第4話 Bボタンで消せない嵐

 九月に入ってしばらくすると、台風が私たちの住む地域に直撃した。

 分厚い灰色の雲が空を覆い始めていたから、私とサモちゃんは庭に置いているものを家の中にしまって台風に備えていた。

 「エマノン、明日は臨時休業するって。さっき彩さんから連絡きてた」

 「エマノンに行くまでの道も危なそうだし彩ちゃん達も英断だよ」

 「おねーさんの会社も明日は休みになりそう?」

 「電車が止まってくれたら休みになるんだけどなあ……止まらなかったら出社しないと駄目かも」

 雨の中ずぶ濡れになりながら駅を目指す自分を想像し、憂鬱な気持ちのままサモちゃんにそう答えた。

 そんなことを言っていた矢先に、電車が計画的に運行を取りやめるというニュースが耳に入ったから、私はすぐに会社に電話をして翌日は会社に行けないと伝えた。

 「これで私も明日は休みだよ」

 私が電話をするのを見守っていたサモちゃんは胸をなでおろした。

 「台風の中でおねーさんが外に出たら風邪引くんじゃないかって思ってたからちょっと安心したよ」

 「ありがとう。今のうちに窓ガラスにガムテープ貼ってガラスが飛び散らないようにしとこうか。あっ、停電した時どうしようか。確かサモちゃんランタン持ってたよね」

 「念の為に今充電してるよ。おねーさん、他に何か用意してる?」

 サモちゃんは二階からガムテープを取って降りてきてくれた。窓の高い位置にガムテープを貼るのはサモちゃんに任せることにしよう。

 「インドア引きこもりはこういう時に備えて水を大量に買っておいたよ。物置の奥に置いてるから後で何本かリビングに持ってくるよ。あとカップ麺も一人暮らしの時に買いだめしてたのが部屋にあるし、それも持ってこようか?」

 「おねーさんってこういう時に頼りになるなあ。じゃあ僕もキャンプで使ったガスバーナー持ってくるね」

 私にとっては当たり前のことをしていただけだがサモちゃんに褒められてしまい、くすぐったい気持ちになった。インドアを極めていることに対して呆れられると思っていたくらいだ。

 今までは幸いにも台風が直撃するなんてことはなかったから、色々自分なりに対策を調べてはいたが多分一人で台風に備えていたら無駄にあたふたしていただろうから、サモちゃんが側にいることが心強かった。

 夜の間は風も雨もさほど酷くはなく、すんなり眠ることが出来たが、布団の中で眠りこけている最中に、獣がうなるような風の音で目が覚めてしまった。

 スマホで時間を確認してみると、まだ朝の五時だ。二度寝のためにもう一度目を閉じてみたが、窓を揺らす風がますます強くなってきたせいで完全に目が覚めてしまった。

 意識が覚醒してくると体も目覚めてくるのだろうか。お腹が鳴った音が虚しく部屋に響いた。

 これは潔く起きてしまって何か食べた方が良い気がする。冷蔵庫の中にサモちゃんが作った作り置きのおかずがあったような気もするし、それを少し食べよう。

 私はノロノロと起き上がり、階段を下りてキッチンに向かうと、すでに見慣れた背中の先客がいる。

 「サモちゃんおはよう」

 私が声をかけるとサモちゃんは振り返って笑った。

 「あ、おねーさんおはよう。おねーさんもこの風で起きちゃったの?」

 「そう。二度寝しようとしたけど無理だったよ……。しかもお腹空いてきちゃって」

 「僕も一緒。とりあえず停電しないうちにスープでも作って保温しておこうかなって」

 サモちゃんはそう言った後、小さくあくびをした。サモちゃんはいつもきちんと髪を整えているが、よく見れば今日はいくつか寝癖が立ったままだ。

 しっかり者のサモちゃんのこんな一面を見られるなんてそうそうないので、早起きは三文の徳とはよく言ったものだ。

 「まだだいぶ眠そうだけど包丁持って平気?」

 「んー……たぶん? 慣れてるし大丈夫だと思うよ」

 言葉通り問題ないと思うが、まだ眠たげなサモちゃんが包丁を使ったらケガでもしないか?

 「サモちゃん、私手伝うよ。何切ったら良い?」

 「本当? ありがとうおねーさん。じゃあまずはニンジン切って」

 サモちゃんは眠そうな目を細めてフワフワとした笑顔を見せた。なんだかそれが本物のサモエドみたいな表情で朝から気持ちが和んでしまった。

 サモちゃんに言われたとおりに野菜やベーコンを切った。料理慣れしてない私が具材を切るたどたどしい音がキッチンに響く。

 不揃いな形で材料を切り終える頃にはサモちゃんも意識がハッキリしてきたようだ。

 私を見るまなざしは眠くなさそうだ。

 「やっと目が覚めてきた。おねーさん、色々やらせてごめんね」

 「ううん、私は今までやらなかった分の特訓も兼ねてるから気にしないで。サモちゃん、材料全部切ったけど、次は何をすれば良い?」

 私の言葉を聞いて、サモちゃんは少し表情が和らいだ。その後、戸棚から鍋を取り出して

 「おねーさんが頑張って色々してくれたし、残りは僕が作るよ。おねーさん、今日はありがとう」と笑った。

 サモちゃんはスープが出来上がる頃に、追加でチーズオムレツも作ってくれた。

 温かいスープとふわふわのオムレツで朝食を摂る頃には雨も風もさらに強くなっていた。

 なんだか家全体がガタガタ揺れているような気がする。庭にある木も風で強くしなっているが、なんとか耐えてくれているようだ。

 「ここ、家の中はリフォームしたって聞いてたけどさ、家の外はどうなんだろう」

サモちゃんは手を止めて不安げに窓の外を眺めた。

 「たしか窓は強化ガラスだって聞いたし、屋根も瓦じゃないから飛んだりしないとは思うよ。ただ、こんな台風今までなかったから少し怖いよね」

 「おねーさんが嫌じゃなかったらなんだけど、なるべく今日は一緒に居て良いかな。何か台風で壊れた時とか二人で処理した方が対応も早いと思うし」

 普段と違う空模様を見ていて私も心細くなっていたから、サモちゃんの提案は私にとっても救いだった。

 「その方が良いね。じゃあ食べ終わったら暇つぶし用にパソコン持ってくるよ」

 「僕もゲームか何か部屋から取ってくるよ」

 サモちゃんは笑って、またスプーンを手に取り食事を再開した。

 サモちゃんは食器を片付けにキッチンに行ったついでに、鍋のスープが温かいうちにスープジャーにスープを移していた。

 それから、追加で沸かしたお湯をステンレスポットに入れてくれたのでもし停電になった時はお茶やカップ麺を作る時に使わせてもらおう。スープとカップ麺だと汁物同士で被っている気がするが、まあ良しとしよう。そんな気持ちで、私はティーバックやカップ麺をステンレスポットの側に並べて置いた。

 二階からブランケットやパソコンを持ってきてリビングに向かう頃には、雨が窓を叩きつけるように降り出していた。

 そんな中で、私はサモちゃんが持ってきた物の中からNintendo Switchを見付けた。

 「あ、Switchだ。私も持ってるよ」

 「そうなの? 僕おねーさんが遊んでるところ見たことないけど。基本パソコンかスマホで遊んでるイメージがある」

 「あー……それはね……」

 CMを見て面白そうだと買ったところまでは良かった。だがその後は「手元にあるからいつでも遊べる」と思って結局一度も遊ばずに放置している状態だ。

 私がサモちゃんとSwitchを交互に見ながら言い訳を考えていると

「おねーさんって買ったら満足してそのままにしておくタイプ?」とサモちゃんが少し呆れつつ笑った。

 ごもっともです。私は期間限定のコスメを買ったら手元にあるだけで満足して中々使えないタイプだ。

 「じゃあ試しに僕と一緒にゲームしない? 僕の持ってるソフト対戦出来るやつだしおねーさんも操作覚えられるし」

「ありがとう。私のSwitchは今度箱から出してあげるところから始めるよ」

「それが良いよ。初期設定はあったけど割とすぐ終わったはずだよ」

サモちゃんとはいそいそとSwitchをセッティングし出した。その背中を見て、まだサモちゃんは大学を卒業して一年も経ってない男の子なんだなと思い出してこっそり笑ってしまった。

 私がゲームに不慣れなこともあり、サモちゃんは最初に操作方法を教えてくれた。

 「サモちゃん……もしかしてゲーマーだったりする? なんかプレイ時間百時間越えてるけど……」

 「学生時代に友達と一緒に遊んでるうちに気付いたらこんなプレイ時間になってました……」

 サモちゃんは少し照れたが、かなりのゲーマーだと思う。

 実際に対戦してみて分かったが彼は間違いなく強い。気付いたら懐に潜り込まれてそのまま負けてしまう。

 横目でサモちゃんを見ると普段見ないような真剣な顔をしてプレイをしていた。

 だが、さすがに負けが続いた私が画面に向かって鬼のような形相をしていたのに気付いたのかサモちゃんは少し手加減を始めた。おかげで、こっちもサモちゃんに勝てそうな対戦が増えてきた。

 「私もこのゲーム買って鍛えようかな」

 画面から目を離さずに呟いたのをサモちゃんは聞き逃さなかった。

 「本当? おねーさんが強くなったらもっと一緒に遊べるから楽しみ……あーっ! おねーさんここで切り札使ってくるのどうなの? 僕画面見てなくてノーガードだったじゃん!」

 サモちゃんが画面から目を離した隙に攻撃を叩き込んだおかげで私は初めて勝てた。ズルい? いや違う。私は大人だから勝機を見逃さなかっただけだ。初勝利の高揚感もあって少し呼吸が荒くなる。

 「よそ見してたし接待プレイかなと思って。ほら、勝てたよ! 見て見て!」

 画面を指差しはしゃぐ私を見て、少し釈然としない顔をしていたサモちゃんだったが、しばらくすると満足げに笑った。

 「あー、もう。こういう負け方ちょっと悔しいけどおねーさんと遊ぶの楽しいから良いや。女の子とゲームするのっておねーさんが初めてだし」

 コントローラーを投げだして、サモちゃんは仰向けに寝転んだ。

 「そうなの? サモちゃんならモテただろうし今までの彼女のこともコテンパンにしてたのかと思った」

 サモちゃんの言ったことが意外だったので、思わずそう口走ってしまった。

 「実は僕、彼女がいても長続きしたことないんだよ」

 サモちゃんは寝転がったまま困ったように言った。

 「僕としては一緒にいるだけでも十分だったんだけど『気持ちが分かんない』とか『愛が足りない』なんて言われて毎回フラれてた。多分なんだけどね、僕が子供の頃に親が海外出張することが多くて親戚の家に預けられて育った分、自分のことは自分で出来ても甘えるのが下手になったんじゃないかなって思うんだ。……まあ僕の方も別れを切り出されたら引き止めもせずにさよならしてたし。きっと物凄くドライで酷い男って思われてたんだろうな。僕としては付き合ってる時は大切にしていたつもりなんだけどね」とぼんやりとしながら天井を見つめていた。

 昔のことを訊いた時にどこか苦々しい表情をしていたのはこういう過去があったからなのか。

 「……あんまり思い出させたくないこと言わせてごめんね」

 「ううん、どの道おねーさんと付き合っていくにはいつか言わなきゃダメかなって思ってたことだし。むしろ今言えてすっきりしたよ」

 弱々しくヘラリと笑いながらサモちゃんは答えた。

 サモちゃんのことだ。たまたま知り合った私に対して誠意のある付き合い方をしてくれているんだし、お互いの気持ちの歯車が噛み合わなかっただけで付き合っていた人たちをしっかり愛していたと思う。

 私は人付き合いが人より足りてなかった分、こういう時かける言葉が上手く見つからない。今までの生き方を悔いる訳ではないが、もどかしいなと思った。

 「サモちゃんなりに付き合ってた子たちを大事にしてたんなら良いんじゃないかな」

 サモちゃんの隣に寝転びながら私は言った。

 「その子たちに合わせてたらサモちゃんも疲れてたと思うよ。恋人同士とかじゃなくても、人と人との付き合いってお互いを思い合うことが大切だろうし。……って人付き合いを最小限にしてきた私が言っても説得力ないけど」

 私がそう言い終わると一気に視界が暗くなったのと同時に背中に暖かいものが触れた。

 最初は停電したのかと思ったが、しばらくしてサモちゃんが私を抱き寄せていたのに気付いた。

 「サモちゃん」

 「なんか、おねーさんが言ってくれたことが嬉しかったから。もうちょっとだけこうしたままでも良い?」

 サモちゃんの胸に顔を埋めたまま私が呼びかけると、顔は見えないが声が降ってきた。私を抱きしめる彼は、なんだか照れているように思った。

 「良いよ、今日はおねーさんが甘やかすからね! よしよし」

 顔を上げた私はふざけてそう言いながら子供をあやすようにサモちゃんの背中をトントンと叩いた。なんだかそうしているうちに本物の大型犬とじゃれ合っているような気分になっていた。だから気付いた時にはサモちゃんの髪を「よーしよし」と言いつつわしゃわしゃと撫でていた。サモちゃんの髪はふわふわと柔らかい髪質で、ずっと撫でていられそうだった。

 「なあに? くすぐったいよ」

 サモちゃんは髪を撫でる私を見てクスクス笑っていた。

 「ごめんごめん。なんか大型犬と遊ぶのってこんな感じなのかなって思ってたらつい」

 私はサモちゃんの髪からサッと手を離した。

 「ふーん」

 サモちゃんは意地悪な笑みを浮かべた後、私がさっきまでしていたように私の髪に手を撫でた。

 だが、私がしたようなものよりも優しく、壊れ物でも扱うような手つきだった。

 サモちゃんに髪を撫でられるのは初めてのはずなのに、なぜかそんな気がしない。

 髪を撫でる手つきも、私を見つめるまなざしも全部優しいので、落ち着かない気持ちになる。

 「サモ、サモちゃん?」

 声が裏返ってしまった私に呼び掛けられてもサモちゃんは髪を撫でる手を止めなかった。

 「僕が本当に犬だったらおねーさんにこんなこと出来ないよ?」

 子供を寝かしつけるような優しい声色でサモちゃんは言った。

 「た、確かにそうだね。それはよく理解出来ました」

 よくよく考えたら寝転がりながら抱きしめ合うのは相当に恥ずかしい状況だ。

そう気付いた瞬間に一気に体温が上昇していた。

 「ねぇ、おねーさん。……もっとドキドキしてみる?」

 トドメを刺すかのように、サモちゃんが耳元で囁いた。

 鏡を見なくても分かる。今の私の顔はトマトみたいに真っ赤だ。

 返す言葉も出てこなくて呆然としているとサモちゃんは吹き出した。

 「なんてね。おねーさんのこと、からかったらどうなるのかな? って思って言ってみたけど、おねーさん可愛い反応しすぎ。想像以上だったよ」

 「うわー! サモちゃんに弄ばれた!」

 赤くなった顔を隠すために、笑うサモちゃんの胸に顔を埋めながら軽口を叩いた。半分くらいだし、これくらい言っても良いだろう。

 「ごめんね。おねーさんって普段からあんまり動じないしこの位してみても良いかなって」

 サモちゃんはさらりとそう言ったが、恋愛経験の乏しい人間に対してやって良いことと悪いことはあるだろう。

 気持ちを落ち着けようと深呼吸をしてみてもサモちゃんの洗いたてのシャツの匂いに邪魔されてしまう。

 私と同じ洗剤を使っているはずなのに、私のそれとは少し違う気がしたが嫌な気はしない。

 ちょっと新たな発見をしたような気になったが、気まずくなってきたのでそろそろここから逃げてしまいたい。

 「サモちゃん、もう十分甘やかしたしそろそろ離してくれる?」

 私が身じろぎすると、サモちゃんは私を抱きしめる力をさらに強くした。

 「サモちゃん……?」

 「おねーさん、今日は僕のこと甘やかしてくれるって言ったよね? 僕、まだ甘え足りないから離れたくないなあ」

 サモちゃんの言葉通り、どうやっても逃げられないことを悟った私は早々に諦めた。

 「サモちゃん……私思うんだけど今までの彼女にもこうやって甘えてたら良かったんじゃないの?」

 「そうなのかな。なんとなくそういうのって気が引けるんだけど」

 「今は私に対してこれでもかって位に甘えてますが」

サモちゃんは少し考えた後、何かを思いついたようで嬉しそうに笑った。

 「じゃあきっとおねーさんにはこの位甘えても良いかなって見極めが出来てきたんだよ」

 あまりにも堂々と言うものだから、なんだか可愛く思えてくる。

 「そこまで言われると特別感があって嬉しいねぇ。……でも、なんだかゴロゴロしてたらちょっと眠くなってきたかも」

 あまり眠れてない上に満腹な状態で横になっている。その上私を覆うように抱きしめるサモちゃんは体温が高い。今の状況は湯たんぽを抱えて横になっているようなものだ。

 「僕もちょっと眠くなってきたかも……。アラームつけとくし寝ちゃおっか」

 スマホを触っているサモちゃんが見えたが、もう目を開けていられなくなった。

 「起きる時間は任せるよ。多分このまま寝落ちるけどごめんね」

 目を閉じながら言うと、サモちゃんはブランケットを私の肩までかけた後もう一度ぎゅっと抱きしめてきたた。

 「おやすみ、おねーさん」

 体を引き寄せられた分、サモちゃんの心音がよく聞こえてくる。窓の外から聞こえてくる雨音と相まって心地良く思えた。

 それを聞いているうちに、私はいつの間にか眠りについていた。




 ふと目を覚ますと、雨の音はまだ激しかったが、朝方よりはいくらかマシになっていた。

 サモちゃんは小さな寝息を立てて眠っている。

 顔が良いと寝顔も綺麗なんだな。

 まだ眠気の取れない頭でサモちゃんを見ながら思った。よく考えるとこんな寝顔を独占出来るのは贅沢な気がする。これが付き合っている特権というものなのかもしれない。

 しばらくサモちゃんの寝顔を見ていたが、また眠気がやってきたので、もう一度サモちゃんの胸に顔を埋めた。

 こういう雨の日も悪くない。そう思いつつ、私はもう一度幸せなまどろみに身を任せることにした。





 翌日からは台風が来ていたなんて嘘のように晴れ、雲一つない秋晴れが続いた。

だが穏やかな天気とは対照的に、私の職場では台風の影響で残業が続くようになった。

 毎日朝から晩までひっきりなしにかかってくる電話対応や書類作成に追われ、私も同僚たちも疲弊することが増えた。

 挙句の果てには、始業前と始業後に残業するように通達が出てしまったので、サモちゃんが起きる前には仕事に行く日が多くなってしまったし、夜帰って来てもサモちゃんがエマノンから帰る前に疲れ果てて寝てしまう日が続いた。

 十月に入ってもそんな日が続いたので、私はサモちゃんと面と向かって会話したのがいつだったかも曖昧だ。

 忙しくなってきた当初、朝も早く仕事から帰る時間も遅くなってしまうのでサモちゃんには私の分の食事は作らないで良いと伝えたことがあった。サモちゃんは何か言いたげな目をしていたが、少しすると「分かった」とだけ伝えて少し悲し気な目をしたまま笑った。

 一緒に暮らしている私がサモちゃんにそんな顔をさせたという罪悪感もあり、家に帰りにくくなっていたというのも事実だ。

 次第に帰りにくくなってきたこともあり、帰宅時間がズルズルと遅くなっていた。

コンビニで食事を買い、休みの日はサモちゃんと顔を合わせないように寝ているだけの私は、駄目なやつなんじゃないかと自己嫌悪からますますサモちゃんに顔を合わせにくくなってしまった。

 このまま一年経たずに同居を解消されても仕方ないような気がしていた十月の半ば、昼近くまで寝ていた私の耳にドアをノックする音が聞こえた。

 「おねーさん、起きてる? もし起きてたら手伝ってほしいからキッチンまで来てほしいんだ」

 きっと、寝たふりをして何も返事をしなかったとしてもサモちゃんは許してくれるだろう。だがそれをしてしまったとしたら私は今後サモちゃんと本当に合わせる顔がなくなってしまう気がする。

 ノロノロと起き上がり、着替えてキッチンまで降りると普段と変わらない笑顔のサモちゃんが立っていた。

 「おねーさん寝癖すごいよ。メドゥーサみたいになってる」

 「夜しっかり乾かしても朝になると爆発してるんだよね。多分乾ききってないんだろうな」

 「こんなおねーさん初めて見たけど、なんとなくオフの日って感じがして良いね」

 軽く私の髪を撫でるサモちゃんを見て、台風の日のことを思い出して一瞬どきりとしてしまった。顔に出る前に話題を変えよう。

 「手伝うって何すれば良いの?」

 「実はエマノンで栗をもらったから栗ご飯にしようかなって。量も多いし皮むき手伝ってほしくて」

 サモちゃんがチラリとカウンターに目を向けた。カウンターを見るとボウルの中に栗が浮かんでいた。

 「栗って剥いたことないし時間かかると思うけど、良いの?」

 「うん、今日は僕もおねーさんも休みだし。ちょっと遅めのお昼ご飯になっても大丈夫だと思って。……あっ、栗ご飯苦手じゃない?」

 「ううん。食べるの自体は好きだから問題ないよ」

 「それなら良かったよ」

 こういう何気ないやり取り、そう言えば最近サモちゃんとしてなかったな。そう思うと気持ちが少しほぐれていく気がした。

 サモちゃんに言われた通りに栗の鬼皮を剥いた。渋皮は「包丁を使うんだけどおねーさんがケガしたら危ないから」とサモちゃんが剥くことになった。

 なんとなく会話が途切れるのが嫌で、私はいつもよりも饒舌になった。久しぶりにサモちゃんと顔を突き合わせるからなのか、無言になる瞬間が怖かった。

 下準備も終わり、後はご飯が炊けるのを待つだけになった。

 「おねーさんの淹れてくれたお茶、久しぶりに飲みたいな。お願いしても良い?」

 「あっ、うん。良いよ。じゃあご飯が炊けるまでお茶にしようか」

 部屋に戻るか迷っていた時にサモちゃんからおねだりされてしまった。

 お湯を沸かしながら会話のきっかけになりそうなことはないかを必死に思い出していた。普段は心地良く思える無言の時間が、今の私には果てしなく続きそうで嫌だったから。

 緑茶をカップに注ぎ入れてサモちゃんに手渡す瞬間も、よそよそしくなったように思える。

 「おねーさん、あのさ……言いたいことがあるんだ」

 お茶を一口飲んだあとサモちゃんが私を呼んだ。

 「なあに、サモちゃん」

 最近家のことを蔑ろにしていることに対して怒られるのだろうか。呆れられているのかもしれない。サモちゃんの口から出る言葉を聞くのが怖くて仕方なかったが、私は何事もないかのように笑ってみた。

 「おねーさんが仕事で忙しいのは分かってるんだ。だけど、最近は中々おねーさんに会えないでいるから……一緒に住んでるはずなのに今までの中で一番距離が遠い気がしてちょっと寂しい」

 ああ、サモちゃんは怒っていない。むしろ私がいなかったことで寂しい思いをさせていたんだ。私は胸をぎゅっと抑えられたように苦しく感じた。

 「前、サモちゃんに私の分のご飯作らなくて良いよ。って言った時あったでしょ? サモちゃんは料理を作るのが好きなのにそんなこと言ってしまったって申し訳なさと『サモちゃんに会った時どんな顔すれば良いんだろう』って考えすぎてサモちゃんに会えなくなってた。嫌なこと言ってごめん。それから、寂しくさせてごめん」

 謝るしか出来ない私を見て、サモちゃんは少し考えた後ぽつりと呟いた。

 「おねーさん、ぎゅってしても良い? おねーさんがいるってちゃんと感じたい」

 不安が混じる目でそう言われた瞬間には、気付けば私の体は動いていた。椅子をしまうことも忘れてサモちゃんに駆け寄り、強く抱きしめていた。

 今の彼の気持ちを表しているような猫背をそっと撫でる。ごめんね。もっと早く会話をするように努力すれば良かった。二十歳を過ぎたばかりの男の子に、こんなことを言わせるまで放置していた私はバカだ。

 「これからはもっと早く帰れるように努力します」

 「うん……。あと次のおねーさんの出勤日からまたお弁当用意したいんだけど嫌?」

 「嫌じゃないよ。むしろごめんね」

 サモちゃんは首を横に振った後、私の背中に腕を回した。

 「ううん。おねーさんに作るご飯は楽しいし好きだな。だから今後もおねーさんの食べるものは僕に用意させて」

 「うん。よろしくお願いします」

 ほくほくとした柔らかな甘さの栗ご飯を食べながら私とサモちゃんは久しぶりに沢山話した。

 次の出勤から、私は今まで通りの勤務時間に戻りつつ残業を減らすようにした。

 余談ではあるが、この一連のやり取りの後からサモちゃんはことあるごとに私を抱きしめてくることが増えた。具体的にはリビングでソファーに座る時に私を抱きかかえるだとか「ただいまのハグだよ」なんて言いながら抱きついてくるとかそういう感じだ。

 ぬいぐるみみたいに扱われているようではあるが、サモちゃんに嫌われていない証明でもあるから、あまり気にせずにいることにした。

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