開くのさえ億劫そうだった。鮮于センウの体はだいぶ冷たくなっていた。血は腹部から出ているようだ。傷口を確認しようとして微かな曙光をぬるりと反射する腸が見えた。これは……だめだ。


「ぐっ……隊頭たいとうぉ……気を付けて……ぐぅ」


 なんとか鮮于センウは声を絞り出すが、絞り出す力もないのだろう。口の動きが遅く、そして弱い。その右頬は腫れあがり、左手の甲にも切られたような傷があった。明らかに誰かと戦ったのだ。


鮮于センウ! 死ぬな! しっかりしろ鮮于センウ!」

「……また隊頭たいとうソウと……都で焼餅食べたかったです……あの羊肉がたくさん盛られたやつ……あれは……ほんとに……」


 鮮于センウは自分の死期を理解しているようだった。誰にやられたのか聞きだしたい気持ちと、最期だからと好きにしゃべらせてやりたい気持ちとが交差する。


「食べられるとも、まずは気を強く持て!」


 そんなことは無理だと頭では理解している。だが、佐成サセイの口からはそれとは異なる言葉しか出て来なかった。いつしか涙もこみあげてきた。


マンに……気を付け……あいつ……」


 マンだと!?

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