第58話 七里ヶ浜英里奈
芹那の入院から一週間が経った。
芹那は命に別状は無いものの、軽い慢性疲労症候群と診断された。
一ヶ月の入院を余儀なくされた。
夕璃は今日も芹那のお見舞いに来た。
夕璃が病室をノックして扉を開けると、体を起こして静かに窓の外を見る芹那の姿があった。
「芹那さん、体の調子はどうですか?」
「昨日より良くなってる気がするぞ。今日もお見舞いありがとう」
外から夕璃に視線を移して笑顔でお礼を言う芹那の顔は、どこか悔しさと寂しさが滲み出ていた。
夕璃はイスを出して芹那のベッドのそばに座り、少しでも芹那が明るくなるような話をした。
しばらくして、病室に英里奈がお見舞いに来た。
「あ、ゆう君も来てたんだ。明けましておめでとう。ゆう君と会うのはお祝い以降だもんね」
「明けましておめでとう。前にお見舞いに来た時、遥斗やエム先生にはあったけど英里奈に会うのは今年初めてだね」
英里奈は夕璃と同じく芹那の体調を聞いて、芹那は笑って「二人とも心配してくれてありがとう」と微笑んでいた。
いつものお見舞いより少し長く話して、二人は一緒に病院を出た。
「ゆう君ってこの後予定ある?」
「いや、特にないぞ」
「じゃあ二人で行きたいところがあるんだ」
英里奈に言われるがまま、夕璃は後を着いて行った。
病院から電車で一時間の江ノ島に到着した。
江ノ島に来たのは二年前、六人で海に訪れた時ぶりだ。
「ゆう君はもう初詣行った?」
「まだ行ってないな。ほぼ毎日お見舞いに行っててすっかり忘れてたよ」
「私もまだなんだ。せっかくだし、江ノ島で済ませちゃおっか」
二人は江ノ島に登り、江ノ島神社の賽銭箱に五円玉を投げて、手を合わせ願いを込めた。
「英里奈は何をお願いしたんだ?」
「私は画集の努力が実りますようにってお願いしたよ」
英里奈の画集は一昨日の一月四日に発売し、売れ行きも評価も絶好調だ。
「それなら絶対叶うよ」
「そうだと、いいな。ゆう君は何をお願いしたの?」
「俺は芹那さんの体調かな。自分のことは自分でどうにかするからあえてお願いはしなかったんだ」
二人は話しながら江ノ島を降りようとした時、英里奈が立ち止まった。
「トイレに行ってくるからちょっと待ってて」
そう言って英里奈は駆け足でトイレに向かう、フリをした。
江ノ島神社には縁結びの絵馬があり、そこに二人の名前を書くと叶うと言われている。
英里奈はその絵馬を一枚購入し、絵馬に英里奈と夕璃の名前を書いた。
「神様お願い。画集の努力を、この恋を叶えて」
英里奈は震えるような声でお願いをして絵馬を木に結びつけた。
英里奈は何事もなかったかのように夕璃の元に戻り、本来の目的地に向かった。
江ノ島電鉄線に乗り、訪れたのは七里ヶ浜と呼ばれる浜辺だった。
湘南の浜辺は夕璃達が海水浴に訪れた片瀬東浜以外にも、場所によって違う名前がついている。
英里奈は感慨深く浜辺を眺めている。
「結局ゆう君は私のペンネームに小学生の頃から一回もつっこまなかったよね」
「そう言われてみればたしかに。どうして七里ヶ浜なんだ?」
英里奈は少し呆れながら答えた。
「本当に今更だよ。七里ヶ浜って小学校の遠足で来たよね?そこで私達、初めて会ったじゃん」
「え?」
夕璃はキョトンとし、本気で分からない顔を浮かべた。
「うそ、覚えてないの?」
「小学校の遠足で行ったのは覚えてるよ。スイカ割りにビーチバレーをしただろ?あと海の絵を描いてる人もいたな。すごい上手くて褒めた覚えがある」
「それが私だよ!」
英里奈は拳を強く握りながら叫んだ。
夕璃は英里奈に話しかけられる一年前、クラスが違う時に会っているのだ。
「私はね、ゆう君に褒められるまで誰にも褒められたことがなかったの。親にも絵を描くの好きだねって言われるだけで、絵を描く仕事がしたいって言ったらもう少し頑張らないとって言われてたの。初めてゆう君に褒められた時、私は絶対イラストレーターになるってこの海で誓ったの。だから七里ヶ浜英里奈」
英里奈は一呼吸おくと、カバンから画集を取り出した。
「これがその日から今日までの私の、ゆう君への想いを全てを込めた画集。私の本気を見て」
夕璃は強く頷き、画集を一ページずつ、しっかりと見た。
これまでの英里奈の絵とは格が違い、魂からの想いが込められていた。
一度見れば飲み込まれ、心を掌握されるような絵。
だが夕璃の想いは変わらなかった。
「英里奈の画集、全部見させてもらったよ」
そう告げると、さざ波に言葉を乗せるように英里奈が言葉を振り絞った。
「ゆう君、私だけの主人公になってください」
言葉を振り絞った英里奈は今にも泣き崩れそうな顔をしていた。
それでも夕璃は告げなければならなかった。
この後どのような結果が待っていようと。
「俺は英里奈だけの主人公にはなれない。俺はずっと、桜華だけの主人公だ」
突き刺すナイフのような言葉は、英里奈の心を砕いた。
他の誰よりも夕璃のことを好きでい続けた英里奈にとって、予想していた答えでも夕璃から告げられるのは耐え難いものだった。
「そうだよね。分かってた、分かってた筈なのに……」
英里奈はとうとうその場に泣き崩れてしまった。
夕璃は英里奈に手を差し伸べることすらできなかった――否、差し伸べてはいけなかった。
涙の量は誰にも推し量れない、十二年の恋の如く溢れていた。
その後、英里奈は一人で帰ると言って駅に歩いて行ったがそれを止めることさえ、今の夕璃にはできなかった。
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