55.方便としての出家、そして香の娘との対面
もっとも実際に出かけるまでには多少の用意が必要だった。
いや、梛にとっては「多少」だが、周囲の者にとっては決してそうではなかった。
「な、梛さま……」
乞われて剃刀を持ってきた松野は、目の前で行われようとしていることに唖然とした。彼女の主人は、長くふわふわとした髪をぐっと一掴みすると、そこに剃刀の刃を当てようとしていた。
思わず松野は叫んだ。
「おやめください! 髪を下ろすなら下ろすできちんとした形式を……」
止めようとする。が、下手に近付いて取ろうとすれば、刃が主人の何処かを傷つけるかもしれない。
「方便よ」
そう言いながら、梛はあっさりと掴んだ髪に刃を当てた。ざく、と音を立てて手の中に髪が残る。切られた側はふわりと横に広がった。
そして思う。ああ軽い。
頭から首から肩にかけて自分にのしかかっていた重みが一気に消えた様だった。
「この長さに、松野、揃えてちょうだい」
「梛さま……」
松野は半泣きで、それでも言われた通り剃刀を取る。大きくざっくりと同じ程度の長さに切り、その後はさみで揃えてやる。
一連の作業が済むと、梛は大きくうなづき、気合いを入れた。
「よし! あとは適当な袈裟を用意しなくちゃ」
「梛さまぁ」
髪を処理しただけで張りつめていた気持ちが限度を超えてしまったのか、松野は腰砕けになっていた。仕方がない、と梛は下仕えの女を呼んだ。
「何でございましょう…… ああっ!」
女は梛の頭と半泣きで腰を抜かしている松野を見比べ、思わず声を上げる。
「こんな訳だからね。袈裟を用意してちょうだい。適当な、ごくごく穏やかなもの」
「……梛さまのものなら私がやります…… お前は車の用意をさせて。奥様はお出かけすると言ったから」
へなへなといざりながら、それでも松野は衣類を納めてある方へと向かった。下仕えの女は承知しました、と庭を回っていった。
「あのですね、梛さま」
衣装を入れた櫃を幾つか取り出しながら、松野はやや恨めしそうな声で呼びかけた。
「私はそれなりに梛さまが出家なさる時にはどういうものをお着せしたものか、と考えてはいたのですよ」
それをこんな突然に、と言いながら彼女は鼻をすする。
「棟世が亡くなったと聞いた時から、その気ではあったのよ」
ただやはり髪を下ろすには、背中を押してくれるものが欲しかった。
方便。
香の文の中の言葉が、梛の中の何かをけしかけた。
「正式な戒を受ける時には私もご一緒しますからね」
「お前まで」
「私は梛さまと一緒に出家すると決めていましたのですからね。そちらが勝手に髪をお下ろしになられてしまったのですから、私も勝手に致します」
それには梛も苦笑するしかなかった。
*
「お、」
がらがら、と車輪が音を立てて門の中へと入って行く。
「……お待ちを…… お待ち下さいませ!」
背後で声がするが知ったことではない。梛はそのまま車を進めさせる。
「本当によろしいのでございますか?」
一緒に中に居る松野は梛をちら、と見ながら問いかける。
簾を上げると、急な来客に屋敷の中がざわついているのが判る。やがて高い声が聞こえてくる。
「お客様なの? お通しすればいいわ」
「姫さま」
姫さま。すると香の娘なのだろうか。梛は思う。文を交わしながらも、殆どその中に登場しなかった。
「お客様と言ったら、お母様のでしょ。いいわ、通してさしあげて」
「ですが姫さま、奥様は伏せってらして」
「いつものでしょ」
ふい、と少女は言い放つ。そして。
「入ってらして!」
少女は梛達に呼びかけた。中流とは言え貴族の娘としてはあるまじき大声で。そして野依が止めるのも聞かず、外へ飛び出してきた。まだ振り分け髪の、華やかな顔立ちの少女。
「ようこそいらっしゃいました、清少納言の君」
慣れた女童の様に、はきはきとした口調で梛に向かって少女は呼びかける。
「一度お会いしたいと思ってました。私は為時が孫、藤式部の娘です。志良と申します」
しら、とその名前は梛の耳に飛び込んできた。
「少納言の君のお噂はかねがね耳にしております。お目にかかれて嬉しゅうございます」
裳着前。年の頃はまだ十に届くか届かないか、というところだろう。それなのに何としっかりした受け答えだろう、と梛は思わず感心する。
「式部の君は何処かお悪いのですか?」
場所を移すが早く、梛は問いかける。この少女だったら直接訊ねても大丈夫だと思う。
歳より大人びた口調。ゆったりと、聞く側の様子を自然、確かめる様な態度。下手すると、最初に出会った時の香よりもずっときちんとしていた。
そんな少女は答える。
「伏せってはいます。ですが別に何処かが悪いという訳ではございません」
「姫さま」
野依が口を挟もうとする。それを志良は手で制する。
「母は自分で自分を責めるのです。ただただ。自分で自分を病気にしているのです。母は――馬鹿です」
言い放つ。梛はさすがにその口振りには驚いた。
「それは、……母君に言う言葉では無いのではなくって?」
「母が私の母だったことなど、殆どありません」
冷めた口調。
「私を育ててくれたのはこの野依です。母は私を生んではくれたけけど、殆ど私に構うことはありません」
「奥様は!」
野依はひったくる様にして言葉を接ぐ。
「奥様は、姫さまや私どものために、出仕なさっているのです」
「違うわ野依。お母様は、物語のために出仕なさっているのよ。そういうひとだわ」
聡い子だ、と梛は思った。
「そうではないですか? 少納言さま」
「そう―― でしょうね」
梛さま、と野依は声を荒げた。
「そんなことありません、奥様の気性には決して内裏など向いてはいないのです、この乳母子である野依には判ります。奥様は、だけどそのことは決して口にしないだけなのです」
「けど野依さん、いつも色々苦労していたのはあなたじゃないの」
松野もまた横から口を出す。
「いつぞや、紙が足りないと必死だった時のことを忘れたの?」
「私も覚えている」
志良もはっきりと言った。
「あの時のお母様はまるで物の怪がついたようだった…… お祖父様にも叔父様にもどうにもならなくて、皆がきりきりしていたわ。私は乳母子と一緒に震えていたのよ」
「ですが姫さま、いつも野依が申しております様に、物語を書く方というのは」
「ええ判っています。判っているのよ。お母様はああいうひとだと。私のことだって、全く忘れている訳ではないわ。思い出すこともあるわ。時々。時々よ。少納言さま、失礼ですが、お子さまはいらっしゃいますか?」
はっと梛は目を見開く。
「男の子が、昔居ました」
「女の子でしたら、どう致しましたか?」
「どう、と言いますと?」
少女の目は真剣だった。
「少納言さまは、それでも出仕なさいましたか? 娘を置いて。あの草子のために」
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