第14話 熱風の街(後)

 ここは砂漠一歩手前の乾燥した平原と、砂漠という概念に数歩奥深く突っ込んでしまった荒原とが複雑に入り混じった地域にある小さな街。この阿勒あろくという街の、日干し煉瓦でできた黄土色の街並みに東から横殴りの太陽光が差し込む。この大平原地帯に太陽光を遮るものはほとんどない。波のような砂丘、むき出しの小山、頼りない木々、平原の中で怯えるかように小さくまとまっている街の方形の家々がすべて黄金色に染め上げられていく。以前、廃村から見た朝焼けも素晴らしかったが、空の色合は場所により、その日により微妙に異なる。佐成サセイは街が朝日に染められていく瞬間が好きだった。


「素晴らしい……素晴らしい朝焼けだなぁ」


 美しい自然には心から感動させられる。もうこれと全く同じは二度と見られない。全てが一瞬一瞬の現象なのだ。問題は佐成サセイ自身が排便中であることだった。多少なりとも物陰になる草むらで、お尻を丸出しで息張っていたら黄金の太陽にでくわしたということだ。


「おーい、朝食よ!」


 クィスの声がする。ないとは思うが、万が一にでも呼びに来て排泄している姿を見られたら死ぬ他ない。佐成サセイは一気にふんばると、尻をふくべく適当な葉を探す。なるべく葉の幅が広いものが良い。急いで適当な葉を取り、一気に拭き上げる。


「はぅあっ!」


 尻に稲妻のような痛みが走る。おそらく葉のつかんだところではなく、その縁辺部に棘があったのだ。砂漠には動物に葉を食べられないように葉全体やその一部を硬化している植物も多い。やってしまった。


「おーい! ご飯冷めるわよー!」


 痛い。尻が痛い。思わず尻餅をつく。


 だが、なんとしても尻を拭き切っていかなければならない。朝食とはいえ、待ってくれている人がいるからと。そこで気が付いた。尻餅をついた。そう、大便の上に。黄金の日の出の中で。



   ◇



 無事だったかのように佐成サセイは朝食へと戻り、白湯さゆが入った粗末な焼き物の杯を、まるで神々に捧げる美酒であるかのごとく太陽に掲げた。


「いただきます!」


 今朝は涼しいうちから阿勒あろくの貧相な城壁外で、ラクダと馬に草を食ませていた。向こうでは、クィスが朝の祈りとやらをしている。五体投地して、太陽を拝するのだ。クィスは夷教の徒らしい。光を尊び、闇を敵とする西方の宗教だろうか。一方で、ユングヴィは祈りらしきことをしているのを見たことがない。ユングヴィもやはり異民族である以上、夷教の徒なのだろうか。まあ、判断できるほど彼の日常を注意して見てもいないのだが。


 佐成サセイが巨大な鳥からケガを負ってから五日が経った。街についたら一泊してすぐに発つものと思っていたが、商品を売って新鮮な食糧を手に入れたり、ラクダの体調を整えたり、装備の中で傷んだもの―荷物を入れた袋や馬・ラクダをつなぐ紐など―を新調したり……いろいろとやることがあった。もちろん、佐成サセイの怪我の治癒も待ってくれたいたのだろう。

 ユングヴィは湖塩の板を売ったのか、栄養をつけろと昨晩は鶏肉を食べさせてくれた。クィスは故郷の薬だと言って、何やら市場で売っていた美味しそうなブドウと道端に生えていた「お察しください」な植物をどろどろに混ぜたものを飲ませてきた。


「ま、待ってくれ、クィス! 心配してくれるのは嬉しいが、その色は人間の飲み物とは思えない!」

「はぁぁっ!? このXXX! 誰のために作ってあげたと思ってるの!」

「いや、待ってくれ。本当におかしいだろう。ブドウと草を混ぜ合わせてなんでこんなに鮮やかに黄色くなるんだ?」

「……XXX、護衛、黙って飲め!」


 こちらの不意をついて名状し難く冒涜的な舌触りの液体が口内にぶちまけられる。そのまま意識が飛んだので味は覚えていない。幸いなことにケガの治りは良好なようだった。まだ、右腕には傷跡や変色したあざが残っており、動かし方によっては痛みを感じるが、日常生活をする分には「たまに我慢する」くらいで済んでいる。


 その後、ユングヴィ、クィスと三人で話をした。今後の旅のことだ。都を目指すなら、ここ阿勒あろくから東に続く街道を進むのが最も早い。だが、その途中にはかく族の勢力圏があり、現在、かく族は北方の騎馬民族西月氏さしげっしの支援を受けてたくに反旗を翻していた。我々が敗れた阿薩あさつともつながっているのだろう。ユングヴィが街で聞いた情報によれば、将軍率いる官軍がかく族の軍の一つを破ったそうだが、さらに阿薩あさつたくの領土内へ侵攻してくるのではないかと噂になっているらしい。阿薩あさつの軍の話を聞くたびに、佐成サセイはあの白装束の騎兵を思い出し、心の中に冷たいものがしたたるのを感じた。


「……ですから、この阿勒あろくから南東にある馬利克まりくの街に向かい、馬利克まりくを経由して西域さいいき地方の中心たる沙京さきょうに行きたいと考えています」


 ユングヴィは足元の砂に簡単な地図を描きながら説明する。将軍の活躍を聞いて安堵したが、同時に蘇延そえんがどうなったか気になった。


「ユングヴィ、出発はいつぐらいに?」


 案内役と雇い主とは思えない口調で我々は話している。最初は丁寧に部下としてふるまおうと気を付けていたが、ユングヴィはこの三人は対等だ、互いに尊敬の気持ちがあれば大丈夫と言って、上下を気にする様子もなかった。いつしか、佐成サセイのユングヴィに対する口調はまるで同い年の友人に対するかのようなものになっていたが、ユングヴィはそれで失礼だとは思わないらしい。思い起こせば、クィスのユングヴィに対する口調もそんな感じであった。


「五月になるとこの辺りは砂嵐が増えるらしい。だからその前に出たい。」


 ユングヴィはまぶしい太陽に目を細めながら、口を閉じた。いつもにこにこと穏やかな表情を浮かべているユングヴィだが、こういう表情を取ると凛々しい探検家に見える。言葉には直接出さないが、佐成サセイがいつこの街を出られるようになるか気にしているのだろう。


「俺のことならもう大丈夫だ……っ?」


 いつの間にか横にいたクィスが佐成サセイのケガした腕をぎゅううっっとつまむ。


「あひゃあああああああっ!」


 思わず上ずった悲鳴を上げてしまった。


「XXXダメじゃない」


 クィスが無表情でため息をつく。日の出を背にしているため、軽く波打つ栗色の髪は太陽の光を受けてその輪郭を金色に燃え上がらせていた。その逆光のために顔は真っ黒で表情は見えず、ただ水底のように青い瞳が爛々とこちらを見つめている。


「無理ダメ」

「だったらつままないでくれ! 悪化する!」


 クィスが顔の角度を変える。横殴りの光線に照らされたその顔には、その太めの眉と相まってどことなく威厳を感じさせる。


「あはははははっ」


 何が面白いかユングヴィがけらけらと笑っている。


「仲が良くなったようで結構! 佐成サセイもせっかく外出できるようになったんだ。今日はみんなで街中に出よう」

「怪我人XXX面倒をXXX街歩き?」


 クィスが露骨に面倒くさそうな表情をする。


「クィス、まあそう言わなくてもいいじゃないか」

「まだ寝かせていた方がいいと思うけど」


 クィスはやれやれとでも言いたげにかぶりを振った。



   ◇



「見て! こんな大きなウリ、XXXっ!」


 クィスは爛々と目を輝かせ、市場を疾駆する。クィスが見つけ出したのはこの辺りの特産のうりだ。佐成サセイに馴染みのあるうりよりも色が薄いが、瑞々しくて美味しいと評判と聞く。


「ウリィィィィィィィ!」

「お嬢ちゃん、うちの商品はね……」

「XXX! あっちは見たことない魚よ! XXX、なにXXXうねうねしてて気持ち悪いー!」


 そして、売り込む商人の声もよそに、草色の上着を翻し、帯の装飾をじゃらじゃら鳴らしながら次の関心の対象へと疾走していく。その姿はもはや草色の旋風だ。


「あまりあちこち行くな! 迷子になるぞ!」


 そう声をかける佐成サセイもユングヴィも、人込みをかき分け、クィスを見失わないようにするだけ精一杯であった。


「まあ、竜巻を退散させる子とはいえ、子供は子供か」

「ははは、かわいらしいものでしょう? 彼女のいた村の近くにはこんな大きな街なかったですしね、珍しいのでしょう」


 走り回ってなお、ユングヴィは息切れ一つせずにこにこと涼しい顔をしている。この阿勒あろくの街は西域さいいきでもそれほど大きな街ではない。では、クィスの故郷はどんなところなのだろう。佐成サセイはまだユングヴィやクィスの身の上を詳しく聞いたことはなかった。雇われの身で気安く話題にすることでもないように思っているからだ。三人が走り抜けると、街ゆく人々が振り返る。頭巾がついた長袍ローブで全身を隠してなお、ユングヴィの美貌と金髪は目立つようだ。


「このっ! いい加減にしないか小娘!」


 野太い怒声が響き渡る。一瞬、クィスに何かあったのかと驚いたが、声の調子から少し安堵した。この声はしょうがない子供を叱る大人の声だ。


「XXX! 離せ!」


 クィスが地元の者らしい、褐色の肌に、くしゃっとしたしわだらけの夫婦と思しき老人二人に腕を捕まえられている。


「すいません、何かありましたか?」

「あんたんとこの娘か? 困るんだよ、次から次へと商品を触られちゃ」


 疲れた前掛けをつけた白髪の老婆が、やれやれと言いたげな困り顔でぐいっとクィスをこちらに差し出す。その動きは年齢を感じさせないくらい力強い。


「XXX!」


 クィスが栗色の髪の毛を振り乱しながら、何やらぶつぶつ言っているがさっぱりわからない。横を見るとユングヴィは苦笑していた。クィスが触ったという商品は積み上げられた菱形のナンのことらしい。焼きたてなのか、香ばしい香りが鼻をくすぐる。以前食べた乾燥した果物がのったナンと違い、こちらからは焼けた肉の香りもする。中に味付けした肉が入ったナンなのだろう。やや薄めの生地はさくさくといけそうだ。


 だめだ、腹が減る


「私、これ初めて見るの! XXX作りたい! おじいちゃん、おばあちゃん、私を弟子にして!」


 拿捕されているクィスが好き放題話している。ここで弟子入りしたらこの後の旅はどうするつもりなのだろう。ずっと苦笑していたユングヴィが、クィスが触った分も含めてナンを六つ買い取る。一人二つ食べられるわけだ。


「すごい!!! XXX!!!」


 クィスは水底のような青い瞳をきらきらさせて食べていた。おそらく美味しいと言っているのだろうが、口の中に食べ物が入った状態でしゃべっているため良く分からない。だが、いつもの無愛想な表情からは想像がつかないくらい、その表情は輝いていた。料理をすることが好きなのだろうか。


 佐成サセイも一口齧ってみる。


「これは……うまいな」


 肉汁とネギの甘味が口いっぱいに広がる。肉は少しくせがあるが噛む度に旨味が広がる。羊肉だろうか。そして、ネギがこんなに甘く味わえるとは知らなかった。これは確かにうまい。


「いい食べっぷりだなぁ、お嬢ちゃん、よーし、こっちも持ってけ」


 クィスの反応に気を良くしたのか、先ほどまでかりかりしていた老爺が別のナンをクィスに渡す。あとで聞いたところによると、干し葡萄と乾酪チーズのようなものが入っていたらしい。


「いやぁ、これは美味しいですね。ずっと旅してきましたが、こんな美味しいのは初めてです」

「あらそうかい、この異国のお姫様みたいなお兄さん、お世辞が上手ねぇ」


 向こうでは、ユングヴィが老婆よりたくさんお土産をもらっていた。はきはきしていて自分の関心のあることにはまっすぐなクィスと、穏やかで常に笑みを絶やさない異国の美青年とでもいうべきユングヴィ、この二人はおじちゃんおばちゃんから買い物をする上では最強の組み合わせかもしれない。


 こんなことがあったからか、ユングヴィはいつになく上機嫌だった。少なくともこんなにも表情を崩すユングヴィは初めて見た。


「なぁ、ユングヴィ」

「なんだい? 君」


 佐成サセイ自身もその陽気さに当てられたのだろうか。ふと、聞いてみたいことが、口からするりと出た。


「なぜ、俺を仲間に加えようと思った?」

「今更なんだい? 君が何を考えているのか知らないけれど、期待するほどはっきりした答えなんて出てきやしませんよ」


 ユングヴィはにこにこしながら金髪をかき上げてこちらをまっすぐに見る。


「戦があって、職に困っている者はたくさんいたから、そういう連中なら誰でも良かった? たまたま俺と出くわした?」

「あはははは!」


 ユングヴィが愉快そうに笑う。そして次の瞬間、唇を三日月型にゆがめ、人の悪い笑みを浮かべた。


「私は商人ですよ。相手のペースで商売されない、できるだけ誠実に安く買う。これは商売の鉄則です。商品を仕入れるにしても、食料を買い入れるにしても、そして案内人を雇うにしても、ね?」


 そりゃあ、必死に逃げている途中の敗走兵なら、食糧と安全を用意してくれれば安い値段でも喜んで仕事を引き受けるだろう。


「ただね、敗残兵ってのは時として荒々しい。自棄やけになっているからね。生きるため、目先の利益のためになんでもする。見極めは必要だね。それに……」

「それに?」

「出会ったのは偶然でも、続くかどうかは自分がしたことの因果、必然で決まるものだよ。きっとこの先どうなるかもね」


 佐成サセイは、自分はユングヴィから何を聞きたかったのだろう、と天を仰いだ。君だから選んだと言ってもらいたかったのだろうか。科挙で郷試から先へは抜けられず、軍では地位を取り上げられ、負け続けた自分を認めてほしかったのだろうか。過去に栄光があろうが、挫折があろうが、変えられるのはこの先だけだというのに。


 ああ、今まではこんなことをぶつぶつと考えなかった。考えてもすぐ中断させられた。やるべきことがあったから……いや、やるべきことはどこでもそれなりにあるはずだ。旅先だからだろうか。その解放感から考えてしまうのだろうか。


 きっとこの二人といる時間が居心地が良いから、こんなことを考えるのだろう。


 もう一度空を見上げる。喧噪けんそうが続く市場の上の空には、昼の濃い青空に小さな雲が1つ、所在なさげに浮かんでいた。その雲がこの異国の地で迷う自分自身であるように思われた。


 俺は、この楽しくはあるが一時的な「横道」から、故郷に、官吏への道になんとしても戻らないといけないのに。

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