朝、7時、喫茶店。

三越 銀

preface

 ガランッ!!

 朝早くだというのに、喫茶店の扉が荒々しく開けられた。

 扉の外では、朝日に照らされてよく見えないが、どうやら女性らしきシルエットが肩で大きく息をしていた。

 「大豆戸まめど先生ですよね?」


 光に目が慣れてくると、やはりそれは女性のようで、まだ新しそうなスーツに身を包み額にうっすらと汗を滲ませて立っていた。

 彼女は一つ深呼吸をすると、ヒールをカツカツ鳴らしながらカウンター席に座る男の前へと進み、そこで足を止めた。

 「やっぱり、大豆戸先生ね」

 そして、先程と同じ名前を口にした。口には満足げな笑みを浮かべ、目を輝かせている。

 「如何にも。何か?」

 男は、覇気のない瞳で彼女を捉え、興味なさげに返答した。

 「やっと見つけた……。あたし、先生の大ファンなんです」

 先生、とな。

 はて、この娘は一体なぜ男のことを先生と呼ぶのだろう。

 普通の人であれば、そう疑問に思うのも仕方がなかろう。けれど、私はこの店で毎朝この男を迎えているのだ。彼のことはよく見てきている。

 男は、小説家だ。作品を読んだことはないが、どうやらそこそこ有名らしい。聞いた話によると、大学を卒業するとともに小説デビューを果たし、二作品目は本屋大賞を受賞したとか。

 普段からぼーっとしていて、覇気がないのは確かだが、そこそこ高い身長にスラっとしたスタイル、容姿は中性的でおまけに才能溢れる若き作家。女性ファンもそれなりにいるのだろう。彼女はそのうちの一人なのではないか。

 「ご主人、ソイティーおかわり」

 なんて、思案を巡らしていたら彼から新たな注文が入った。彼はいつもソイティーを飲んでいる。私は湯を沸かしながら、二人の話にそっと耳を傾けた。

 「今までの作品は全部読みました。先生の創る世界は私から日常を引き剥がしてくれるようで、ほんとに、救いになってました」

 「そうか」

 「先生のようにいろんな世界を創りたくて、いろいろ考えてみたんですけど、でもどうしてもあたしには出来なくて」

 ちらと見ると、いつの間にか彼女の息は整っていて、ゆっくり呼吸をしながら彼の目をジッと見つめていた。強く握り込んだ拳はスカートの横でほんの少し震えていて、下唇を浅く噛んでいる。

 対して彼は、ぼんやりと彼女を眺め、ゲンドウのように両手の指を絡ませて口元へ当てていた。

 「それで?」

 なおも興味なさげに、彼は問う。

 彼女は、もう半歩距離を詰め、獲物を狙うトンビが如く鋭い眼光をもって応えた。

 「もっと先生のことを知りたいんです。毎日、今こうしてる間も、何を感じて、何を考えてるのか。あたしは知りたい。だから……」

 そこでやや言葉に詰まり、束の間の静寂が訪れる。

 私は出来上がったソイティーを彼の前に差し出し、そのカップを置く音だけが店内に響いた。

 カップの音を合図にしたように、彼女が再び口を開く。

 「だから、あたしと一度デートしてください」

 驚いた。こんなに若い娘が、ファンとはいえ初対面の男に言う台詞だろうか?

 店内には私と彼と彼女の他、数名しかいなかったが、もっと多くの人がいるのではないかと思う程にどよめき、空気が揺らいだ。

 それでも彼は、ただ一人平然として先程出来上がったソイティーを口にしていた。

 その場にいた誰もが、彼の言葉を待っていた。

 当の彼女は、勢いこそよかったものの鋭かった眼光は力を弱め、目を伏せて耳をやや赤くしている。小刻みに震える様子は、まるでトンビに怯える小動物のようだ。

 「別に構わん」

 次の瞬間、彼の回答に彼女はバッと顔を上げた。「えっ、じゃあ」と、彼女が言いかけたその時、彼はおもむろにもう一言添える。湯気が立っていたはずのソイティーは、何故だか既に冷えているように見えた。

 「だが君は、……おもしろいのか?」

 「え?」

 生気のない彼の瞳に、彼女は桃色の唇をわななかせ無言で背を向けた。

 私はその時初めて、彼女が小さいことに気付いたのだった。

 ここには、扉の閉まる音だけが残っていた。


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