第59話 崩れる日常

 英里奈は藤沢から一人で電車に乗り、おぼつかない足で帰っていた。


 東京駅に着くと、偶然にも改札前で一度見たら忘れられないくらい個性的な服装で紳士的なコチ先生を見かけた。


「あ、コチ先生。お久しぶりです」

「あ、ちわッス。英里奈ちゃんも随分見ないうちに大人になったッスね」


 絵師の性なのか、コチは成長した英里奈をまじまじと見ていた。


「コチ先生はどちらに行かれてたんですか?」

 コチの手にはキャリーケースと大量のお土産袋がぶら下がっていた。


「イギリスにいたッス。イギリスは芸術品や美しい建物がいっぱいあって感性を磨くにはおすすめッスよ。そろそろ新幹線の時間なんで行くッス。また今度ゆっくり話せるといいッス」

「こちらこそ、ぜひコチ先生の話伺いたいです」


 コチは時計をチラチラと見ながら小走りで帰りの新幹線に向かって行った。


「イギリスか……」


 魂から描いた絵でさえ、ゆう君の心は動かせなかった。

 それならもう海外を渡り歩き、感性を磨くしかない。


 英里奈は更なる自分の成長を求め、海外に渡ることを決意した。



 海外に渡ることを決意した英里奈の行動は早く、その日のうちに飛行機のチケットとホテルの部屋を取ってしまった。


 出発は二日後だ。


 英里奈は次の日からお世話になった人達に会いに行くことにした。



 まず訪れたのは芹那がいる病院だ。


 病室の扉を三回叩き、返事が聞こえたのでゆっくりと開けた。


「お、英里奈か。頻繁に来てくれるのは有り難いが無理はしてないか?」

「無理をして倒れた芹那さんが言わないでくださいよ」


 芹那は「そうだな」と笑って返した。


「今日は芹那さんに伝えることがあって来たんです。明日からしばらく海外に行ってきます」

「どのくらいだ?」

「決まってません。一ヶ月……半年……一年以上かもしれません」


 英里奈の言葉を聞いた芹那は思わず立ち上がり、今からでも英里奈を説得しようとした。


 だが、英里奈が自ら決めたことに水はさせないと瞬時に理解した。


「そうか。私は英里奈が帰って来れる場所を必ず作り、守っておく。だから英里奈も約束してくれ。必ず戻ってこい」


 最後の芹那の強い想いが込められた言葉は、英里奈の心を揺らした。


 英里奈は歯を食いしばり、涙を堪えて笑顔で「はい」と強く頷いた。


 芹那との話が終わった直後、病室の扉が開き、そこには遥斗の姿があった。


「どのタイミングで入ればいいかわからなくなってね。盗み聞きで悪いが、話は聞かせてもらったよ」


 遥斗も英里奈の自らの決断を否定はしなかったが、忠告をした。


「その決断は多分、誰も喜ばない。特に友達の桜華ちゃんや美波ちゃんは悲しむんじゃないかな?」


 遥斗の忠告を受けても英里奈の決意は変わらなかった。


 遥斗には空港の場所と出発する便の時間を言い、病院を後にした。



 次は夕璃の家に向かった。


 病院から出る時、夕璃と愛が家にいるのを電話で確認し、桜華と美波に夕璃の家に集まってもらった。


 英里奈は四人に海外に行くことを告げた。


「せめて、すぐに帰ってきてよ!いつ戻るか分からないなんて言わないでよ……」


 桜華が涙目で英里奈の肩を掴んだ。


「そうだよ。イラストレーターとして成長するには必要かもしれないけど、ずっと海外にいる必要はないでしょ?」


 美波のもっともな言葉に、英里奈は何も言えなかった。


 愛もまだ英里奈との交流は浅いものの、二人と一緒に反対していた。


 だが、夕璃だけが無言で口を閉じ続けていた。

 夕璃は膝の上の拳を血が出てしまいそうなほど強く握っていた。


「みんなの言う通りだよ。でも私は行ってくる。自分で決めたことを最後まで貫いてみるよ」


 半ば強引に三人を説得して、空港の場所と出発する便の時間を伝えて英里奈は帰った。



 ―次の日―


 夕璃、桜華、愛、美波、遥斗が空港に集まった。


 それぞれ思うことはあるが、せめて英里奈が行くまでは顔に出さないようにしようと話し合い、五人は明るく英里奈を見送る。


 それぞれが英里奈に声をかけるが、夕璃は未だ口を開かなかった。


 そして、いよいよ出発時間になった。


 英里奈がキャリーケースを引いてゲートに入ろうとしたその時。


「英里奈。またな」

 最後に、夕璃は一言、英里奈に向けて言った。


 英里奈は振り返らずに「ありがとう」とお礼を言った。


 英里奈にはまるでお別れの言葉には聞こえなかった。


 絶対戻ってこいという、夕璃の強い気持ちが込められていることに気づいていた。


 英里奈は歩みをやめず、涙を拭いてゲートに入った。

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