54.梛と清少納言が別人である様に、香と紫式部は別人なのだ。

 甘い。甘いだろうか。梛は自問する。


「違う、……と思うわ」

「前からそうだったじゃないですか。そもそも梛さまのおかげで『源氏の物語』も広まった様なものなのに」

「あのひとには物語を書く才能があったもの。実際良い作品を書いたでしょ? 最初の『形代』があんなに長い物語になるとは思わなかったわ」

「でもその後が良くないです」


 畳みかける様に松野は続ける。


「定子皇后さまの元で起こったことを教えたり、お友達の皆さまに物語を回して感想を受け取って届けたり…… なのに宮中で皆で製本作業をすると決まったら、突然『感想はいらない』と言い出したり…… あんまりにも勝手だと思いませんか?」

「そう、勝手だと思うわ」


 梛はうなづく。


「だけどそれを承知で私だって物語を読みたいために彼女の文を受け取ってつきあいを続けていたし、色々言うことを聞いていた訳よ。彼女自身が好きか嫌いか、ということは別にして」

「梛さまは香さまのことはお嫌いなんですか?」

「そうね……」


 梛は言葉を探す。少なくとも普通の友達や知り合いの付き合いにおける好き嫌いでは表現しづらい。

 香の物語を書く才能に関しては認めている。おそらくは誰よりも早く、そして誰よりも深く。

 だが人としてはどうだろう? 


「松野、たぶん私はあのひとの逆なのよ」

「逆と仰いますと」

「私は『紫式部』は好きよ。でもきっと、香さんとは顔をできれば合わせたくない程度に、彼女自身のことは好きではないのよ」


 そうなのだ。口にしてみて思う。香の中で梛と清少納言が別人である様に、梛の中では香と紫式部は別人なのだ。


「遠くで、直接関わらないのならば、ずっと関係を切らずにやっていたいわ。だってあのひとの書くものはとても面白いのですもの。でも当人に関しては」


 正直、会いたくない。会ったらきっと、彼女の態度や口調やその観察眼などにうんざりすることだろう。 

 そして香が絶対に直接梛に会いには来なかった様に。「清少納言」の部分の梛とは会ったら絶対に自分の中の何かを刺激されるから。


「私も彼女も、お互いを利用しあっていたということかしら」


 よく判りません、と松野は首を横に振った。


「でもお前の言うのも一理あるわ、松野。いくら何でも当の本人に書いてくるあたり…… お前今度、野依にこの文返す時に、香さんの様子ちょっと聞いてきてくれない?」

「一応聞いてはいますが……」

「いつものじゃないのよ。ええと…… 何と言ったらいいかしら」


 何かが彼女の中で壊れているのではないか。もしくは、昔からあった性質が隠しきれずに現れだしているのではないか。


「そう、野依なら判ると思うわ。『また姉君、というひとが香さんには見えていませんか』と」



 戻ってきた松野は深刻な顔でうなづいた。


「野依さんは『どうしてそれを』とひどく驚いていました」


 梛はため息をつく。

 何かが香の中で壊れつつある。だけどどうしようも無い。そもそも考えてやる義理も無い。

 だけど。



「ああもう、私の一生なんて本当に大したものではないと最近つくづく思います……

 もう最近は色々なことが頭の中に押し寄せてくるので疲れて仕方がありません。ともかく陰口を言われない様に言われない様にと暮らしている有様です。

 言われても弁解すればいいではないか、と仰るかもしれませんが、私の言うことが理解できない人には、言っても無駄でしょう。

 そう、人の非難をし、自分こそ正しい、と確信を持っていそうな人には、何を言うのも億劫なのです。そういうひとは、自分の中のこれが良いあれが良いという基準を何やらひどくきっちり持っていて、それから外れるひとをわざわざ否定してくるのです。

 そんな自分の気持ちが顔に出ても何なので、できれば面と向かったりしたくはないのですが、お役目でしたら仕方ありません。向かい合わせになることもあります。

 そういう人々が居る中では、できるだけぼぉっとした人間の様に思わせようと日々苦労しているのです。私としても。

 で、そういう様子をしていたせいか、私自身がだんだんそういう人間だと思われてきた様なんです。

 判ってます。自分でそうしようと思った訳です。でも実際におっとりした者と見下されてしまったことには何処か腹が立つのです。

 個性が強く優雅に振る舞い、中宮さまから一目置かれている上流の女房たちからも、邪険にされたくない。そういう思いで必死で取り繕ってきた訳です。

 だってそうでしょう。結局女性は穏やかで、心の持ち方もゆったりとして落ち着いているひとこそ皆安心するではないですか。

 和泉式部さんに対して私がそう思っている訳ですが、好色っぽくて浮薄であるけれども、人柄は良くって付き合いにくくもないひとというものは嫌いにはなれないじゃないですか。

 そして自分こそは他とは違うと、傍から見て変な振る舞いばかりで、態度が仰々しくなればともかく目立つのです。目立ってしまえば、何処からともかく欠点がえぐり出されてしまいます。

 そこで心細くなって言葉が上手く出なくてちぐはぐになったり、自分だけじゃないと他人を持ち出したりすれば、更に睨まれてしまいます」



 よほど宮仕えが辛いのだろうか。梛は思う。



「そんな風に色々気をつかって宮中ではやっているというのに、『男でさえ学識を鼻にかける者は栄達はしないもののようですよ』男でさえ! そんなことを耳にする様になってからは、私はもう、『一』という漢字すら書けない様な顔をしているのに。

 漢籍だって家に帰った時なら…… 家ではあれこれ使用人達がぶつぶつ言うし…… 外などではもってのほか。

 なのにどっかの誰かさんが『日本紀の御局』などというあだ名をつけて下さる。帝にも言われて…… ああ嫌だ嫌だ。

 中宮さまにも『新楽府』の講義を、大まかにですがしています。でも隠しているんですよ、わざわざ。なのに中宮さまもお隠しになっていたのですが、左大臣さまと主上がお知りになってしまったからもう大変です。漢籍類を立派に漢籍類を立派に書家にお書かせになって、殿は中宮さまに献上なさる。

 こういう動きがあればまた下手な噂が広まって、私に嫌なあだ名をつけたどっかの内侍が聞きつけてはぐちぐち言うのかと思うと本当に嫌で嫌で。

 もういい加減出家してしまいたいです。

 でも出家したところで、姿を変えたところで、本当にそれが私にとって救いになるのでしょうか?

 私は実際に地獄があるとか物の怪がとりつくとか、来世も信じることができません。そんなものは方便だと思っています。物語を書けば書くだけ、そう感じる様になってきました。

 物語の中で物の怪を出しておきながら、と梛さまは言うかもしれませんが、出してしまったから、余計にそう思うのです。六条の御息所を見ているのは源氏だけよね。結局これは源氏がそう思いこんでいるだけじゃないかしら、とか。

 前世だの宿世だのも、全て方便なんじゃないか、って。

 でもそう考える様な私は、きっと死んでも極楽往生はできませんね。前世の罪業が思い知らされる様なことばかり多いんですもの。

 前世も後世も信じていないくせにそんなこと言うのも何ですけど。

もう笑うしかないですね。梛さま」



 あはははははは、と梛は大きな声で笑う香の姿が見える様な気がした。

 この文は十二月のはじめ、里に戻った香が書いてよこしたものだった。野依の話では、急に戻ってきて文をしたためた後は、ぐったりとして横になっているばかりだという。

 梛もその頃、一つの転機が訪れていた。遠く離れた赴任地で棟世が亡くなったというのだ。

 方便。文にあったその言葉が梛の中の何かを押した。


「松野! 香さんに会いに行くわ!」

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