第3話 敗走(前)

薄暮


 頼りない残照の朱色は落ちて行くかのように西の山の輪郭をはっきりと浮かび上がらせ、その向こうに消えていく。今はただ、濃紺になり始めた空に月が輝き、そのか弱い明かりを頼りに佐成サセイは馬を走らせていた。


 やめておけば良かったのか……都で、都で出世できずとも穏やかに生きるべきだったか……


 佐成サセイは都で役人になれず怠惰になっていたところを、親戚から遠征の際の書記官に空きがあるから、と誘われた。遠征軍の役職の中には、指揮官やその部下の裁量にゆだねられるものがあるのだ。官僚が多すぎる都よりも地方で武勲ぶくんをあげた方が出世が早いともいわれ、その話に深く考えず乗ったのだ。


 軍、これまたなんと頼りがいのありそうな大樹であることか!


 さらに一度異国を見てみたいと、幼少時より持っていた異国への憧憬どうけいについ動かされた。今にして思えば、なんて甘い認識だったのだろう。

 

 次第に戦場の歓声の悲鳴も聞こえなくなってきた。他にも逃げている兵がいるが、佐成サセイは他人には目もくれず必死に逃げた。この頃になると少し落ち着きを取り戻した。このまま逃げ続けて脱走兵扱いとなるのも怖い。そろそろ味方に合流したい。そう思いながら五里か七里は走ったであろうか、すっかり暗くなってきた頃、味方の陣のものらしき松明の明かりを見つけた。無数の明かりに照らされて「」と書かれた旗が翻っている。


 しめた!


 名将と名高い将軍の陣営ではないだろうか。北方の異民族相手に、帝国辺境を統べる西域都護府さいいきとごふの防衛で活躍し、その機動的な戦い方から「飛将」と呼ばれていた。飛び込む先としてこれほど安心できる友軍はいない。


「何者か!」


 警備の兵がこちらに気づいたようだ。味方であることを示すため、大きく手を振りながら近くにいた兵に声をかける。


「助けてくれ! 俺はガク将軍の部隊の者だ! 閣下は奮戦されたが、衆寡敵しゅうかてきせず隊は散り散りになってしまった。どうか俺も隊に加えて戦友の仇を取らせてほしい!」


 一部はウソだ。会ったことはないがガク将軍は有能な将軍ではない。今回もさっさと逃げたのではないだろうか。おまけの佐成サセイは成その子息には個人的な恨みもあった。


 親子でまとめて戦死してくれていれば心を込めて追悼ついとうしてやるのに……


「おお、それは大変だったな。ケガはないのか?」


 何も知らない警備の兵は心配そうに佐成に声をかけた。佐成サセイの心の奥に罪悪感がぴちょんと滴る。

 その後、佐成サセイは兵士の上官の尋問を受け、しばらくは武器を預けて他の敗残兵と一緒にまとめおかれることになった。与えられた寝床の周囲は兵士が見回りをしている。頼もしい限りだが、敗残兵に敵の間諜かんちょうが紛れているとも限らない。敗残兵を監視しているのだろう。

 だが、佐成サセイにとっては敵の真っただ中にいるよりはずっとましだった。夕飯の雑穀のかゆをかきこむと腹も落ち着き、なんとなく安心した気持ちになっていた。こんな場所でも、今の佐成サセイにはありがたい「大樹」だった。そう安心するとついうとうとと眠くなってくる。


セイセイ佐成サセイはいるか!」


 佐成サセイは飛び起きた。こんなところに自分のことを知っている者がいるという事実に眠気が飛んでいく。


「ここにおります! どなた様でしょうか?」


 飛び起きて、姿勢を正した。高級そうな黒い鎧を身に付けた武人が、何人か部下を引き連れてやってくる。

 佐成サセイは不安になった。まさか間諜かんちょうとでも見なされてしまったのだろうか。だが、松明に照らされたその顔には見覚えがあった。


「やはり佐成サセイか、久しいな! さっき見かけてもしやと思ったのだ。俺だ、蘇延ソエンだ、覚えているか?」

仲徳チュウトク殿!?」


 蘇延ソエン将軍のおいにあたり、かつて帝国の首都である上都央京府じょうとおうけいふにおいて、佐成サセイと同じ塾に通っていた塾友であった。昔から変わっていない血色の良い穏やかそうな丸顔に、子供のようにくりくりした眼をしている。だが、学友だった頃にはなかった眉間のしわと髭が伸びていた。苦労をしたが、えらくもなったようだ。

 蘇延ソエンはその後、科試かしに合格し、それを機に中央に出仕していたと聞いていたが、こんなところで会うとは思っていなかった。通常、科挙の合格者は文官として出世していく。軍にも文官や武官文官で共通の役職はあるが、佐成サセイのように官にあぶれた者でない限り、科挙合格者が軍に来るのは珍しい。

 なお、仲徳チュウトクとは蘇延ソエンの字名だ。かつてこの国の一部では、本名を呼ぶのは失礼とされ字名という仮の名を呼ぶ習慣があった。今ではすっかり廃れてしまった文化だが、上流階級や由緒ある家系の一族では字名を持つ者が残っていた。それは佐成サセイ自身には無縁のものであったが。


「伯父上が今回の遠征を率いると聞き、頼み込んで軍に加えてもらった。まあ、それはいいとして、お前、什長じゅうちょうだったと聞いたが……なぜ?」


 蘇延ソエンは無邪気そうに、大きな眼をくりくり動かしながら尋ねてきた。

 実は佐成サセイは元々は所属していたりょの記室として書類作成・管理を担当していた。実戦部隊の下級指揮官である隊頭たいとうよりも「位」としては上であった。


ガク将軍閣下のご子息に、まあいろいろあって逆らってしまいまして、それまでの地位は剥奪、隊頭たいとうに任じられました」


 隊頭たいとうが率いるのは五十人の隊だが、佐成サセイのところには十数名しか配属されなかったため、古代の十人隊長である「什長じゅうちょう」と小馬鹿にされた。什長じゅうちょうに任じられたわけではなかった。もっとも、記室はそもそも従軍文官がつく職掌であって、例え、正当な懲罰人事だとしても実績のある兵士が付くことが多い隊頭たいとうへの左遷は通常あり得ない。


「ああ、聞いたことはある。大したどら息子らしいな……穏やかで知られるお前が逆らうなんて珍しいとも思うが」


 そう言ってから、蘇延ソエンは周囲の護衛らしき兵を見回す。


「まあ、それは良いとしてお前をこのままただの兵にしておくのは惜しい。どうだ、逃げてきた兵をまとめてとんの一つ二つ作れるんじゃないかと思っているんだが、お前、指揮官やらないか?」


 とんは兵数およそ五百人の集団だ。佐成サセイが先ほどまで率いていた人数の五十倍になる。遠征軍の将軍には自分の指揮下の人事はある程度の裁量権が与えられている。とはいえ、今の佐成サセイには驚愕する他ない。


 そんなに蘇延ソエンに恩を売ったことがあったかな……塾にいた頃、女を口説くのに必要だからと詩を代作したことはあったが……


 それ以外では、佐成サセイには一緒に勉強して遊んでいた記憶しかなかった。


「俺から伯父上に取り継ごう。しばらくここの軍で働けよ。お前ならいずれは参軍さんぐんぐらいできるだろう。どうだ?」


 参軍さんぐんとは副官から参謀、使者といった役割を担う役職だ。佐成サセイにとっては雲の上のような地位と言える。


「ありがたいお話ですが……」


 佐成サセイはぼろぼろの自分の姿を見た。その様子を見て蘇延ソエンはふんわりと笑った。丸顔がさらに丸く見える。


「鎧も何もないか。それは用意しよう。久々に旧友に会えたのだからな。とりあえず客将ということだ。この戦が終わったら飲もう」

「ありがとうございます。拾う神とはまさにこのこと……」


 佐成サセイ蘇延ソエンに深々と礼をした。今の自分には厚すぎる好意にも思えたし、さすがに参軍さんぐんとなると務まるものか不安でしかない。だが、それは先の話であろうし、ひとまず遠慮なく甘えるのも良いだろう。これでしばらくは暖かい食事と寝場所にはありつけそうだ。この地は帝国の西の果て、上都央京府じょうとけいおうふまでおそらく三か月はかかるのではないだろうか。軍隊から離れて簡単に帰れるとは思えなかった。


 こんなところで拠るべき大樹に出会えるとは……!


 その日、蘇延ソエンはわざわざ佐成サセイにと良い位置に寝床を用意してくれた。と言っても、野営地の中で風がさえぎられる場所といくらかの食糧をくれただけだが、疲れ切った佐成サセイにはとてもありがたかった。周囲に点在する松明たいまつの明かりも安心させられる。


 とりあえず、寝よう


 佐成サセイは特に任務などは与えられなかったので枯草を集めて寝床とし、荷物の入った袋を枕とした。


 ん……なんだあれ?


 ふと、地面に何か光るものを見つけた。佐成サセイが気になってよく見ると、手のひら半分ほどの大きさの見慣れない物体が落ちていた。金属質の光沢があり、松明たいまつの炎を明々と反射している。

 最初は折れた武器か何かかと思い、拾ってみたがよく分からない。


うろこ……? にしては大きいか?」


 思わず佐成サセイは一人つぶやく。それは鱗に見えた。黒く、金属質で非常に硬い。丸みを帯びた五角形をしており、その先端は鋭く、手を切ってしまいそうだ。


「ああ……素敵だ! これはなんなんだろう! このつや、信じられないよ!」


 思わず嘆息がダダ漏れになり、佐成サセイの歓喜の声が飛翔する。佐成サセイは生き物が好きで、小さい頃から昆虫のはねや魚のうろこを剥がして収集したり、魚や蜥蜴とかげを飼育したりして、周囲の人間から変人扱いを受けてきた。生き物に関する書物もずいぶん読み、それに夢中になり過ぎて政治や詩作が問われる科挙に落第したのだ。

 興奮が落ち着いたところで、佐成サセイは今はそれどころじゃないと気づき、寝ようとしたがやはり気になった。よく見るとそのうろこのようなものは一つではない。辺りに何個も散らばっていた。拾い集めてみるとどれも同じような大きさ、形をしている。だが、こんなぴかぴかした鱗を持つ生き物とは何だろう。今までに見た生き物や書物で読んだものを思い出していくが、佐成サセイはその行程を脳内で進めていくうちにいつの間にか眠ってしまった。

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