短編小説集

mzfYbSPb9w(仮)

 ――まただ。

 原因は分らないけど、今、頭で思い描いたイメージが、透明な薄い膜になって、さっきまで頭があった場所に浮いている。同じことは前にも起こった。今度も例の業者に売ろう。今回は、いくらで買ってくれるだろうか。この膜を燃やすと、周囲に煙が広がって、膜が燃えつきるまで、その煙の中では、膜に封じ込められたイメージの世界が現実になる。イメージには、映像だけじゃなくて、音も触覚も匂いもついている。ただ、それだけのものだ。こんな膜を欲しがる物好きが、世の中には、けっこういるというから、信じられない。

 前回、売った膜は、九枚だった。どうしても欲しいという買い手がいたそうだ。

 この膜が初めてできた時、不気味に思って原因とかを調べた。一つ分かったのは、この現象に見舞われる人は、全国規模、あるいは世界規模だとそれなりの数がいて、膜がけっこう高値で売買されているということだった。諸般の事情により、金に困っている自分は、さっそく業者を見つけて売った。

 今回できた膜は残念ながら一枚しかない。イメージの内容はというと、真昼の空で月が激しく揺れ動いた、ってだけのものだ。ちょっと地味すぎな気がする。こんなもんが売れてくれるんだろうか。でも、昼間だから明るいのに、月ははっきりと見えていたのが不思議ではある。

 左下の奥歯の外側付近のほっぺたに、もう一つ、丸く膨らんだ、ブラックホールみたいな小さな影ができた。これは、ただ、ほっぺたの表面に黒い模様ができた、のではなくて、そのあたりの空間そのものに真っ黒な球体が出現した、ということだ。いったい何なんだろう。心配で落ち着かない。


 例の業者に連絡すると、前回と同じ、セーラー服を着た、青白い顔の若い女性の従業員が我が家を訪ねてきて、たった一枚の新しい膜のことで、ずいぶん感謝された。その業者は今、膜を仕入れる相手がいなくて困っていたんだという。ちなみに、さっき、「若い女性」と表現したけど、セーラー服を着るほどの若さではない。

 その従業員と一緒に来た、業者の社長は、我が家のそばの坂道に、酔っぱらって寝転がっていた。社長の服には、反射シールが貼ってあって、夕闇の薄暗い中で光っていた。

 セーラー服姿の女性従業員のところに、電話がかかってきた。昔懐かしい感じがする、なかなかいいメロディーの着信音だ。社長の祖父が、手こずっていた膜の研究を一段前進させることに成功したという知らせだった。

 電話の主は、社長の祖父の代理人だ。あの代理人は前回、膜ができてから何日か経った後で、実験用の測定器具を届けにきた。今回は点検と内部システムの更新をしたいとかで、その測定器具を社長の祖父の研究施設に持ってきてくれ、という話だった。社長の祖父は、人生の中で、もはや膜の研究を進めることにしか興味を持っていない。もう何十年も膜の研究を続けていて、ふだんは無口ではありながらも、ときどき鋭い洞察力が垣間見える点については、自分もいくらか感心している。

 自分は、まったく気が進まないものの、一歩一歩、地面から重い足を上げて、社長と女性従業員に連れられて、社長の祖父の研究所に向かった。ああ、嫌だ。


 研究所に到着すると、まず最初に、ほっぺたにできた影のことを調べてもらった。残念ながら、現状ではまったく原因不明だと説明された。今後も調査を継続してくれるという。期待はしていない。

 社長の祖父は、膜の研究に多くの年月を費やすうちに、研究を芸術のように弄ぶようになっていた。もうだいぶ高齢なこともあって、体調がすぐれないにもかかわらず、病気を治療したり予防したりしながら、なんとか今までどおりの研究を続けている。

 自分は実験に協力することでも報酬をもらっている。断りたいのが本音だ。でも、金がないから仕方がない。いろいろなことをさせられて、膜が出てくるのを待った。どんな状況でどんな膜ができるのかを調べるためらしいんだけど、長くやってると飽きたり疲れたりする。単純な実験とはいえ、指定された手順を間違えないように集中して延々と行なわなければいけない。いったい、いつ終わるのか。ちなみに、実験中に膜ができることは、ごく稀だ。まるで、当たる見込みが乏しい占いを延々とやってるような気分になる。

 社長の祖父がなにか消火器に似た道具を持ってきた。それを使って、固まる前のセメントみたいなどろどろしたものを頭にかけられた。


 社長の祖父は研究をさらに何年か続けた結果、膜を作る薬の開発にとうとう成功した。ただし、膜ができる頻度がかなり高いうえ、燃やさなくても、ひとりでに膜がしぼみながら煙が出る。膜は最後には消えてしまう。自分と社長の祖父はさっそく薬を飲んだ。ちなみに、薬の効果は一度飲むとずっと持続する、と社長の祖父は予想していた。

 社長の祖父と自分がすぐそばにいた時に、それぞれの頭があったところに、ほぼ同時に膜ができた。二つの膜から出てきた煙が混ざりあって、それぞれの膜の世界が融合すると、この世界全体にくまなく〈幸福〉そのものが広がった。この〈幸福〉は、膜が消滅した後も、消えずに残り続けた。

 社長の祖父と自分は、〈幸福〉を存続させたほうがいいと考えた。そこで、二人でよく話し合った結果、これ以上、膜の世界を混ぜて、万一、〈幸福〉が消えてしまうようなことがないように、互いに関わりを断つことにした。


 ある日、ほっぺたにできていた黒い影が、ゆっくりと膨張していった。影は、自分の頭と同じくらいの大きさに膨らんだところで、〈事柄〉そのものになった。

 あたり一面に、様々な大きさの、見ると吸い込まれそうな感じがする平面が無数に現れた。これらの平面の中では、シュルレアリスム絵画みたいな不思議な光景が現れたり消えたりを繰り返している。この光景は〈未来〉だ。〈未来〉の現われの平面のうち、大きなものはすべて繋がりあって、ますます大きくなっていく。

 その平面を、おびただしいプラスチックの腕が一つ一つ数えていた。

 〈未来〉の現われの中では、通常の出来事の流れが乱れている。ほっぺたの影が少ししぼむたびに、新しい平面が一つ出現する。影もわずかずつ膨らむ。影がしぼんだり膨らんだりを繰り返す。でも、影がしぼむ速度に、影が膨らむのがぜんぜん追いつかない。ほっぺたの影が全部なくなったら、何が起こるんだろう。

 ここで、ふと、「たまたま実ったバナナが憎らしい。尖った詩よ、尖った詩よ」という言葉が心に浮んで、しばらく繰り返しつぶやいた。

 すると、自分は〈存在〉になった。プラスチックのような腕は一斉に平面を数えるのをやめて、自分を、何度も何度もつかんで、少しずつバラバラにしていった。

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