白いバラ

亀子

第1話

 ふと気づくとリビングに白いバラが1輪、生けてあった。私は首を傾げる。誰が生けたのだろう。小学2年生の娘は花が好きで、度々道端に咲いているものを摘んでくる。が、これは明らかにそういった類のものではない。温室で丁寧に育てられ、店頭にならんでいる花だ。

 夫だな、と思った。私たち夫婦は、ここ3日ほど口をきいていない。些細なことで言い争いになり、大喧嘩になってしまったのだ。

 美しいバラを前に、私は笑ってしまった。きっと彼は仲直りしたくて買ってきたのだろう。直接渡すのではなく、黙って生けておくだなんて、やはり彼は性格がねじ曲がっている。まあ、そういうところが面白くて彼のことを気に入ったのだが。

 その晩、私は夫を機嫌よく迎えた。あちらが折れてきたのだ。許してやるのが大人の対応というものだろう。私の笑顔を見ると彼は少し意外そうな表情になった。が、すぐに態度も表情も柔らかくなっていった。

 いつもの穏やかな空気が戻り、今まで通りの日々がまたはじまるはずだった。それなのに。

 娘の様子がおかしい。

 うるさいほどおしゃべりだったはずなのに、急に口数が減った。食欲も減退し、ふっくらした頬は見る間に痩けていく。病院にも連れて行ったが、異常はなかった。学校で何かあったのではと思っていたところ、向こうから電話がかかってきた。あちらも娘のただならぬ変化は気になったらしい。担任の先生と話してみたが、学校でも特別変わったことは起こっていないとわかっただけだった。

 なにもわからないまま、どんどん時間だけがすぎる。娘はもう、以前の彼女とは全く別人になっていた。元々大きかった目は痩せたせいで更に大きくなり、落ち窪んでまるで老人のようになっている。皮膚は乾き、水気も張りも完全に失われてしまった。髪からは子供らしい艷やかさが消え、すっかり細くなった手足は、まさに骨に直接皮が張り付いているだけのようだ。

 おかしい。確かに最近の娘は食欲もなく、充分な食事を摂れていない。しかしほんの一ヶ月ほどで、ここまで面変わりするものだろうか?これではまるで弱り切った老人、というより地獄絵で見た餓鬼のようだ。

 私にはもうひとつ、気になることがあった。娘は最近、眠るのを恐れているようなのだ。

ーあの子が来る。

 そう言って、寝るのを嫌がるのだ。夢に誰かが出てくるらしい。どんな夢なのか詳しく訊ねたが、はっきりとわからなかった。とにかく、女の子がでてくる。彼女は夢に出てくるだけで、特に何もしないらしい。ただ、じっと娘を見ているというのだ。

 それはどんな女の子なのかと問うたが、こちらもあまりはっきりしない。知らない普通の女の子。特徴は腰まである長い髪。私と同じくらいの歳なのと娘は言ったーということは小学校低学年か。その子が毎日夢に出てくるから怖くて眠りたくない、と言うのだ。 

 とはいえ、眠らずに済むはずがない。娘は毎晩うなされていた。起こしてやる事くらいしかできない我が身が怨めしい。

 それでも、娘は幼いながらに必死だった。自分に何が起こっているのかわからず、それでも彼女なりに今の状況を打破しようとしているらしい。学校やお稽古事を、決して休もうとはしなかった。なんとか普通の生活をしようとしているのだ。けれど体がついていかず、保健室登校や早退続きなのが実情だ。娘が不憫で私は何度も泣いた。

 不安な気持ちで日々を送る中、私は隣の住人に声をかけられた。

「あの、娘さん、大変みたいね。」

 遠慮がちに彼女は言った。私は頷いて応える。しかし、彼女は意外なことを口にした。

「でも、いい友達がいてよかったよね。ほら、いつも登下校のとき一緒にいてくれる子がいるでしょ?」

 今、私は毎日娘の登下校に付き合っている。もう子供たちだけのグループに任せておくのは不安だった。大人がついていたほうがいい。そう思ったので、私が毎日娘の送り迎えをしている。もちろん、二人だけだ。他の子はいない。

 そう告げると隣人は驚きの表情を見せ、首を振った。

「そんなことないわよ!」

 彼女は叫ぶように言った。

「ほら、いつも一緒にいるじゃない。髪のすごく長い子。」

 その言葉に私は凍りつく。

「ーそれって髪が腰の長さで、うちの娘と同じくらいの年の子?」

 そう、その子。という隣人の返事を聞いたときの私の顔は、きっと酷く引きつっていたことだろう。

(どういうことなの)

 隣人が見た女の子は、きっと娘の夢に出てくる子と同一人物だ。ありえない、と一瞬思った。しかし娘だけでなく隣人も同じ女の子を見たとなると、もう娘の夢はただの夢ではすまされないのではないか。一体、なにが娘について回っているのだろう。娘の不調と関係はあるのか。あるとしても、こんなこと誰に相談すればいいというのだ。下手に話せば、頭がおかしいと思われかねない。

 頭が痛くなる。出口が見つからない。考え込んでいると、あっという間に時間が過ぎていった。ふと時計を見ると、そろそろ娘を迎えに行く時間だ。思えば昼食も摂っていなかったが、そのまま家を出た。どうせ食欲もない。

 いつもより少し早く家を出たため、私は学校まで遠回りをしていくことにした。少しでも気分転換になれば、と思ったのだ。

 久しぶりに通る川沿いの道は束の間、私の心をなぐさめてくれた。道に沿って植えられた桜はとうに散っていたが、流れる水は日光を受けてきらめき、土手は素朴で可憐なシロツメクサでいっぱいだった。

 娘が保育園児だったころ、よくここに来ていたのを思い出す。花好きの娘は、摘んだ花で冠を作ったり四ツ葉のクローバー探しに夢中になっていた。

(まだ、そんなに昔の話じゃないのに)

 こぼれそうになる涙を堪え、私は歩き続ける。

 押しボタン式の横断歩道まで来たとき、ある物が目に留まった。大輪の美しい白いバラの花束だ。きちんと花瓶に生けられ、道の隅にそっと置かれている。

(どうしてこんなものが)

 一瞬だけ疑問に思ったが、すぐにわかった。横断歩道や道路に花が供えられていたら、それはここで誰かが亡くなったということだ。

 そうして私は思い出す。あれは一、二か月前。この場所がテレビに映っていたことがあった。そのときはもっとたくさんの花束やお菓子、小さな女の子が喜びそうなおもちゃが所狭しと並んでいた。

 春休みに祖父母の家に遊びに来ていた女の子が、ながら運転の車に轢かれて亡くなった。ニュースはそう告げていた。近所だし、被害者が娘と同い年だったので覚えている。私は気の毒だと思う反面、うちの子じゃなくて良かったと思ってしまったことも。

 このバラは遺族が供えているのだろう。他の供物がなくなっても、これだけが残っているのだから、きっとそうに違いない。もちろん事故当時のものがそのままあるわけではない。バラの状態から見て、最近ここに生けられたのだろう。きっと遺族がこまめに花の世話をし、枯れれば新しいものと取り替えているのだ。何よりも大切な孫、或いは娘のために。

 そうして私は思い出す。我が家にも、あんな花があった。1輪だけだが、白く美しいバラ。

 私はさっき、久しぶりにここを通ったと思った。娘は?すぐそこにある土手は、春になると花でいっぱいになる。雑草とはいえ、素朴な可愛らしさを持つ植物はたくさんあるのだ。花好きの彼女が友達と、または一人でここに来ていた可能性は充分ある。

 そのとき娘が、このバラを見たら?美しい上に沢山あるのだから1輪くらい、と思ってしまわないだろうか。まさか。いくら何でも事故現場に供えられたものを持ってくるはずがない。しかしこの花が死者に捧げられたものと、娘が理解できていなかったら。

 私はそこに突っ立って、ひたすらバラを見つめていた。娘はバラと一緒に、なにかを連れてきてしまったのだろうか。

 

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