28.「彼はもっと悩むべきです。もっと苦しむべきなんです」

 明けて長保四年。

 前年末に東三条院詮子が亡くなったため、正月の節会せちえはしないことになり、静かな年明けとなった。

 ただ二人の皇子皇女が、戴餅いただきもちいの儀を行った。敦康親王は前年の秋に魚味始まなはじめを。冬には袴着の儀をも行っている。

 この時の場所は中宮彰子の藤壺であった。彼女が敦康親王の母代ははしろになることは、この辺りから周囲に明らかになってきた。

 梛は定子の形見の親王が道長によって保護される状況にあることに半分ほっとし、半分は利用される可能性もあることを危ぶんだ。

 だが自分にできることがさしてある訳でもない。ただ遠くから状況を眺めるだけだ。

 それでも梛は忙しく毎日を過ごしている。文章のまとめに、日々の生活に、そして香からの文に。


「梛さま、本当に今度ばかりは、紙の大切さを思い知りました。とにかく幾らあっても足りないのです。

 ですので今回から私の文は、そちらの御返事がある時にお返しくださるとありがたいです。実は今まで人様からいただいた御文も全て反古代わりに覚え書きに使ってしまったのです」


 まずは昨年の反省とばかりにこの様な文が送られてきて、梛は呆れた。確かに紙が足りない紙が足りない、と言いまくっていただけある。

 無論その反古代わりにした中に、自分からのものもあるのだろうな、と梛は思い、多少胸の中でもやもやするものはある。

 だが、覚え書き代わりに使われたのなら、今回の草子には使われなかったろう。捨てられたとしても、他人の手には渡らない。

 とりあえず梛はその程度で自分の気持ちを鎮めることにした。野依の話による香の様子では、もっとひどいことが行われていてもおかしくはないのだ。

 彼女はこう続けていた。


「特に『葵』を書いている時には大変でした。葵祭りの様子を思い出して書くんですが、自分がこんなに覚えていないのか、と幾度歯ぎしりしたことでしょう。

 何度も行ったことがあるのに、結局自分の為にしか見ていないものですから、他の女房がどう見たか、とかお忍びの車のことなどよく判らないのです。悔しくて悔しくてたまらなかったです。

 それ以外にもあれこれあったのです。

 何しろ光君は紫の君のところにも左大臣家にも御息所のところにも、そして藤壺にも思いをかけているのですから、その誰の話もちなんだ行事も気持ちも書かなくてはなりません。いえ、書きたいのです。いえいえ違います。私の中から出てくるんです。

 私の身体の中から光君や紫の君や、藤壺宮や、そうそう、年老いた典侍、あの話なんか、無くても良いのに、私の中から出してくれ出してくれ、と叫んできたのです。あの殆ど白くなった髪の女! 琵琶の名手で趣味も高いのだけど、無闇に好色なあの女! それが光君と絡みたい絡みたいと私の中で叫ぶのですよ! 

 一気に書きました。余分なことも沢山沢山私、書き付けました。とにかく出しました。要らないところは後で消してしまえばいい、と思いました。とにかく出さなくてはならない、と思いました。出してしまわないと、私の頭がどうかしてしまうと」


 既にどうかしている様な気は梛もしていた。だがこの手紙を読むと、どうやらその予感は本物の様だ。

 梛はそういう書き方はしない。思いついた物事を、思い出した風景を文章に組み立てる。ぽんぽんと思いつくまま、ふらふらと手の動くままということもあるが、基本的には冷静だ。香の様に激情に流されてということはない。


「朱雀院への行幸の際に源氏が舞う姿を描いている時には、目の前に紅葉がひらひらと舞っていました。浮かんでくるのです。明るい秋の日射しの中、舞い落ちて来る紅葉が。源氏の君がさっと腕を上げる度にひらひらと様々な赤の彩りが広がりました。

 右大臣の六の君と逢う場面を書いていた時には、延々花びらが降り注いでいました。私はその場面を描いている時本当に幸せだったのです。

 おかげで夫の亡くなった時のどうしようも無い気持ちも治まりました……」


 そして三巻の物語が出来上がった。

 元本は皆慌てて写されて戻ってきた。三巻まとめてだったことから、感想の量も大変なものだった。


「続きもどんどん進めています。これからが源氏の苦難です。

 正直、ぞくぞくしながら書き進めています。あの源氏が! 光君と呼ばれてちやほやされて好き勝手やってきた彼が、ちょっとしたことを機に、追い込まれていくのです。

 彼はもっと悩むべきです。もっと苦しむべきなんです。

 梛さま、さて読んでくださる皆様は、どう思われるでしょうか?」


 梛はその下りを読んで、少々ぞっとした。

 物語好きの仲間に回覧して、感想を求めること。

 自分がけしかけたことではあったが、何か考えていたことと違った方向に彼女が変わってきつつある様に梛は思った。


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