56.「思わない、のではないのですよ。思えない、のです」
いいえ、と言いながら梛は首を横に振った。
「私はあの草子のために出仕した訳ではありません。あの出仕した日々があったからこそ、草子ができたのです。順番が逆ですね」
そう言いながらも梛は考える。言ったことは間違っていない。
「私には姫は居なかったから、出仕しました。居たらしなかったかもしれない」
少女の目が辛そうに細められる。
「でも私があの草子ではなく、物語を書いていたならば、香さんと同じ様にしたかもしれません」
志良は顔を上げた。
「あなたの母君が、親として、人として果たして正しいのかと言えば、正直決して正しくはないと思います。あなたの母君は、物語に取りかかると、あなたのことも、いえ、物語以外の全てのことがどうでも良くなる。そういうひとですから」
「ええ」
少女はうなづく。
「そして今、その物語が終わったというのに、それでも出仕することを辞めないで、私のことも忘れて、戻ってきてからというもの伏せってばかり。自分で進んで出た内裏のこともおなじ場所でお仕えしている人達のことも、自分のことも、生きていることも全て嫌だ嫌だとつぶやいて」
馬鹿です、と少女はぽつんとつぶやいた。そして黙って首を横に振る。
「どうしてそうなってしまうんでしょう、お母様は。宮仕えが嫌ならおやめになればいい。何も暮らしていくのに困るという訳ではないでしょう? ねえ野依」
突然話を振られた野依は一瞬息を呑む。
「どうしてお母様は楽しく生きようと思わないの? 私は毎日楽しいわ、物語など無くとも。他の女の子と遊んだり、庭の花を眺めたり」
「思わない、のではないのですよ。志良さん。あなたの母君は思えない、のです。それこそあなたの歳に近い頃から」
梛は言葉を探す。
「どうして? 簡単なことじゃないですか」
「志良さんは、物語はお嫌いですか?」
「嫌いじゃないわ。でもそれだけよ。私はそれよりは外に出て皆と遊ぶ方が好きなだけ」
父方の血を強く引いているのだな、と梛は思う。華やかな顔立ち、人目を無意識に感じ取って上手く振る舞おうとする姿、それはただの一日だけど実際に会った香には全く無かったものだ。
「為時どのは、あなたのお祖父様は、歌や詩を教えて下さいますか?」
「熱心に、色々」
くす、と少女は笑う。
「だけどお祖父様の言う様な規則だらけの歌は詠めないと思います。漢文なんてまっぴらです。私はそんなに深く考えることもできませんし、面倒です。それよりは野依がお母様のために衣装を用意する時の色合わせや、叔父様が気にする香の種類とか考えることの方がよほど好きです」
この子は、と梛は思う。
この子の方がよほど宮仕えに向いているのではないか。
しかしその考えはすぐには前には出さず、別の切り口からついてみた。
「志良さん」
「はい」
「あなたは宮仕えを考えたことはない?」
少女は思わず目を見開く。
「私がですか?」
ええ、と梛はうなづき、微笑んだ。
「あなた位の子も宮中でお仕えしているわ。そう、中宮さまの所で、和泉式部という方は娘さんと一緒にお仕えしているわ」
志良は軽く眉を寄せ、首を傾げた。梛の言葉の裏を読もうとしている様だった。
「それは…… 私も女童として母と一緒に出仕したらどうか、ということですか?」
「姫さま!」
野依は何てことを、と慌てる。だが梛はそれには構わない。
「あくまで、一つの考えよ。そうしてみるのも悪くはない、という程度の」
「私は宮仕えに向いていると思いますか? 少納言さま」
「少なくとも、母君よりは」
ものおじせず人と相対することができ、しかもそこで失礼だと感じさせない雰囲気がこの少女にはある。それは非常に宮仕えに大切な資質だと梛は考える。
「お母様よりも?」
「元々あなたの母君は、普通の女房として宮仕えしている訳ではないわ。『源氏の物語』を読みたいと中宮さまに乞われて出向いたのよ。中宮さま直々のお誘いに、あなただったら拒むことができて?」
ただそこで、香が紙と筆と墨のために出仕を決めたことは告げない。
「お母様は出仕したくはなかったのでしょうか」
「しなくとも自分の望む暮らしができたなら、しなかったでしょうね」
だがそこで、宮仕えに出なかったら、香が子育てをきちんとしたかどうか、も言わない。そこに少女の望む答えを見つけられるのか、梛にも判らなかった。
「一緒に宮仕えしたら、お母様は嬉しいと言ってくださるかしら?」
「中宮さまは面白がるのではないかしら」
野依は梛のその言葉に呆れた様に顔をしかめた。
「ところで、そろそろ式部の君に会わせていただけるかしら?」
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