第11話 逃走劇、出会い

『――――、――――』


 声が、聞こえたような気がした。

 木洩れ日が揺れていた。山肌を添うように流れる風が落葉を巻き上げていた。


 そこだけを切り取れば、穏やかな日常を切り取った絵画のように輝いて見えた。

 道なき道を駆け、跳び、時には潜る。そしてまた走る。ただただ逃げるという行為。

 その合間。ふと目に入る森の景色は、懐郷の念のようなものを抱させた。


「はぁ――――はぁ――――っ!」


 ――どれほど走ったのか。


 湧き上がったその疑問は、もう何度も受け流してきたものだ。アルはもう深く考えるのを止めていた。おそらくは自分が体感から導き出すより、実際の時間は経過していないのだろう、と分かりきっていたからだ。


 何より、アルの背後には異様な存在感が絶えることなく張り付いている。


 それは逃走劇が目論見通り成功している証拠である。同時に、それに張り付かれている限りはどれだけ走っていようとも、足を止めてはいけない理由でもあり、集中するために無駄な思考を切り捨てるに足る理由だった。


 結局のところ、アルに許されているのは無心で走り続けること――逃げ続けることだけだ。転ぶことさえも許されないそれは、ほとんど走りながら命綱無しの綱渡りをしているようなものだった。


 だが、それを選択したのもまた、アル自身である。故に、不平も不満も抱いてはいない。アルが抱くのは、絶えず付き纏う莫大な恐怖と、自分にできることを最大限実行するという義務感であった。


 そうしてただひたすらに走るアルであったが、向かう方向こそ決めてはいても、具体的な目的地を定めてはいなかった。

 まず、単純にどこを目指すべきか定まっていないというのがその大きな理由だった。


 ロッサムから北の山は広大で、そして深い森に覆われている。それは単に、山が単一の巨大な山として存在しているのではなく、複数の山が連なり山脈を成して広がっているからである。そのため、山肌は起伏に富み、奥に行けば行くほど、複雑になっていく。


 アルが向かっていたのは、その奥側――つまり、ロッサムとは真反対に当たる深い山奥だった。


 人に災いを成すことが容易に想像できる、アルを追い続けるこの魔獣を町から引き離すには、人の寄り付くこともない山奥へ向かうのが正解だと考えたからだ。そして深く入り組んだ山中であれば、魔獣を撒くことが可能ではないかと希望的観測を抱いたからであった。

 そのような、危険な橋を渡るかのごとき逃走劇であったが、成立こそはしていても、順調に進んでいるわけではなかった。


「――――こ、のっ!」


 そうした森の深奥でも、数こそ多くはなかったが魔物は出現していた。


 魔物は、激しく走る音を立て、姿を隠そうとしないアルを見つけると、即座に向かってくる。

 だがアルに、それらを相手する精神的余裕も時間的余裕もない。森が作り出す自然の障害アスレチックを超えるときと同じように跳んでは駆け抜け、無造作に突撃してくる攻撃を避け、時には頭上の木の枝に掴まり魔物の頭の上を超えたりと、それらを躱していく。


 それでも魔物は標的を追おうとするが、アルの後ろには別のものが追従している。アルには振り返って確かめる余裕がなかったが、激しく木々をなぎ倒しながらも追跡してくるそれが、進行上に湧いて出てきた小さな障害物を気にすることなどないだろうと、容易に予想できた。


「――はぁ――はぁ! 次、は――!」


 アルがこうした逃走劇を成立させているのは、地道な努力によって鍛えられたアルの筋力や体力、それをサポートしてくれているセレナの身体強化の魔法、そしてこの深い森においても地理を把握している土地勘があってこそである。


 だが、それ以上にアルは、不思議な感覚を感じていた。


 次にどう動けばいいのか、後ろの魔獣がどのように追ってきているのか、魔物がどこから現れてくるのか、それらを理解と予測できているような感覚である。


 アルは今、異様ともいえる集中力を発している。それは間違いないことだ。その集中力が、自身に取るべき行動を予測させている。そうも考えられた。しかし、それだけではないような気がしていた。


『――――、――――』


 まるで、自分ではない誰かが、取るべき行動を教えてくれている。


 そう思えてしまうほどに、アルの頭に湧いてくる直感を超えた理解と予測は、まるで天啓が如く突然に振ってきていたのだからだ。


 しかし、そうして奇跡的に成立している逃走劇ではあっても、綱渡り状態であることには変わりない。一瞬の気の緩みや、ほんの些細なミスで全てが瓦解する。それ故に、アルは集中力を最大限に発揮し、あらゆることに目を向け耳を傾け――声なき声すらも拾っているのだ。


 だがそれでも。


 それは、死神が鎌を引っかけるかの如くやってくる。


「――――瘴、気ッ!」


 前方で突然瘴気の霧が吹きだした。


 それ自体は問題ない、とアルは即座に判断する。避けようのない位置であったが、前にもしたように息を止め、口を塞いで素早く突き抜ければ結果的に回避できる。視界も悪く、魔物が襲ってくる可能性は既に経験済みだ。注意を向けていれば、対処はできる。


 半ば強引な理屈ではあったが、そうした発想こそが今のアルの状況を支えていた。

 アルは下した判断に躊躇することなく、それを実行した。


「――え」


 踏み入れた瞬間、閉ざすべきであることも忘れて、声が漏れた。


 まるで、何かが抜け落ちてしまったような感覚……。いや、それは曖昧な何か、ではない。先程まで、アルを手助けしてくれていた、声なき声が途絶えたのだ。


 失われたことで、アルは逆説的にそれが存在していたことを知覚した。そして、それは自分が思っていた以上に、助力をしてくれていたことを理解した。瘴気の霧に潜り込んだのは自分のはずなのに、アルは見えざる手によって闇の中に放り込まれたように錯覚するほどだった。


 一瞬の戸惑い。


 僅かな油断すら致命的なこの状況において、まさしくそれは悪手だった。


 瓦解を誘発するには十分すぎた。


「――う、わあああっ!?」


 踏み込んだ足が取られた。アルは瘴気の霧の中で、僅かにバランスを崩す。遅れてアルは理由に気づく。単純な見落とし。地面にできていた、瘴気溜まりである泥を踏み抜いてしまったのだ。


 それでも、アルは一呼吸置くと、踏ん張り態勢を整えた。同じような失敗をするわけにはいかない。アルは再び駆け出そうとする。しかし、遅かった。態勢を整えるために使った一呼吸。それこそが、最も余分なものだった。


「があっ――――っ!?」


 次の瞬間、アルは背中に強い衝撃を受け、吹き飛んだ。


 魔獣はひたすら狩りをするかの如く狙っていたのだ。そして見逃しはしなかった。アルが気を緩める、ほんの一瞬を。


 飛び掛かりながら前足を振るって薙ぎ払ったのだろう。アルと共に周囲の地面が抉れて、四方に爆発したかのように飛び散っていた。


「――――ぐあっ……つぅああぁ……」


 吹き飛ばされたアルは転がり、木に体をぶつけて止まった。背中からの衝突こそは避けられたものの、代わりに腹部をぶつけてしまっていた。自分の内臓が震えているのを実感した。呼吸が止まりそうになっている。痛みも尋常ではない。肋骨が何本かは折れているかもしれないという自覚があった。意識は飛びそうで、視界は明滅している。


「ああ……がぁあっ」


 その状態でありながら、アルは体をよじる。ここで止まってしまえば、待っているのは『死』しかない。加えて言うならば、この時間稼ぎそのものがまだ不十分であれば、その『死』は自分以外にも降りかかる。それだけは、避けなければならない。逃走劇をまだ継続しなければならない。アルはふらつきながらも、木を背にして立ち上がった。


「オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛――――ッ」


 だが、それは無駄だと、ようやく対峙した魔獣は吠えた。明確な威嚇行為。追い詰めた相手に対し、自らの優位性を示すよう、吠えるかの如きものだった。


 かくして、アルにその威嚇は強い効果を示した。


 泥を丸めただけのように歪で虚ろな、顔のない顔にアルは再度恐怖を認識する。あの魔獣に表情などない。だがそこに在るのは、『破壊』と『死』だと理解できる。不確かでありながら確からしいもの。表情という見えるものを持たないかからこそ、それは猶更恐怖を募らせるに足るものだった。


 魔獣は離れた場所で、アルを捉えていた。否、アルはその視界と間合いに囚われている。多少離れた程度の距離など無意味なのだ。逃走劇の最中、すぐに襲い掛かってこなかったのは、確実に仕留める機会を狙っていたことと、小癪にもアルが魔獣に対して攻撃を行ったという実績があったからであった。


「――こ、の――まま、じゃあ――」


 恐怖心に縛られながらも、魔獣を見据える。足に力を入れる。逃げ続けることが唯一の手段なのは、変わりない。魔獣を正面から捉えたことこそ、その隙を僅かでも探ろうという意思の表れであった。


『――、――――、――――』


 ふと。


 背筋に何かが通されるような感覚が走った。ぴり、と痺れるようなそれは、アルに数回瞬きを起こさせた。それは一瞬で、次には失っていた感覚――誰かの声が聞こえるような感覚が甦っていた。


『――、――』


 一度失ったからか、それが戻ってきたことを、アルは明確に掴んでいた。認識をしてしまえば、それは次第に輪郭を増していく。明瞭になっていく。そして――


『――――、――、な―! 右―跳んで!」


 はっきりとした声として、アルの耳に届いていた。


「――ッ!?」


 アルは考えなかった。聞こえた声に従い、全力で右側に飛び退いた。


 瞬間。アルのいた場所を、魔獣の黒い右腕が叩き潰していた。地面に転がると同時に衝撃が伝わってくる。そのまま更に地面を滑る。


「――その持ってるマナの塊を投げて! あいつの顔の左側!」


 再び聞こえた声に、疑問を挟む余地はない。アルはレインから手渡されたままのマナ結晶を取り出し、膝立ちの状態で投擲する。


(顔の左側……もしかして、俺が一度投げつけた場所……?)


 マナ結晶が着弾する直前に、アルはそう思い至る。しかしそれ以上推考する余裕はない。誰かの声の指示を待たずとも、それは理解できた。


「あそこだけ、マナのめぐりが残ってる。だから、衝撃を与えればマナが黒いマナに広がるはず。すぐには元通りにならないはずだよ。だから逃げるなら今だよ! 急いで!」


 その言葉を示すように、魔獣は変わらぬ敵意と殺意を見せつけながらも、動きは止まっているようだった。きっと、言われなければ気づかないほどのものだ。だからこそ、アルはその指示を更に信じることにした。


 体は魔獣の攻撃を受けた痛みと転がった衝撃で痺れつつあった。それでも気力でもって動かすと、再度走り出した。


「あいつの左側……って、こっちからだと右っかわ! そっちは反応が遅れるはずだよ!」

 指示の通り、転がった方向へそのまま、アルは進む。


 腹部が熱を持って痛む。それでも、アルはこれまでと遜色ない速度で走った。


「じゃあ、そのまま走って、大きな木を目印にして右。そっちがマナが濃くなってる。ぼくの言う通りに逃げれば、だいじょうぶだよ。あいつは体は大きいけど、感じ取る力はあんまりないみたいだからね。ぼくにかかれば、逃げ切るなんて簡単だよ」


 アルの耳に――いや、改めて感じ取れば、それは頭に直接響いているような声だった――届いてくる声が、得意げに言った。今となっては、はっきりと認識できる。それは、幼さを残したような女の子の声だった。


「――っていうか、ほんとにぼくの声、聞こえてるんだよね? ……ね?」


 指示通りにひたすら走るアルに向かって、彼女はちょっとだけ不安そうに、そう言っていた。

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