第40話 それぞれが思いのままに
夕璃と愛が登下校の練習をしていたその頃。
芹那は一人強ばった顔でHG文庫の編集長室の前に立っていた。
ゆっくりと丁寧に三回ノックした。
「どうぞ」
部屋から返事がくると、芹那は深呼吸して入っていった。
「失礼します。今日は林編集長に話があり参りました」
白を基調とした部屋で、黒のオフィスチェアに座っているのはHG文庫の編集長――
ふくよかな体型に丸メガネをかけている、いつも笑顔が絶えない優しい人だ。
「そんなに改まらないでくださいよ。いつもため口じゃないですか」
「そうだな。今日はいつもより真剣な話だからつい緊張してしまったんだ」
芹那はほっと胸を撫で下ろし、緊張を少し和らげた。
「どんな話でも聞きますよ。そこに座っててください。今お茶を出しますね」
芹那は編集長の机の前のソファーに座るように促された。
「編集長なんだから私みたいな部下に気を使わなくてもいいんだからな」
「私の謙遜する性格は直らないんですよ。だから堂々として大胆な性格のあなたに何年も編集長への昇進の話を持ち出しているんですよ」
芹那は過去に何度も編集長にならないかと言われていた。
だが芹那は上に立つ素質があっても途中から上に立つ意志はなかった。
「その謙遜する性格のおかげでこの出版社は着実に一歩ずつ、大きな失敗をすることなく、成長したんじゃないか」
「そう言ってもらえるとありがたいです」
典彦はお茶を芹那の前に置き、芹那の向かいに座った。
「それで話って?」
改めて典彦は尋ねた。
「恩を仇で返すことになると承知だが――新しい出版社を建てて夕璃、遥斗、英里奈を引き抜きたいと思う」
突然の爆弾発言にも典彦は一切驚かず、笑顔のまま質問した。
「どうして急に新しい出版社を建てて夕璃君達を引き抜こうと思ったんですか?」
芹那は少し前の甘酸っぱい失恋を思い出した。
「私は今まで自分で自分の物語を紡ぐような主人公にはなれないって決めつけてしまっていた。でも物語は好きだからせめて読者になろうと思っていたんだ。だから自分の物語を紡ぐ主人公達がいる出版社に入るため、編集者になった。でも前に夕璃が言ってくれたんだよ。『みんな、誰かの物語の読者で自分の物語の主人公』だって。私はその言葉に背中を押され、本当にやりたいことをやろうと決めたんだ」
「その本当にやりたいこととは?」
「一から私の出版社を建てて、主人公を目指すクリエイターを育て、この業界を変えてみせる。それが私のやりたいことだ」
芹那は読者として主人公になろうともがいているクリエイターの人生を見ることを、主人公としてクリエイターに寄り添い物語を紡ぐことを決めた。
「夕璃達は私の物語に必要なんだ。だから頼む。夕璃達を引き抜かせてくれ」
典彦はお茶をゆっくり飲み干し、テーブルに置くとあっさりと返事をした。
「いいですよ」
「そんなあっさりと、本当にいいのか?」
芹那も疑うほどあっさりしていたため、怪訝な顔で典彦を見つめた。
「たしかにHG文庫に得はありません。むしろ作家二人とイラストレーター一人が減って損です」
芹那はそれを聞いてぐうの音も出ないような渋い顔をしていた。
「でもそれ以上にこの業界自体に影響があると思うんです。私は出版社の編集長であり、この業界の未来を背負う者の一人です。私はここで三人のクリエイターと一人の編集者を羽ばたかせることは、いずれこの業界に大きな変革をもたらしてくれると思っています」
普段は聞かない典彦の編集長としての志を聞き、芹那は改めてこの人は編集長に相応しいと感じた。
「あなたは昔から自由に堂々と突き進んで成功を収めてきました。あなたには道を切り拓く力があります。だから自分で選んだことなら成功しますよ」
「ありがとう。編集長にそこまで言われたら本気でやるしかないよな」
編集長の言葉で芹那の心に火がついた。
「そういえばあの人は引き抜かないんですか?」
「あいつは義理人情を大切にするやつだ。きっと夕璃が違う出版社に行くと言ってもここに残るだろ。それに、むしろ違う出版社だから張り合えるって言いそうだし」
芹那は呆れながらも笑っていた。
「じゃあ進展があれば報告するよ」
「ええ。良い報告を待ってます」
芹那は立ち上がり編集長室のドアを開け、出る時に振り返って典彦を真っ直ぐ見た。
「私を編集者として育ててくれてありがとう。この恩はこの業界に返すとするよ」
そう言って芹那は退出した。
「あなたは思うがまま進んでください。きっと夕璃君達も思うがままに進み、自分の物語を紡ぎ続けますよ」
典彦は一番編集者としてぶつかり合い、支え合い、成長し合った尊敬する人に向けて一人、呟いた。
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