第60話 俺は平和な日常がほしい

 英里奈が見えなくなると、途端に夕璃以外が表情を曇らせ、俯いていた。


 誰しもがやるせない気持ちでいっぱいだった。


 でもこれは英里奈が決めたことだから――

 そう決めつけていた。


 だが、一人だけは違った。


 一人だけは怒りを覚えていた。


 英里奈や、やるせない気持ちを抱いているみんなに対してではない。


 自身に怒りを覚えていた。


 主人公を目指しているくせに望まぬストーリーすら変えることができてない自分に。


 夕璃の心は爆発寸前だった。

 

 その時、桜華がボソッと何気なく言葉を吐いた。


「芹那さんは入院して、英里奈は海外に行っちゃって、さくらが欲しかった日常はこんなのじゃない」


 その言葉を聞いた途端、夕璃の頭には天命が告げられるかの如く、衝撃が走った。


 ――


 そう思った時にはもう、空港から走り出していた。



 空港前に止まっているタクシーに乗り、大急ぎで自宅に向かってもらった。


 桜華にメッセージで『愛を頼んだ』と送り、スマホのメモアプリを立ち上げた。


 夕璃はメモアプリに簡単なプロットを作った。


 夕璃は確信した。


 自分がなりたいのは桜華だけの主人公じゃない。

 誰も欠けていない騒がしく、楽しいあの日常で桜華と結ばれる主人公だと。


 夕璃は止まらなかった。



 自宅に着くとすぐにパソコンの前に座った。


 望まぬストーリーを変えることができなかった自分への怒りを。


 あの騒がしく、楽しい日常への想いを。


 桜華への愛を。


 全てに魂を込めて小説を書いた。


 この小説が明日の主人公候補生たちに届くように。


 海を、国境を越えた先の英里奈に届くように。


 そんな想いを文字にして綴った。


 腕が痛くなろうと、睡魔が襲ってこようと、夕璃の想いは体を動かした。


 帰ってきた愛はそんな姿を見て、桜華に伝えた。

 すると桜華は涙を流しながら微笑んだ。


「おかえり、みんなの――さくらの主人公」


 夕璃はこれまで小説を書けなかった分を一度に精算するかのように、小説を書き続けた。



 二週間後。


 夕璃は魂を、命を削り小説を書き上げた。


 印刷している間は永遠にも感じた。


 印刷された百枚を超える紙を封筒に入れて、芹那がいる病院に向かった。



 夕璃はノックも忘れて息切れしながら病室に入った。


「どうした夕璃?目に隈もあるし、息も切れていて」


 自分より重症に見える夕璃に心配の言葉をかけるが、夕璃は笑顔で封筒を芹那に渡した。


「これが、俺の全ての想いを、本当に欲しい日常を綴った魂からの小説です」


 小説を芹那に見せた夕璃の顔はもう――主人公だった。


「おかえり、小説家赤井夕璃。ようこそ、主人公が命を削りながら本を創り出す真の地獄に」


 霧がかっていた主人公への道はいつの間にかに晴れていて、ゴールは――否。スタートラインはすぐそこに見えていた。



 小説を書いている時、みんなと出会った始まりの日を思い出した。


 あの日の夜、夕璃は一人この部屋で平和な日常がほしいと叫んだ。


 だが、本当に欲しいものに気づいた夕璃は思った。


 心配ごとや揉め事のない、静かで何もない日常を『平和な日常』というなら――俺は平和な日常なんていらない。


 もし、騒がしく、心配ごとは常にあり、多少の揉め事もあるが、誰一人欠けていない日常を『平和な日常』と言うなら――


「俺はもちろん、後者の平和な日常がほしい」

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