第11話 今を全力で走らないといけない

 ペンが液晶タブの上を素早く走っていく音を聞いて早二時間。

 

 時折英里奈の顔を覗くが、一切表情を変えずに絵と向き合っている。


「できたよ、ゆう君」

 

 震える手でゆっくりとペンを置き、英里奈は夕璃に液晶タブを渡した。

 英里奈の全力が込められた絵はやはりとても上手だった。

 

 土手の上、紺のブレザーを纏った結衣がロングの茶色の髪をなびかせて、夕日をバックに笑顔で悠輝を呼ぶシーン。

 

 夕璃もこの絵を見た瞬間驚きが声に出てしまったほどすごかった。

 

 でも――


「やっぱり違うんだよ」


「だから何が違うの!六年前の下手くそな絵と違って当たり前でしょ!」

 英里奈は夕璃の手を強く握りしめた。


「確かに絵自体は変わっていて当然だ。でも一つだけ絶対に変わってはいけないものがあるだろ」

 先ほどまで怒りをあらわにしていた英里奈はきょとんとしていた。


「想いだよ。英里奈は六年前と今では込めている想いが違うんだよ」

「私が込めている想い……」

 

 私はゆう君と会うために必死で絵を描いてきた。

 この業界で潰されないために描いてきた……

 

 そうか――

 

 私は


「ゆう君の言いたいことがやっとわかったよ。私はゆう君と離れてからずっとイラストレーターになるために、そしてイラストレーターになったらこの業界で潰されないために絵を描いてきた。でもゆう君が求めている絵に込める想いは仕事への必死さなんかじゃない。絵を描く楽しさ、情熱、ゆう君と一緒に小説を創りたいっていう渇望――私はそんな簡単で純粋な想いをいつからか忘れていたんだ」

 

 英里奈は涙を拭い笑顔で夕璃を見つめ、そして真剣な表情で机に向かった。

 

 そしてもう一度ペンを持った。

 

 先ほどは絵を描いている時は真剣な表情を崩さずにいたが――今は笑っている。

 

 描き終えた絵は六年前と同じ情熱が、絵を描く楽しさが、想いが込められている。


「そうだよ!これだよ!この絵なら――俺の小説にぴったりだ」

「ゆう君の隣なら私はいくらでも描けるよ。だからいつまでも私と一緒にいてほしい。だけど、ゆう君は桜華が好きなんでしょ」

 

 ――やっぱり、聞いていたか。


「その話桜華から聞いていたんだな。なら知ってるだろ、俺が振られたこと」

「うん。知ってるよ。でもまだ好きなんでしょ?」

 

 俺は――俺はまだ桜華のことが好きだ。

 だがそれを英里奈に言えば傷つけてしまうかもしれない。

 

 夕璃もまた、英里奈の想いに気がついていた。


「今は小説に集中してるから気持ちの整理ができてなくてわからないな」

 夕璃は曖昧な答えで濁した。

 

 英里奈は納得していないようで頬を膨らませ、いかにも不機嫌そうにしていた。


「まぁいつかわかるだろうし私に気を遣ってくれてるんだよね。さすがゆう君やっさしーい」

 

 英里奈は夕璃の胸目掛けて飛び込み、腰に手を回して抱きついた。

「ちょっ?!英里奈!」

 

 夕璃は驚きでどうすればいいのかわからずあたふたしていた。


「こういうことに慣れてないなんてかわいいね。私はまだゆう君のこと諦めてないし、桜華には悪いけど奪っちゃうからね」

 

 そう言って小悪魔のような微笑を浮かべた英里奈は、夕璃の頬に唇を優しく当てる。

 ふわりとした唇が夕璃の頬に当たり、英里奈の顔が目の前にくる。


「っ?!」

 英里奈は唇を離すと舌をぺろりとして――


「ごちそうさま。ゆう君が絵描きと恋に火をつけたんだからね」

 そう言って英里奈はまた椅子に座り絵を描き始めた。

 

 英里奈の意外な一面とキスで、夕璃は呆然としていた。

 

 夕璃は加速していく心臓の鼓動を落ち着かせながら、頬に微かに残る唇の感触を意識していた。

 

 その後は英里奈に絵が描き終わるまでは一緒にいてほしいとのことなので夕璃は英里奈の家に泊まることにした。

 

 ――否、泊まることにさせられたのだ。


 

 英里奈が手を止めたのは夜だった。

 アトリエで寝てしまった夕璃を英里奈が起こした。


「もう描き終えたのか?」

「ちょうど半分くらいかな?少しお腹空いちゃったから一度手を止めたの。ゆう君先お風呂入ってきていいよ。その間に私が手料理を作ってあげるから」

「お、まじか!ありがとう」

 

 夕璃はお言葉に甘えてお風呂を借り、疲れを流してきた。

 夕璃が上がった頃にはテーブルに料理が並んでいた。


「あ、座って座って」

 

 英里奈に言われるがまま夕璃は席に着いた。

 テーブルにはトマトパスタとイタリアンサラダが並べられていた。


「じゃあゆう君の求めている絵が描けた祝いとして乾杯!」

「乾杯!」

 二人はお茶を手に乾杯をした。


「英里奈、料理上手いんだな」

 夕璃は関心してパスタを口に運ぶ。

 トマトの甘さに唐辛子のピリ辛がとても合っている。


「実家にいる時は料理が趣味で作ってたからね。盛り付けとか考えると意外と絵の特訓になるんだよ」

 

 夕璃は英里奈の話を聞きながら今度はサラダを口に運ぶ。

 イタリアンサラダはオリーブオイルとレモンで味付けされており、さっぱりとした味わいだ。


「ねぇ、やっぱり聞かせてよ。桜華のこと好きか」

 突然話題を変えた英里奈。

 

 やっぱり曖昧な答えじゃ納得しないよな。


「いいんだな?俺がどんなことを言っても」

「うん。覚悟はできてるよ」

 俺は誰にも言っていない本音を打ち明けた。


「俺は桜華に振られた理由が何となくわかるんだ。桜華にもう聞いたんだろ?」

「うん。多分誰よりもゆう君のことを考えているんだと思う。そうじゃなきゃあんな選択できないよ」

 

 やっぱり合ってたか。


「何となく振られた時わかったんだ。俺があの時桜華と付き合っていれば全てを捨ててしまうかもしれない――それを桜華が拒んで振ってくれたって。普通自分じゃない誰かが全てを捨ててしまうのを感情を殺してまで止めようとするなんてできないよな。桜華は俺以上に辛い思いをしている――だから期待に応えなきゃいけない。俺が桜華の隣をゆっくり歩いても大丈夫だって思ってもらえるように、今はまだ全力で走らなきゃいけないんだ。もし速度を落としても作家としては止まれないくらいの上位に登りつめたら――俺から桜華にもう一度告白する。それまでは桜華から離れてやるもんか」

 

 英里奈は表情一つ変えずに話を聞いて最後の言葉を聞き終えた時、確信した。


「始めからゆう君の人生物語のメインヒロインは三人じゃなく一人だったんだね」

 

 その言葉を聞いた夕璃はバツが悪そうに俯いた。

「ああ、そうだ。俺のメインヒロインは桜華一人だと思っている。でも芹那さんや英里奈に必要とされた時、英里奈にキスされた時、俺はドキッとしちゃったんだ」

 

 夕璃は微笑を浮かべて話していた。

 どこか照れていて、それでいて罪悪感を感じている複雑な微笑。


「ならまだ私たちにはチャンスがあるんだね。私は諦めないよ。だって七年前、私のこと好きだったんでしょ?」

 

 夕璃は不意をつかれ仰天する。


「な、な、なんでそれを知ってるんだよ!」

「態度でわかったよ。一度落とした男ならもう一度落としてみせる。前より圧倒的不利でも私は最後まで諦めないよ」

 

 英里奈はグラスを手に取りお茶を一気飲みして突然席を立った。


「私は九年前からゆうくんが好きです――これは告白じゃなくて挑戦だからね。私は落としてあげる」

 

 そう言って英里奈は不敵な笑みで夕璃に宣言した。

 その後英里奈はまた絵を描くと言ってアトリエに入って行った。



 この七年で私はもう眼中になくなっちゃったのか。

 悔しくないのかと聞かれたら――


「悔しいに決まってるよ!イラストレーターでも編集者でもない、一般の女子大生に取られてしまったなんて……。負けるもんか。私の絵で、魅力で、ゆうくんを返してもらう。だから今は私もゆう君のように全力で走らなきゃいけないんだ」

 

 薄暗いアトリエで一人のイラストレーターが走り始めた。

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