29.「葬送の辺りを書きたかったのじゃないのかしら」
その年の夏、左大臣道長は敦康親王に信頼する部下である藤原行成をつけるなど、厚遇する姿勢をより強くした。
「左大臣さまはどういうおつもりでしょう?」
文章のまとめをしている梛に瓜の差し入れをしながら、松野は問いかける。敦康親王の進退は彼女の主人にも降りかかってくる可能性があるのだ。
「そうねえ」
梛は文机に頬杖をつき、一口大に切られた瓜を指でつまむ。
あの左大臣が単純な好意でその様なことをするとは考えにくい。ただ。
「道長どのは一度追い落とした相手には優しくする、という傾向があるのは確かね」
「落としてから、というのが何ですね」
「でも、一度落としてからならどんなことをしても安心できる、というのも確かだと思うわ。優しくするにしても、厳しくするにしても」
「梛さま最近、物の見方がお厳くなりましたわ。香さまじゃないんですから」
あはは、と梛は力無く笑った。
「確かに香さんは見方が厳しいわね。というか、最近、悪い面に目を向けすぎる感があるわね」
特に先年の三巻のうち「葵」。
この話を素晴らしいと思いつつも、登場人物達はずいぶんな仕打ちをされている、と梛は思った。
源氏の君の父院が退位した。それによって、藤壺の宮と普通の夫婦の様に始終一緒にいる間柄になった。これはこれで、彼女はいつ自分の罪が判ってしまうかと気が気でない。
六条の御息所と源氏の正妻はどちらも悲惨だ。
御息所は新斎院の御禊を見物に行った際に、正妻の側と場所争いを起こしてしまい、結果として負けてしまう。御息所はここで二つの辱めを受けることとなる。一つはこの騒ぎで自分と正妻の争いが周囲に判ってしまったこと。もう一つはその場に源氏が通りかかったことである。正妻の車には敬意を払って通って行く。しかし自分は人目を憚ってじっとしているしかない。気位の高い女性には非常に辛いことだったろう。
結果、彼女の生き霊が当人の意志と関係なく正妻の元に現れ、当人も思い及ばない荒々しく乱暴な振る舞いをしてしまう。ついには源氏の元に現れて恨み言を言う。そしてとうとう正妻を取り殺す……
源氏は正体を判っているだけに辛い。そしてやっと心が通い合いだした妻が亡くなってしまったことも悲しい。
「この正妻を死なせてしまう必要はあったでしょうか、梛さま」
松野は問いかける。
「香さんはこの葬送の辺りを書きたかったのじゃないのかしら」
ふと梛はつぶやいた。
「書きたかった、のですか? ご自分に少し前に実際にご葬儀がおありになったというのに」
松野は顔をしかめる。
「正直、源氏がここまで悲しむ辺りが少し不思議なのよ。確かにずっとうまくいかなかったのに、やっと心が通じ合った妻だから悲しい、というのも判らなくはないけど……」
それよりも、何処かで一つ、葬儀の場面を書いておきたかったのではないか。梛はそう思った。
正妻を生き霊によって死なせる必要は前々からあったのかもしれない。御息所共々源氏の前から去らせるには良い方法だったろう。この先「紫の君」が源氏の一の人となる予定があるのだったら。
ただここまで源氏を悲しませるというのは香の計算には入っていなかったのではないか。梛はふと思う。
正直話の筋の中ではどちらでも良いことであり、左大臣の所を去ってすぐに紫の君と新枕を交わすという後の展開に少し違和感を持たせてしまう。
「だからね松野。葬儀とその後の場面。源氏を通して彼女は悲しみたかったんじゃないかしら」
松野は首を傾げる。
もっとも梛自身も本当に良く判っていた訳ではない。ただそんな気がするだけだ。最愛の夫を亡くした、どうしようもないやるせない気持ちを香は源氏の悲しみを書くことで、一つの形にして残したかったのではないか、と。
「……おっしゃる意味がよく判りませんが」
梛はそれには軽く笑ってごまかした。
松野にはおそらく判らないだろう。書かない者には理解できない、紙の上に形にならない思いを留めておきたい、という気持ち。
梛自身なら、それは例えば「……が好き」「綺麗」「嫌」と言った物事について感じたことだ。皇后定子や中関白家の人々との輝かしい日々の「楽しかった」「感激した」記憶。
「ああ、そうね……」
そこまで考えた時、梛の中でひょい、と思いつくことがあった。
「書くことで、自分の悲しみを紙の中に埋めてしまった…… それなら判る?」
「ああ、それは」
何となく納得がいく、と松野はうなづいた。
「やはり思いの強い方というのは何にしろ大変ですよね。梛さまご存じですか? 弾正宮さまと和泉守さまの奥方のお噂」
「和泉守の奥方?」
誰だったか、と梛は記憶をひっくり返す。
「和泉式部、と呼ばれている方ですよ。お忘れですか?」
ああ、と梛は手をぽんと打った。
*
和泉式部とは梛のことを「『清原』氏である『少納言』から『清少納言』という」のと同様の呼び名で、「和泉守」の夫と「式部丞」の父親の官職を足したものである。
小さな頃から女童として他家に仕えてきた彼女は明るく美しく生い育ち、そして何よりも歌の才能が際だっていた。
物語に血道を燃やす型ではないので、梛達の仲間には入っていないが、きらりと光る歌を度々作るので、話題に出る女性である。
和泉守の夫との間には娘が一人生まれている。
しかし夫婦の仲は既に冷えていて、現在は冷泉帝の皇子の一人、「弾正宮」為尊親王が通う仲になっている。
弾正宮は現在の東宮のすぐ下の同母弟なのだが、気楽な立場のせいか、血筋なのか、何処かふらふらとした気性だった。
その彼に靡いてしまった辺り、彼女もまた似た様な部分があったのだろうか、兎にも角にも離れられない仲となったのだという。
「恋多き人は大変ね……」
この時の梛にはその程度にしか感想を述べることはできなかった。彼女にとってはそう近しい存在ではなかった。
やがて六月に弾正宮が二十六才という若さで亡くなった時も「ある意味自業自得だわ」とやや冷ややかな視線で見ていた程である。疫病が相変わらず流行している都を、夜な夜な彼女や他の女を求めて通ったからだ、とも囁かれている程なのだから。
「けど突然亡くなられたとなると、やはり悲しみも深いでしょうね」
そう松野に言われれば、はたと梛は考える。
物語書きの香はただただ荒れ狂って書きまくったが、歌詠みの彼女はどうなのだろう、と。だがやはり他人事だ。近しい人々の死よりは。
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