第一章 彼の小説

 カランッという鈴の音がして扉が開き、いつもの如く彼女が店に入ってきた。時計の針は午前七時を指している。

 「いらっしゃいませ」

 私は右手を胸に当て、頭を下げる。こうして彼女を迎えるのも、もう慣れたものだ。

 彼女は迷いのない足取りで定位置に座ると、口を開いた。

 「今日は豆乳にしようかな」

 「承知しました」

 彼女が注文を告げると、店内に再び静寂が訪れた。

 私はカウンター内に戻ると、いつも通りフラットホワイトを淹れる。今日は注文があったので、ミルクではなく豆乳をスチームにした。フラットホワイトとは、ほのかな甘みが特徴の、若い女性の間でじわじわと人気を高めているコーヒーだ。

 出来上がったコーヒーをトレイに乗せると、私は扉から店内に向かって左奥、カウンターから見て右奥の角席へと向かった。そこが、彼女の定位置だった。

 「ありがと」

 彼女はそれを受け取ると、桃色のおちょぼ口をカップの縁に当て、舌で味わえる最小量を口にする。

 「美味しい……」

 そして、ホッと小さく息を吐いた。

 彼女の名は、茅ケちがさきたま。新卒のOLで、年齢は二十二歳だと聞いている。

 今年の四月末頃、突如この店を訪れて以降、彼女にはこうして毎日のようにご来店いただいている。

 墨を溶かしたかのような黒髪のポニーテール、くっきりとした二重と長い睫毛、ほんのりあかい頬は色白の肌によく映えていて可愛らしく、桃色のおちょぼ口も相まってやや幼い印象だ。

 私がカウンター内に戻ると、彼女は細く長い指をカップに絡ませ、コーヒーをふーっと冷ましながら上目遣いでカウンター席の男を見つめ、声を掛けた。

 「おはよ、大豆戸まめどせんせっ」

 いつもの如くカウンター席に座る男の名は、大豆戸まめどじゅん。そこそこ名の知れた小説家で、年齢は二十六歳だとウィキペディアに書いてあった。

 およそ二年前からご来店いただいており、毎朝モーニングセットを注文している。その際のドリンクはソイティーだ。

 紅茶にミルクを溶かしたような茶髪は寝癖も大して直されておらずボサボサだが、一応若い人によくいるマッシュヘアで、中性的な顔立ちに似合っている。身長は高めで細身であり、病的に白い肌は不健康そうだが、左目の下にある泣きボクロがチャーミングで女性人気は高いそうだ。

 そして、彼女が毎朝この店に足を運んでいるのも、彼が理由だった。

 「君も懲りないな」

 彼は重々しいため息を吐くと、視線を手元に落としたまま、顔だけを少し彼女のいる方角へと向ける。

 「何度も言っているが、君は面白くない」

 「はぁ……。またそれですか。毎日そればっかで、こっちこそつまんないですよ」

 彼の物言いに、今度は彼女がため息を吐く。

 「っな!?僕は君がしつこいから、敢えて簡素な返答をしているんだ」

 「あー、はいはい。わかってますよー」

 ジトッとした目を彼に向けながら、触覚のように顔の横に垂れ下がった髪をみょんみょんと弄る彼女に、私は苦笑を漏らした。

 彼女が初めて来店した日のことは、よく覚えている。息を乱しながら店内に入って来たかと思えば一直線にカウンター席の彼のもとへと近づき、デートを申し込んだのだ。対して彼は、「君はおもしろいのか?」なんて独特過ぎる返答をしたのだった。その言葉を聞いて、彼女は何も言わず逃げるように店を出て行った。あの時、彼女がどう思ったのかはわからない。けれど、若干二十二歳の娘が、憧れの作家にデートを申し込むなんて並大抵の覚悟ではなかったはずだ。それをさもあっさりとあしらわれた心境は計り知れない。夜には、枕を口に押さえつけて、恥ずかしさを消し去るように叫び散らかしただろう。

 しかし翌日、彼女は再び現れたのだった。そのメンタルたるや、若いってのは素晴らしいことだと感心したものだ。

 それ以降、彼女は出勤前の朝七時、毎日来店しては彼と今日のような会話を繰り返している。

 「でも、あたしがここに来た時の話とか、結構おもしろいと思うんだけどなぁ」

 しばらく私が皿を洗う音だけが響いていた店内に、不意に彼女の声が混じり込んだ。

 彼女が店に通うようになって一週間が経った頃だろうか、彼が「おもしろい話はないのか」と問いかけたことがあった。その時、彼女が話したのが「この店に辿り着いた経緯」だった。

 曰く、大豆戸まめどじゅんの大ファンだった彼女は、SNSで自分の勤める会社の最寄り駅よりも二つ手前の駅で朝方によく彼が目撃されるという情報を手に入れ、あの日この永代ながしろちょうに降り立ったらしい。そして、運良く喫茶店へと入っていく彼を見つけ、急いで後を追ったのだと言う。

 彼女はそれを、こんなにも運命的でおもしろい話はないと声を弾ませていたが……。

 「だから、むしろ怖いんだっての……」

 彼は一蹴したのだった。

 「会いたかったんだから、仕方ないじゃないですか……」

 片頬を膨らませる彼女に、彼は呆れた様子で首を振る。

 「あのな、やってることストーカーと変わらないから」

 「ストーカーは陰湿ですけど、あたしはちゃんと面と向かってるじゃないですか。全然違いますよ失礼な」

 「今までも熱いファンはいたが、君みたいなタイプは初めてだ……」

 「へぇ~、初めてなんだ。へぇ~~」

 「何で嬉しそうなんだ……。褒めてるんじゃない。僕は困ってるんだよ」

 「あっ、そう言えば先生の新作読みましたよ!今回もおもしろかったです。特に、ローカル線の車掌として勤めていたお父さんが、田舎を離れる息子が乗った電車の発車ベルをいつもより少し長めに鳴らすシーンは鼻の奥がツンとしました。次回作も楽しみにしてます!」

 「……ったく」

 脈絡も何も関係なしに作品を褒められ、彼はカウンターテーブルに肘をつき、額に手を当てて項垂れた。

 その様子を見て、彼女はコーヒーをマドラーでぐるぐるしながらニマニマする。

 これももう、見慣れた光景となった。店内に和やかな空気が流れる。

 窓の外は雨模様。時節は初夏。先日、梅雨入りとなったばかりの六月初旬。身体にまとわりつくような湿気、あちらこちらで聞こえる蛙の合唱、植物にとっては恵みの季節だが、人間にとっては憂鬱な季節が到来した。

 「おかわりはいかがなさいますか?」

 「ああ、よろしく頼む」

 空カップを回収し、新しいカップにソイティーを淹れてカウンターテーブルに置く。

 「ありがとう」

 いつも通りのやり取り、いつも通りの匂い、いつも通りの朝。

 時刻は、七時半。

 カランッという鈴の音がして、入口の扉が開かれた。


 「いらっしゃいませ」

 私は扉の前まで出て行き、胸に手を当て、頭を下げた。

 「お好きな席へどうぞ」

 そう促すと、お客様は扉から店内に向かって左、カウンターから見て正面の、ちょうど彼が座るカウンター席の後ろにあるテーブル席へと着いた。

 お客様は三十歳くらいの女性で、七分丈の白いブラウスにライトパープルのロングスカートを合わせていた。髪はショートで、メイクは薄めだが顔立ちが整っているのもあって余裕のある大人の女性という印象だ。

 「エスプレッソをお願いします」

 イメージ通りの注文を承り、私はカウンター内へと戻る。

 ちらりと、テーブル席の女を見やると、何やら考え事をしているのか軽く頭を抱えるようにして深いため息を吐いていた。

 人生には悩みが付き物だ。誰もが上手く生きることなど出来ず、苦労と懊悩おうのうを胸に立ち込めさせながらも必死で正解を探し、それでも大抵は間違えて後悔して、悔やんでいるのも束の間、再び決して逃れられない選択を迫られる日々を繰り返している。休んでいられるのは、夜、眠っている間だけだ。朝が来ればまた、嫌でも何かを選択し続けなければならない。

 朝は、今日初めての選択をする時間なのだ。

 女もまた、何かの選択を迫られているのだろう。もしくは、自らの下した選択を悔やんでいる最中かもしれない。理由は何にせよ、心を平静に保つため、あるいは平静を取り戻すために喫茶店を訪れる者は少なくない。私は店主として、落ち着いて自分に向き合える時間、空間を作ることが務めだ。

 コーヒーを淹れ、カウンター正面のテーブル席にカップを運ぶ。

 女は、ありがとう、と口の形だけで告げると、胸にわだかまる暗いものをさらに濃いブラックで塗り潰すが如く、カップの半分ほどの量を一気に喉へ流し込んだ。

 「はぁ……。あつぅ……」

 当たり前だが、カップの中身はまだ熱い。お熱くなっておりますのでお気を付けください、と一言添えるべきだったと、反省する。もう店を構えて何十年も経つが、未だに人の心情を気にし過ぎて後悔することがしばしばある。

 「それ、結構熱いんで気を付けてください。舌、火傷してないですか?」

 声掛けくらいはいい加減徹底しようと思いつつ、水切りかごに入れてあった食器を拭いていると、カウンター席に座る彼が女に話しかけていた。半身の体勢で後ろを振り返り、テーブル席に座る女を興味なさげに見つめ、ペロッと舌を出してみせる。

 「いっ、いえ。大丈夫です。お気遣いどうも」

 女は彼と一瞬だけ目を合わすとすぐに視線を外し、きまりが悪そうに肩をすくめた。長い指で軽く唇に触れる。

 それっきり、特に何事もないまま時間が流れた。女は十五分程かけてカップの残り飲み干すと、伝票を手にした。私はレジへと向かい、会計の準備をする。

 ガタッと椅子の引かれる音がして、続いて一歩、二歩、足音が聞こえた。私は伝票を受け取ろうと顔を上げる。しかし、そこに女の姿はなかった。代わりに、女の席の方から彼の声がした。

 「お姉さん、何かありました?」

 見ると、彼が女の席の前に立っていた。独特なオーラで女を見据え、その顔立ちに似合わず威圧感すら感じる。

 あまりにも唐突な問いに、女は言葉を失い唖然としている。それはそうだろう。わけがわからない。店内の空気が張り詰めるのを肌で感じる。多少身動きした程度でも、空気がパリッと音を立てるような気がした。

 その空気に耐えられなくなったのか、それとも未だ口をパクパクさせるだけの女を見ていられなくなったのか、奥の席に座る彼女が口を開いた。

 「ちょっとせんせー、何言ってるんですか。その人困ってますよ」

 ごく当たり前のことを言うと、女に向かって、すみません、と軽く頭を下げる。そして今度は、鋭い眼光を彼へと向けた。

 しかし、彼は彼女を一瞥することもなく、飄々ひょうひょうと受け流す。

 「君には関係ないだろ」

 「はい?いや、意味わかんないんですけど……。せんせーにも関係ないですよね?」

 「いや、確かに直接的に関係しているわけではないが、僕には見過ごせない」

 「はぁ?ちょっと待って、ほんとにわかんないんだけど」

 珍しく語気を強めていた。傍目はためからでもイラついているのがわかる。彼女は頭痛を抑えるように、こめかみに指を当てた。

 私も状況が全く理解できていなかった。けれど、状況に反して頭の中は至って冷静だ。彼がこの店に訪れるようになって約二年、私は何度かこういった現場に居合わせている。だからこれから起きるであろうことも、大方予想がついていた。

 さて、今回はどんなが生まれるかな。

 私は小さく笑むと、彼のもとへ歩み寄り、そっと問いかける。

 「大豆戸様、ご説明を」

 すると彼は、おもむろに自身の着ているトレーナーの袖を捲り、肘の下あたり、前腕の一部を指差した。

 「あざ、少しだけ見えてしまったので」

 女はハッとして、左手で右の前腕をさする。口を真一文字に引き結び、彼の視線から逃げるようにして目を伏せた。

 彼はなおも続ける。

 「僕の勘違いなら、それでいいんです。むしろそれが一番でしょう。けれど、もし何かあるなら、僕に話してみませんか?」

 女は下唇を噛み、瞑目する。右腕を抱く左手の指が、小刻みに震えていた。

 同時に、張り詰めた空気も震えている気がした。あちこちでバリッ、バリッと亀裂が入る音がするようだ。その空気を弛緩させるように、彼はまるで弱者に手を差し伸べる神のような柔らかい表情を浮かべた。にわかにソイティーの香りがする。

 「……少し、彼と揉めて」

 その香りに誘われるように、女は顔を苦悶に歪めて吐露した。

 彼の口の端が、まるで針でつつかれたかのようにピクリと刹那的に吊り上がったのを、私は見逃さなかった。


 二杯目のコーヒーから昇る湯気が、鼻孔から侵入して肺に拡がった。

 私はそれを女の前に置くと、カウンター内へと戻り、作業を行いながら正面のテーブル席の会話に耳を澄ませた。

 「元はと言えば、私が悪いんです」

 女が、事の成り行きをゆっくり語り出す。

 彼はテーブルを挟んで女の正面に座り、ソイティーを口にしながら話を聞いていた。

 「彼とはもう、かれこれ三年半ほどの付き合いでした。初めの頃は本当に楽しかったんです。年上の私に対しても気さくで、でもちゃんと礼節はわきまえていて、困っていたら助けてくれたし、落ち込んでいたら笑わせてくれて。優しい人でした。王子様って現実にいるんだなって、もう若くもないのに馬鹿みたいなこと考えるくらいには、彼のことが好きでした。ずっと一緒にいたいって、本気で思ってました」

 先程見せた苦悶の表情が嘘のように、穏やかな様子で思い出を振り返る。

 「そうして二年ほど経ってから、私たちは同棲を始めました。この頃には、少なくとも私は結婚を意識してて、経済面の具体的なことを考えることもありました」

 女は、話し出すと驚くほど饒舌になっていた。幸せだった日々を、滝の如く吐き出す。

 人生には悩みが付き物だ。些細なものから重大なものまで、人は様々な悩みを抱えている。その悩みを溜め込むほどに、人は精神を病み、追い込まれ、次第に身体的な苦しみにも繋がり、生きる気力を失ってしまうことがある。

 選択は、それを行うこと自体がストレスなのだ。だから人は逃げようとする。逃げて逃げて、そして全てを捨てる。選択に迫られない世界は、楽園だ。けれど、そこには何もない。それがわかっているから、悩むのだ。

 選択から逃れることも、悩みを溜め込むことも正解でないことを知っているから、人は吐き出すことで考えを整理し、正解を探そうとする。人が相談したり、愚痴を言ったりするのは、吐露することでストレスを緩和しつつ、考えをまとめて正しい選択を探す行為であることが多い。自らの正当性を確認し、正義を模索するのだ。

 ただし、多くの場合、間違った選択をしてしまうことを人は知っている。些細なものであれば、仕方ない、次頑張ろうのワンツーでKOだが、重大であればあるほど自らの正当性が揺らぐことを恐れるあまり、話すことを躊躇ためらう。こと恋愛に関しての相談など、身近な人に話せるものではない。仮に自分が誤っていた場合、相手方への態度を咎められるばかりではなく、だからあなたは、だからお前は、と関係のない人格否定が始まってしまう可能性だって割とかなり結構ある。それに何より恥ずかしい。人格に問題がなくても恥ずかしくてお嫁に行けない。

 故に、重大な悩みは全く知らない人に吐露すると、意外と気持ちよく話せるものなのだ。人格など知っているはずがないので、そこを否定される心配はない。さらに滅多に会う機会もないので、顔を合わせるのが恥ずかしくて生きづらいなんて事態にもなり得ない。おまけに、吐露することでストレス発散となり、かつ状況整理のきっかけにもなる。良いこと尽くしだ。

 私は、この喫茶店で悩みを吐き出すお客様を何人も見てきた。その話をただ静かに聴いて、相槌を打ち、コーヒーを差し出すだけ。それが一番で唯一の、悩める人に出来ることだと思っていた。

 彼がこの店を訪れるようになるまでは。

 黙って女の話を聞いていた彼が、つまらなさそうに口を開いた。

 「なるほど。彼と仲が良いのはわかりました。その彼と揉めたというのは、辛かったでしょう。心中お察しします。ちなみにそのあざは、彼と何か関係あるんですか?」

 努めて丁寧な口調ではあったが、顔にはうんざりといった具合の色を浮かべている。内容もよく聞くと失礼だ。要は、そんな話は興味ないから、早く本題を話せと言っているのだろう。

 しかし、失礼な彼の態度に対して、女は穏やかな表情を崩さず、「すみません」と小さく頭を下げた。関係のない人に、本題とはやや離れた話を長々としてしまったことで、若干の後ろめたさがあるのだろう。

 女は、ブラウスの右袖を軽く捲り、肌を露出した。細く白い腕に、青紫色の痣があった。

 「昨晩、彼と揉めた時に、机にぶつかってしまって……」

 嫌なことを思い出したからか、女の表情が曇る。

 「ぶつかった、というには少々無理がある怪我だと思いますが……」

 彼は、痛々しげに変色した肌を薄眼で見て、問いかけた。

 「そう、ですね……。彼が私を振り払った時に、バランスを崩してしまって……。机の角に腕をぶつけたんです」

 「うわっ、最低……」

 定位置から女の話を聞いていた彼女が、怒りに歪む口元を抑えた。

 「女の人に力で対抗するなんて、ほんと最低……」

 みるみるうちに怒りを露わにする彼女に、でも、と若干語気を強めて女が反応する。

 「最初に言った通り、きっかけは私なんです。たぶん、私が、悪いんです……」

 しかし、勢いは段々と衰え、弱々しく項垂うなだれていった。

 「どういうことですか?」

 彼女は、女をいぶかしみながらも訳を訊く。

 「私、凄く嫉妬深くて、彼のことを結構束縛しちゃっていたんです。彼も、かなり我慢していたんだと思います。今更気付いても遅いんですけどね」

 無理な笑顔を作る女に、彼女は言葉を失う。

 「同棲を始めて半年くらいの時だったかな。彼の誕生日プレゼントを買おうと駅ビルを散策してたら、会社の同僚に会って、男性目線でどうかが知りたかったのでちょっとだけ意見貰ってたんです。そしたら、彼がその現場をたまたま見ていたらしく、帰ってから問い詰められて……。何とか誤解を解こうとしたんですけど、全然聞いてくれなくて。今思えば、それまで我慢してた分が一気に爆発したんだと思います。それからでした。彼がしょっちゅう他の女と会うようになったのは……」

 彼と揉めるきっかけとなった部分が、ようやく見えてきた。女の様子から察するに、まだ氷山の一角だと思われるが、なかなかにこじれた話だ。

 「ご主人、ソイティーおかわり」

 その時、彼がこちらを向いた。注文を告げると、すぐに女の方へと向き直る。

 振り向きざま、彼はニヤリと笑い、誰にも聞こえないほど小さな声で「おもしろい」と呟いた。当然、私にも聞こえていないが、経験上そう言っていることは明白だった。

 私は急いでソイティーを作り、彼のもとへと持っていく。

 彼はソイティーを一口飲むと、女に話の続きを促した。

 女が会社の同僚と会っている現場を見てしまった彼は、その後浮気を繰り返すようになり、女が何度咎めても改善されることはなかった。また、風俗店の嬢からもらったであろう名刺も何枚も見つけた。けれど、毎日必ず家には帰ってきて、たまに女の好物であるシュークリームを買ってきてくれることもあったらしい。束縛していた自分にも原因はある上に、結局は自分のところに帰ってくると思って我慢を続けてきたが、ついに昨晩、限界を迎えて彼を追い出してしまった、という話だった。

 最後まで話すと、女の目からは今まで溜め込んできたものを全て流すように涙が溢れ出した。

 その嗚咽が収まるのを待って、彼は優しく女に語りかける。

 「現実は、辛いことばかりです。みんな上手く生きられないことに苦悩します。だから世の中にはバッドエンドが溢れてる。誰もが、そんな現実に抗いたいと、どこかで思っている。そうした人間の本能的な対抗心の結晶が、ハッピーエンドです。」

 彼は、柔和な笑みで宣言する。

 「僕が、あなたの物語をハッピーエンドに導きます」

 いつの間にか雨が止んだのか、窓から梅雨晴れの日差しが暖かさを注ぎ込んでいた。


 「でもさ、せんせー、ハッピーエンドと言っても一体どうするつもりなんですか?」

 「さっき話を聞いた段階で大体のところは思いついた。あとは詰めだから、ちょっと黙っててくれ」

 彼はソイティーを飲みながら何か考え事をしている。軽くいなされた彼女は、むーっと唇を突き出し、机に上体を放り出している。駄々をこねる子どもの様だ。

 「あの、先生……というのは?」

 やり取りを聞いていた女が、眉根を寄せて彼女に尋ねる。

 「大豆戸まめどせんせーは、小説家なんですよ。いろんな賞も獲ってたりするんですよ!」

 彼女は何故か誇らしげに胸を張って答えた。それでも、胸の主張は控えめだ。

 「へぇ。……本当だ。結構凄い人じゃないですか」

 スマホの画面に視線を落とし、女が感嘆の声を上げる。

 「せんせー、それでいてかっこいいから人気もあるんですよね~。ほら、左目の下にある泣きボクロとか、超かわいいじゃないですか!」

 言われて、女は正面に座る彼の顔を覗き込む。

 「そう言われると……。確かに可愛い顔立ちしてるわね」

 「ですよね!?やっぱり好きだなぁ~」

 彼女は幸せそうに口角を上げると、目尻を下げてニマニマする。

 「あなた、先生のことが好きなの?」

 彼女の様子を見た女は、コテッと首を傾げた。

 「そうですよ。でも聞いてくださいよ~、先生ってば酷くて——」

 「騒がしい……」

 謎に女の友情が芽生えたところで、彼は耐えきれずに机を指でコツコツと叩いた。

 「……すみません」

 彼に睨まれ、彼女は肩をすくめるのだった。

 それから十数分が経って、時刻は八時半を少し回った頃。

 「うん……。これでいける」

 ずっと瞑目していた彼が、おもむろにまぶたを開いた。

 そして、言葉を紡ぎ出す。

 「お姉さん、もう一度駅ビルで彼と遭遇してしまった後の話を、一つ一つ話してくださいますか?」

 「わかりました……」

 女は渋々了承して、先程と同じ内容を再び話し出した。

 「えっと、彼はその次の日から浮気をするようになりました」

 「まずそこですが」

 と、彼は初っ端口を挟む。

 「失礼なことを訊くようですが、お姉さん、くだんの同僚の方とは男女の仲はなかったんですよね?」

 「もちろんです!本当にあの時偶然会っただけで、何もありません」

 女が食い気味に答えた。

 「なら、単純な話です。彼も始めから浮気なんてしてませんよ」

 「……え?」

 女は、きょとんとして言葉の続きを待つ。

 「どういうことですか……?」

 定位置で、彼女もきょとんとしていた。

 「では具体的に訊きますが、彼がキスをしている現場やホテルに入っていくところを実際に目撃されたんですか?」

 「いえ……。そういうわけではなくて、何度か楽しそうに女性と歩いているのを見たんですよ。あと、メッセージが送られてきているのも……」

 「メッセージって、内容覚えてたりしますか?」

 「はっきりとは覚えていませんが……、『また明日ね』とか、『次はいつでも!』とか、『私も好きだよ!』とかですかね」

 メッセージを思い出すと、女は腕を抱いて指先に力を込める。悲痛な表情だ。

 対して、彼は淡々と話を続ける。

 「簡単なことですよ。彼もまた、会社の同僚と会っていただけです」

 「えっ、でも何度か見ているんですよ?しかも夜に繁華街で」

 「その女性、同じ人じゃありませんでした?」

 「まあ……。確かに同じだと思いますけど、だから尚更疑ってるんです。私を差し置いて、別の女と繁華街に出掛けてるなんておかしいじゃないですか」

 「そこは、彼なりの抵抗だったんでしょう。ずっと自分に我慢を強いてきた彼女が、別の男と外で会っていた現場を見て、彼は相当傷ついたはずです。それが誤解と言えど、今までは我慢してた女の子との食事を解禁することでこれまでストレスを発散して、かつ彼女の嫉妬を誘うことでもう一度ちゃんと振り向いて欲しい、構って欲しいってところじゃないでしょうか」

 女は、でも、でも、と口走りながら目を泳がす。そして、何か思い出したかのようにパッと顔を上げた。

 「『私も好きだよ』っていうのは、さすがにアウトじゃ……」

 心なしか、声が震えている。

 「それは誤解です。前後関係が全く見えていないじゃないですか。それで浮気と決定づけるには、早計かと。差し詰め、『あの店好きなんだよね~』とかそんな感じの会話だったんでしょう」

 「そんな……」

 女は困惑を隠せない様子で、どこか落ち着きがない。

 「せんせー、さすがに強引なんじゃないかな……」

 そんな女の困惑を代弁するように、定位置から彼女が指摘した。

 私も、その点に関しては気になっていた。さすがに彼氏の行動をポジティブに捉え過ぎている。どれも取って付けたような理由で、イマイチ腑に落ちない。

 しかし、彼は小説家だ。オチを付けないわけがない。

 彼女の質問を受けた彼の目が、一瞬光ったように錯覚した。予想通りとばかりに、彼は余裕の表情を浮かべている。

 「確か風俗嬢からの名刺を見つけたって言ってましたよね?」

 彼の問いに、女は黙って首肯しゅこうする。

 「本当に浮気しているなら、わざわざ金がかかる風俗通いなんてするわけがないですよ。以前から風俗が好きだったなら話は別ですが、お姉さんの口振りから察するに、風俗通いは最近のことのはずです。だとすれば、浮気の線は薄い。風俗と言っても、上司に連れていかれたキャバクラとかでしょう」

 彼は自信満々の様子で、さらに畳みかける。

 「それに彼、必ず家に帰って来るんですよね?浮気しているなら、一回くらい朝帰りする日があってもおかしくありません。そもそも、警戒心が弱すぎる。浮気していたとしたら、普通もっと気を遣いますよ。メッセージは通知を切ったり、名前を変えたり、会う場所だって少し離れた街を選ぶはずです。わざわざ見つかるリスクが高い場所で会うメリットがない」

 女は呆然としながらも、一つ一つの話を噛み砕いて、必死に理解しようとしている様子が伺える。そして、引っ掛かることが見つかると彼に問うた。

 「メリットで言うなら、私が気分を悪くして彼と揉めているんだから、どちらにせよ無いのではないでしょうか?それに、たまに彼が買ってくるシュークリーム、男の人はやましいことがあるとプレゼントを買うって耳にしたことがありますし……」

 「それは結果論です。結果、逆効果だっただけで、単に彼が不器用なんだと思います。あなたの愛を確かめるために、嫉妬を誘ってはまだ想ってくれていると、歪んだ考え方をしていたんでしょう。その懺悔ざんげプレゼント理論も、今となっては有名な話じゃないですか。本気で浮気していて、後ろめたさがあるなら、そう感じるであろうベターな要素は排除すると、僕は思うんですけどね」

 爽やかな双眸で、女を真正面から見据える。

 「結局彼は、あなたに好きでいて欲しいだけですよ」

 彼はそこまで言うと、肺にわだかまっていた古い空気を押し出すように、長く息を吐いた。

 ほんのり焙煎豆の香りがする。

 「ふふふっ、さすが小説家の先生、おもしろいことを仰いますね。真偽はわかりませんけど、なんだか本当にそんな気がして、少し元気が出てきました。ふふっ」

 来店してから初めて、女は相貌を崩した。口元を抑えているが、その端から笑みがこぼれる。

 「一度ゆっくりと話し合われてはいかがですか?」

 彼は微笑み、テーブルに置いてあった伝票を手に取った。

 「今日のお茶代は僕が出します。仲直り出来ると良いですね」

 そして、カウンター内にいる私に目配せをする。

 私は首肯し、カウンターから出て店の扉を開いた。

 彼に誘導されて、女は鞄を手に扉へと向かってくる。

 「本日はご来店、誠にありがとうございました」

 謝辞とともに深く頭を下げる。

 「ありがとう」

 女は一言残し、様々な選択に溢れる朝の世界へと消えていった。

 雲間から顔を覗かせた太陽に目を眩まされて、眼球の奥がジンジンと痛む。

 伝票を握り、いつものカウンター席へと戻る彼も、眩しさに目を眇めていた。


 壁掛け時計を見ると、長針がちょうど北、短針がちょうど西を指していた。

 彼は女か去ると再びカウンター席に座り、ちまちまと水を飲みながら呆けていた。

 黒髪ポニテの彼女はと言うと、そろそろ出社しないといけないからと荷物をまとめている。

 「せんせー、意外と優しいとこあるんだなぁ」

 席を立ち、伝票を眺めると、彼女はボソッと言ってむくれた。

 「あの姉さんはおもしろかった。それだけだ」

 彼は虚空を眺めながら答える。

 「もう……。すぐそれなんだから……」

 あっ、と彼女が何かに気付き、彼に問いかける。

 「そう言えば、ハッピーエンドに導くってキメ顔で言ってましたけど、あれってハッピーエンドって言うんですか?なんか、慰めただけみたいに思えるんですけど」

 彼女の指摘はごもっともだった。俯瞰の立場にいた彼女なら、その違和感に気付くのも納得だ。

 彼は髪をぐしゃぐしゃと掻き、こうべを垂れる。何も言わず、手をひらひらさせて答える意思がないことを暗に伝えていた。

 彼は酷く疲弊していた。短時間で頭をフル回転させたのだ。オーバーヒート状態なのだろう。それもいつものことだ。私は何度も、こうした現場に立ち会っている。だから、この先の展開も予測できる。

 しかし、それはいずれ彼女も知ることになる。必ずだ。だから、今知る必要はない。

 ここは私が、彼の代わりにそれを伝えよう。

 「茅ヶ崎ちがさき様、その答えはいずれわかります。先生の次回作をお待ちください」

 「次回作?」

 彼女は訝しんでいたが、時計を見ると「やばっ」と言って、伝票とお金を置き走って出て行ってしまった。ヒールの音はどんどん離れていき、すぐに聞こえなくなった。

 「彼女、どう思うだろう」

 机に突っ伏したまま発せられた囁きに、私は聞こえないふりをした。


 二ヶ月ほどの時が過ぎ、大豆戸まめどじゅん先生の新作が発売された。

 『あいたがい』というタイトルで、浮気を疑う男女のすれ違いを描いた物語だった。

 主人公は、彼女の束縛に苦悩していた男。その男はある日、自分だけを見ていると思っていた彼女が、他の男と会っている現場を目撃してしまう。今までの我慢が一気に爆発した男は、彼女との約束を破って同僚の女の子と飲みに出掛けるようになった。当然、彼女は嫉妬にかられて男を問い詰める。しかし一向に男の行動は収まらなかった。男は、彼女が嫉妬してくれることに愛を感じていたのだ。嫉妬を誘えば、彼女の愛を感じられる。そうしているうちに段々と、歯止めが効かなくなっていった。男は彼女の心が荒み、離れていくのを頭ではわかっていながらも、不器用で歪んだ愛は留まるところを知らず、自らの心と身体が乖離かいりしていくのを感じる最中、彼女と喧嘩をして家を追い出されてしまう。

 家を追い出された男は、己の愚かさに辟易し、仕事以外は実家に引きこもるようになる。そうしてしばらく経ってから、財布の中に風俗嬢の名刺を入れっぱなしであることに気付く。嫉妬を誘う道具として使ったそいつが憎く、そんな自分を思い出すのが嫌で破り捨てようとしたその時、名刺の裏に見覚えのある字を見つける。それは、大好きな彼女の字だった。

 私は信じてるよ。

 たった一言の短いメッセージ。そこには、自分と同じく苦悶する彼女の心が宿っている気がした。途端に、男の目には涙が溢れ、正直に彼女と向き合う覚悟を決める。

 久しぶりに再会した二人は、それぞれの気持ちを打ち明けて、晴れて復縁するという物語だ。

 私は、誰もいない喫茶店でコーヒーを飲みながら、が紡いだ物語に身をゆだねた。

 人は往々にして間違い、正解をも疑って、素直さを見失ってしまう。大好きだったはずの誰かを信じられなくなり、すれ違い、そして後には悔いが残る。たらればの話に一日を費やし、疑心暗鬼は加速する。

 けれど、基本的に答えはシンプルなのだ。故に隠れてしまう。

 だから人は、話し合わなければならない。目の前の大切な人を知るために、まるで宝探しをするが如く。

 そこに永遠が埋もれている。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

朝、7時、喫茶店。 三越 銀 @Gin_Mitsukoshi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ