第10話 選択
『死』
形而上その概念を具象化したとするなら、それはこのような形を持っていただろう。
それほどに、濃い瘴気の霧から生まれた巨大な魔物――魔獣には、目に捉えただけで吐き気をもよおす程の濃い『死』の匂いが漂っていた。
決してそれは概念、感覚のみの話ではない。
魔獣の周囲に広がるのは、光すら取り込んでしまいそうに深い漆黒をした泥の湖。山肌に広がる木々や台地を見る見る間に飲み込み、その規模を拡大していた。
それだけではない。全てを飲み込んだ泥は、まるでそれらを消化吸収するように脈動すると、溶岩が泡を立て蒸気を吐き出すかの如く、内側から大量の瘴気を放出していた。
瘴気は周囲へと広がると泥の届かない中空を汚染する。濃くなった瘴気はそのまま体の上に堆積するようにして、魔獣の体を構築する泥へと姿を変えていく。そしてまた、魔獣は体から泥を惜しげもなく垂れ流し、その泥の湖の拡大をさらに加速させていく。
悪質なまでの循環。
生が消費され、残されるのは死のみ。
明確なまでの死を撒き散らす災厄。
「――アル、下がって」
魔獣に対し、アルは恐怖せざるを得なかった。アルは元来怖がりであり、臆病だと自他共に認めるほどである。それは、死の匂いに敏感であり、極端に恐れるが故のものである。
そのアルにとって目の前に現れた魔獣は、そうした感覚をも超越するものであった。動物的本能が、忌避感を覚えるものである。生物としてアレに触れてはいけないと、命そのものが警鐘を鳴らしていた。
もちろん、生理的嫌悪を抱いていたのは、アルだけではない。この場にいた、人間であるもの全てが、同じ感情を抱かざるを得なかった。
これが一般人であれば、腰を抜かし、涙を流し――いや、あまりにも理解の外にあるそれに、思考と生を即座に放棄していただろう。
しかし、この場にいた大半は、少なからず魔物に耐性を持つ冒険者と調査員であり、それらに比べると比較的冷静に状況を受け止めることができていた。
もっとも、この場において誰よりも冷静だったのは、一般人に分類されるシィであった。
彼女は即座に、かつ静かにアルに寄ってくると、その腕を引いて下がらせた。強大すぎる相手に対し対処が想像できない中、まず距離を取ることを優先させたのだ。それを見て、他もそれぞれに距離を取ろうと後ずさりをする。
そして、そんなシィとは別の意味で冷静さを残していたのは、他でもない彼女に腕を引かれるアルだった。
アルの心理を支配するのは、紛れもなく恐怖という感情だった。それを示すように、アルの手は震え、肌は粟立ち、喉は締め付けられているかのように苦しく、足には力も入らず、心臓は魔獣の威圧感だけで止まりそうになっている。もう少しでも緊張を保てなくなれば、失禁すらしてしまいそうであった。
そうした中でも、アルが最後まで手放さなかったのはその思考だった。
(大きすぎる……。普通に戦っても、シィやクロードさんでも手も足も出ない。そもそも泥に踏み入れること自体が危険だ。なら魔法? セレナさんやレインさんに期待? いや、セレナさんは魔法は簡単なものしか使えないと言っていたし、レインさんは怪我をしている。半端な魔法を与えて怒らせてしまえば状況が悪化しかねない。なら、マナ結晶――いや、それも威嚇程度にしか使えない。ここで考えないといけないのは何だ。考えろ。考えろ考えろ。あれを倒すこと? それは不可能だ。逃げるしかない。それなら、被害を出さないようにするのを最優先にするしかない。それに、町にアレを下ろしてしまえば、もっと被害は増える。セレナさんは騎士団に要請をしたと言っていた。だけど、まだいるはずがない。だったら、どうすればいい。どうすればいい。考えろ。考えろ)
目に収めるだけでも恐ろしい魔獣をまっすぐに見据え、どうすれば全員が生き残ることができるのか、町に被害を出さないで済むのかを高密度で思考し続ける。
しかし、それはあくまでもアルの内面で行われているものである。端から見れば、恐るべき魔獣を前に茫然自失となっているようにしか見えないだろう。アルという人物をそれなりに知っているものでも、魔獣の恐怖に食われてしまったのだと思ってしまうような状況だ。
「アル。落ち着いて。隙を見て、逃げよう」
そして、アルを誰よりもよく知るシィですらも、異様すぎる魔獣を前にそう告げてくるだけだった。彼女が冷静さを保っていたのは事実だったが、それはあくまでも比較的という、相対的な評価でしかなかった。少なからず、シィが普段の冷静さからは離れていると、アルにも感じ取ることができていた。
(――こうするしか、ない)
もし、シィが普段通りであれば、アルがこれから何をしようとしているのか、それに気づくことができただろう。だからこそ、それを理解し、それを利用する。自らが思い描いた選択が最善だと決断する。
「シィ」
囁くように、絞り出すように呼びかける。
その声色で何かを感じ取ったのか、シィはびくりと肩をはねた。
アルは反応を待たない。次に彼女が言う言葉は予想が付くからだ。ここで、押し問答をする余裕はないのだ。
「レインさんを頼んだ」
振り向いたシィの、黒曜石のような瞳が開かれる。
ああ、やっぱり君はすごい。たったこれだけで理解してくれる。
アルは自分を下がらせたシィの腕を力任せに引いて、その位置を入れ替えた。
「――あ」
もう後には引けない。でも、後悔はない。これが最善だ。みんなが生き残れる最大の目だ。
言い聞かせる。
既に決意は胸にある。それでも、そうしないと恐怖がそれを上回りそうだったからだ。
「アル!!」
シィが後ろで叫んだ。アルはそれを着火点にする。
「うおおおおおおおおおおおおお!」
叫ぶ。一歩強く、震える足を大きく踏み込む。
全ての視線がアルに向く。身体の構築を優先させていた魔獣も、向けられた敵対心に警戒を示す。その表れは、踏み出した前足と、虚ろな空洞のような口を開いて咆哮を放とうとすることだった。
(予想、できていた!)
そこへ、アルは踏み込んだ勢いを乗せ、手に握りこんでいたもの――レインから受け取ったマナ結晶を、強く魔獣へ向けて投擲した。
即座に着弾したマナ結晶は、魔獣の顔で炸裂し炎を巻き上げると、周囲に衝撃と熱量を放った。決して高い威力ではない。魔獣の周囲に漂っていた瘴気と、それによって生じた肌に堆積していく泥を僅かに焼き飛ばした程度である。だが、魔獣が更に警戒を強めるには、最適だった。魔獣は放とうとしていた咆哮を飲み込み、代わりに頭を低くした。
(それも――予想済み、だ)
アルはそれにも関わらず、踏み込んだ勢いをそのまま利用するかのように跳び出した。一歩、二歩。まるでシィが駆けるかのように、アルもまた地面の上を駆けていく。
心の中の言葉を持って、アルは自分を肯定する。
(セレナさんにかけて貰った強化魔法はまだ残っている!)
それを示すように、その速度は、普通の人間が出し得るものを超えていた。鍛えている人間が強化魔法を受けると、よりそれを活かすことができる。セレナが語った言葉をアルは実践したのだ。
アルは駆けながら魔獣の右側面を見据える。そこには魔獣が垂れ流す泥が広がっている。だが、ぽつりと、未だ飲み込まれていない木が残されているのをアルは捉えていたのだ。アルは真っ直ぐに駆け、泥の直前で跳ぶと、その木に着地した。
魔獣が頭を向け、アルを見る。アルもまた、確認をしなかったがそれを感じ取っていた。だから、止まることなく、もう一度前に大きく跳んだ。そこに着地できる地面はない。だから、跳ぶと同時に、着地する場所へとマナ結晶を投げつける。泥に着弾したマナ結晶は、魔獣の顔で炸裂したときと同じように、炎と衝撃を巻き上げる。アルがそこへ着地すると、地面から巻き上がる熱を感じた。それは泥が焼き消されたことを示していた。アルは更に、前へと跳び出した。その先には泥は広がっていなかった。だから、僅かに余裕が生まれる。アルはそれを活かし、ほんの一瞬だけ背後を確認した。魔獣の顔が自分を見ている。それで十分だった。そこへ、もう一度マナ結晶を放り投げた。
何度目かの爆発が起きる。そして、ようやく魔獣が咆哮を上げた。
「オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛!!」
「――――――――!!」
アルはそれを受けて体が痺れるような感覚を覚えた。背後に地面が響く音も聞いた。魔獣が自分に狙いを定めたのだと、知覚する。だから、恐怖が心臓を鷲掴みにしてきていても、アルは足を止めなかった。既に意識は切り替えていた。他のすべてを考える必要もなく、走ることだけを実行すればいいと。それが何よりも、全員が助かる道になる。
こうして、アルの逃走劇は幕を開けた。
◆
シィがアルの取るであろう行動に気づいたのは、まさしくアルの想像と同じく、レインのことを告げられた瞬間であった。
だが、それでは遅かった。シィは流れるように動くアルを見ながら、後悔の念に押しつぶされていた。アルを止めるには、それより早く気づくしかなかった。堰を切られて溢れだす水は、人の手では止められないのだから。
「ぁ――――アル!」
遠ざかる背中に、シィは手を伸ばし叫ぶ。それがもう届かないことを知りながら、そうすることしかできない。
――いや。違う。
最も危険なのは、ここでアルを一人にすることだ。ならば、自分も追うべきなのではないか。そう考えるが早く、シィは身を屈めようとした。走るために、勢いをつけるためだ。シィもまた、思考から行動までが短かった。
だが、それは横から伸びてきた手によって妨げられた。
「シィちゃん! 今のうちに逃げるぞ!」
クロードはシィの肩を掴むと、叫ぶように言う。見れば、クロードとセレナも、シィたちの周りに集まってきていた。
「グレアー! お前はレインを担げ! 邪魔になりそうなものは全部置いていけ!」
指示を受け、グレアーがレインの前に潜り込む。彼らは緊迫感と焦り、そして抜けきれない混乱を携えながらも的確に離脱の準備を進めているようだった。
――逃げる?
それを見て、シィの脳裏に純粋な疑問が沸いた。
――アルを置いて、自分だけ逃げる?
それは、怒りの感情にも似ていた。
――アルを一人にしては置けない。
シィはクロードの手を払い除けようと、その大きな腕を掴んだ。だが、逆にその腕を掴まれ、引き上げられる。
「シィちゃん。お前がアルを追いたいのは分かる! だがな! それはアルの覚悟を無視することにもなる!」
そして引き寄せられ、顔を近づけられたうえで、クロードが叫んだ。
「全員であれから逃げるのは無理だった! だから、どうにかして誰かが注意を引く必要があった! そいつが狙われることになるのは分かってたから、俺は何も言えなかった! それをあいつは――アルは察した!」
「だ、からって――」
「見殺しにするわけじゃねえ! あいつもそこは織り込み済みだ! 自分が適任だと理解したから動いた! あいつは臆病だが死にたがりじゃねえ! 誰よりも死ぬのを怖がってる! 俺らがあいつを信頼してるのはそこだ! 土地勘がある自分なら逃げ切れると判断したから囮になった! お前もそれは分かるだろ!」
「そ、れ……は――」
感情が逆立つシィも、反論できるはずがなかった。理解できる。あの少年を誰よりも知るのが自分だという自負があるからこそ、それを理解できてしまう。
全てはクロードの言う通りだ。彼が勝算があって動いたのは、間違いない。それが限りなくゼロに近いとしても、ゼロではない。掴めるだけの可能性があると信じたのは――そして、客観的に見ても、信じさせるに足ると思ったのは間違いない。
この場において、アルの選択は正しかった。それは、今こうして議論を交わす余裕があることが示してしまっている。
シィは臍を噛まずにはいられなかった。
正しいこと、筋が通っていること、現に助けられていること、全てを理解したうえで、それでも彼を一人にすべきではないと、胸の奥にあるものが確信を持って叫び続けていたからだ。
「いいか。シィちゃん。今俺たちにできるのは、あいつの意図を無駄にしないよう、ここから素早く引くことだ。だが、逃げるわけじゃない。町に戻って、衛兵なり騎士団なり、あれを倒せるだけの戦力を連れて戻ってくる。態勢を整えることが大事だ。俺だって、あいつを放っておけはしない。急いで戻ればいい」
「――…………」
「よし。話は終わりだ。シィちゃん、急いで出るぞ。周囲に魔物が見えない今がチャンスだ。眼鏡の姉ちゃんもいいか?」
「あっ、はい。大丈夫です」
反論できずにいたシィの沈黙を肯定と受け取って、クロードは足早に動き出した。シィは一瞬だけ逡巡するが、それにも構わず進んでいくクロード達を見て、自分も動き始めた。
「――アル」
最後に、アルが去って行った方角に向け、そう呟いて。
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