第6話 変わるもの、変わらないもの

 息が、詰まる。


 否、止まりそうになる。


 四肢を縛るのは緊迫感という名の暴力だ。


 それを振りかざすのは、獰悪で、狂猛に命を食い殺さんとする悪意だ。


 ――ひとつでも間違えれば、命を失う。


 あまりにも明確に提示される、乱暴な結論。


 目を逸らしたくなる。呼吸を止めてしまいたくなる。


 でも、それは許されない。


 一分一秒で、状況は変わる。


 それを見極め、最適なタイミングを選択し、進む。


 そうしなければ、何もできぬまま死ぬ他ない。


 ――死にたくなんかない。


「――――――は、ぁ」


 自らへ言い聞かせるのは死の恐れを上書きする呪文。


 縛り付けるは己が神経。


 切り離すは感情と理性。


 握り込むは五感の全て。


 失敗は許されない。考え得る限りの細部へ注意を払う。些細なことでも見逃せない。見逃さない。見逃してはいけない。相手は、見逃してはくれない。


 限度を超える集中。


 息が――肺が――胸が――潰れそうなほどに、痛む。


 ――死にたくない。


 少年は――アルは、シンプルな願いを胸の内でひたすらに叫んでいた。


「――――ふ――――はっ――」


 浅く、短い呼吸が漏れる。その音すらも煩わしく、手で口を塞ぐ。血の匂いがする。握り締めていた掌が掴んでいたのは自らの血だった。


 どうしてこうなった。


 後悔と八つ当たりを検証する余裕なんて、ない。

 分かり切っていることを、乗り越える他に道はない。


 そう理解していながら、アルは息を抑え、身を潜め、気配を殺しながら思考する。


 クロード達と別れたのは、つい先ほどの話だ。


 そこから、アルは山道を走った。目の前で自分の命を奪いかねない存在を目の当たりにした。それを知って、理解させられて、悠長にできるほどの胆力も実力も持ち合わせてはいなかった。ただできるのは、一刻も早く町に戻ること、それだけだった。


 そう。

 それだけだった、はずなのだ。

 それなのに。


 既に山の気配は変わりつつあった。


 クロードの忠告は、これ以上ないほどに正しかった。

 それは、まさしく現在進行形で行われていた。


 アルが知識と経験を持って安全と判断し、実際に冒険者を導いた道程は、その復路で様相を一変させていたのだ。


 地面と木の根、はたまたその上に伸びる樹木を腐らせるよう黒く変色させるのは、霧のように広がる禍々しい瘴気。


 生を寄せ付けようとしないそれらの中を我が物顔で闊歩するのは、瘴気から生まれた醜悪な存在である魔物。


 一つ存在するだけで、アルは胸を鷲掴みにされたように、恐怖に体を支配されてしまう。


 しかし。

 アルを待ち受けていたのは、無数の悪意だった。


 無数。それがどうしようもないほどに正しいと、アルは周囲の警戒に視線を巡らせ、何度も痛感する。


 瘴気の発生は、どこに目を向けても視界に入ってくるほどだった。魔物の数も、そこから生まれてくる以上、数も比例する。目視で数えられるだけでも、十は軽く超えているようだった。山を埋める木々ほどは多くはない。しかし、この勢いで増えていくのであれば、それすらも超えかねないと連想してしまうほどだった。


「――――は、は――――ぅ」


 魔物はそれぞれで動き、別段統制が取れているわけではない。故に、必ず注意の空白地点というのは生まれてくる。


 アルはその隙間を狙い、身を潜めていた木の陰から飛び出し、音を殺すように駆ける。素早く別の茂みに潜る様にして、再び身を隠すと、ようやく息を吐く。


 ひたすらにこの繰り返し。足を踏み外せば谷底へ落ちるかのような、綱渡りの反復作業。一つ息を吐くたびに、自分の命そのものを擦り減らしているかのような感覚。


 周囲は薄暗い。

 元より深い森の中であり、差し込む光量も決して多くはない。そのため、時間の大まかな確認が難しい場所であった。だが、それを差し置いても、アルは最早、時間の感覚を失っていた。一秒は一時間ほどに感じ、はたまた一分は一日ほどにも感じている。こうして息を潜め、気配を殺して隠れ続けていれば、夜を超え、朝になってしまうのではないかと思ってしまうほどだった。


 そうした理由の一つに、復路が完全に変わってしまったというのも挙げられた。発生した瘴気や魔物を避けるため迂回し、時には引き返し、そして進み――と、状況に応じて進んだ結果、想定など意味がないほどに時間を消費していたからである。


 しかしながら、そうした状況においても、アルが山道に迷うということはなかった。混乱と緊張の渦中にあって、アルは自分の積み重ねた知識や経験が羅針盤となっていた。進むべき道のりを、遅々たるものではあったが、適切に選び抜いていた。


 着実に、アルの帰るべき場所――ロッサムへと、近づいてはいた。


「――――ふ、う、ぅ――」


 正面のそれを見つけたアルは、溢れそうになる吐息を細く、長くすることで冷静さを保とうとした。


 濃く、広い瘴気。

 それはまるで、霧だ。


 冬を超え、春になった森が早朝に霧を生むことがある。穏やかな朝の光を受け、ふわりと白く広がるそれは、非常に幻想的だ。


 しかし。ここにあるそれは、それとは真逆の不気味さがあった。


 アルが進もうとしていた前方の視界八割が、黒く霧のようになった瘴気によって埋められていた。ただでさえ薄暗い森の景観は、闇に落ちたように暗く、そしてそれらに染められる木々や地面もまた、漆黒に塗られつつある。もはやそこは、アルの知る森の景色ではなかった。


「は、ぁ――――」


 考えろ。


 アルは息を吐きながら、自分を叱咤する。

 歩みを止めることは許されない。何もかもが手探りなこの状況で、それだけは確かなのだから。


「――――――――」


 アルはこれまでのように、姿を隠しながら周囲の確認をする。


 前方には巨大な瘴気の霧。それは今もなお、ゆっくりと広がりつつあるようで、アルまでの距離は次第に詰められつつあった。また、それは左右に対しても同様であるようだった。つまり、壁のように立ち塞がっていることになる。詰め寄られてくる以上、迂回するのは難しそうに感じる。


 そして背後。

 そこはアルが進んできた道ではあるが、決して安全ではない。身を隠しながら移動しなければならなかった場所なのだ。実際、振り返って見れば、蠢く黒い影――魔物の姿は確認できてしまう。もし戻るのであれば、これまでと同じように時間をかけて隠れながら進むしかないだろう。


 だが、そうなれば背後から瘴気がじわじわと追い詰めてくる。追いつかれてしまえば、手詰まりだ。時間を度外視もして安全を買いつけてきたアルにとって、噛み合わせが悪いとしか言えなかった。


 ならば――。


「は、ぁ――――く、そ――」


 最早忘れかけていた、言葉らしい言葉をようやくアルは口にした。

 それはつまり、これまで封じていたものの解除であり、覚悟を決める一言でもあった。


 選択肢はない。

 正面から突っ切る。


 生物に害をなす瘴気。触れれば肌を焼きこそすれ、すぐに肌を腐らせるなどの即効性はない。吸い込んでしまうことに注意さえすれば、多少の時間は中に入ることもできる。迂回も後退もままならない状況では、それを決断せざるを得ない。


 アルは大きく息を吸った。可能な限りの空気を、肺の中に貯め込んでいく。


 ――この瘴気が、どれだけ広がっているか。


 それだけが賭けだ。


 脚に力を入れる。正面を見据える。このまま進めば、帰るべき場所ロッサムはもうすぐだ。少なくとも、見通しのいい街道まではすぐに辿り着ける。


「――――行くぞ、俺」


 吸い込んだ息を漏らさないよう、小さく、限りなく小さく、アルは囁いて自分を鼓舞した。


 そして――音を立てることも厭わず、飛び出した。


 振り返らない。背後の魔物が気づいたかもしれない。だが、その余裕は存在しない。


 一息で、瘴気の霧にアルは辿り着いた。アルは口を袖で覆い、そのまま飛び込む。


「が――――ぁっ!」


 生物の存在できる場所ではない。それを示すように、体全体から焼けつくような痛みが走る。本能で感じる。ここは危険だ。ここには居るべきではない。頭の中の警鐘は鳴り続けている。それでも、もうベットはしてしまったのだ。後戻りができるわけがない。


 アルは駆ける。視界はままならない。記憶も当てにならない。木の配置なども分かるわけがなく、遠慮なく体をぶつけてゆく。どうにか転ばないよう、足を踏ん張り、再び前に進む。体が焼けるように痛い。覆っていても吸い込んだのか、喉も焼けるような痛みを感じている。汗をかいているのか、乾燥しているのか、それすらももう分からない。これまで以上に一瞬が長く感じられる。意識も焼けついていく。思考がままならない。前に進まなければならない。ただそれだけを考える。ただひたすらに、がむしゃらに、手探りで、前を目指す。きっと、もう少し。もう少しで、帰れるのだから――


 瞬間、アルは何かに足を取られた。

 アルは引っ張られるように、その場に倒れた。


 心の警鐘が叫びを上げる。


 落ち着け。落ち着け。そう言い聞かせながら、混乱を打ち消すよう、口を覆っていた手を、そのまま噛んだ。自覚的な痛みが、僅かにだけ思考をクリアにする。改めて自分の足元を確かめる。何が、自分の足を取ったのか。


 確認すべきではなかった。最初に感じたのは、後悔と嫌悪感だ。


 アルが踏み抜いた場所。そこには、泥が溜まっていた。黒い瘴気の中で尚黒い、光も吸い込んでしまうかのような漆黒の泥。つまり、瘴気の沈殿によって生まれた泥である。


 それだけならば、まだよかった。そう。それだけならば、アルも足を取られることなど、その場に倒れ伏すことなどなかったのだ。しかし、事実としてアルは何かに足を引かれる様にしてその場に倒れた。つまり、何かが足を掴んだのだ。


 黒い泥の上で、アルの足を掴む何かは蠢いていた。枯れ枝のごとき歪さ。泥から伸びるそれは、節々から泥を垂らしながらも、泥を吸い上げるように、その太さを増しつつあった。それを示すように、脈動し、蠢く。最早、それは生物的な動作ではない。生物が触れていいものではない。


 人ではないもの。瘴気から生まれるもの。


 それは、今まさに生まれ出でんとする、魔物の腕だった。


「あ――ぐっ――――!」


 焼ける。掴まれた部分が熱を持ち、激しい痛みを発する。アルは紛らわせるために噛んでいた手を、更に強く噛んだ。


 早く。振りほどかなければ。


 アルは身をよじって抜け出そうと試みる。だが、まだ姿も出来上がっていない魔物は、不完全ながらも掴んでいるものが獲物であると理解しているのだろう。もがけばもがくほど食い込む狩猟罠のように、込める力を強くしてくる。


「ま、ず――――っ」


 アルは唇を噛む。それはこの場に足を踏み入れた後悔からではない。口を押さえていた手を離したからだ。足は掴まれていても、それ以外はまだ十全に動く。それなら――


「こぉ、の!」


 アルは素早く腰の剣を引き抜くと、躊躇なく振り下ろした。


 手に伝わってくるのは、ほとんど土の感触だった。手応えのなさに、アルはもう一度力任せに振り上げる。だが、そこでアルは自分の足が動かせることに気づいた。どうにか魔物の腕を両断することには成功していたようだ。


 その判断がされるや否や、アルは剣を杖代わりにして立ち上がると、進むべき方角へ向けて、再び走り出す。


 ここは危険だ。


 魔物が発生し始めている。


 早く出なければ、殺されてしまう。


 分かりきっていたことを、改めてアルは認識する。甘く見ていたつもりはなかった。それでも、ここは想像を超える場所だった。


 だが、アルがそう考えた最中であった。


 肩にものすごい衝撃が走った。突如として振るわれた何かによって、アルの体は吹き飛ばされていた。


「が、ぁ、ああ――っ!」


 予測もできていなかったそれに、受け身が取れるはずもない。アルは緩やかに傾斜する山肌を転がる。


 一体、何が起きたのか。


 痛みと混乱の中で、アルは考えようとした。


「…………あ」


 考えるまでもなかった。


 目の前に現れた、その歪で醜悪な姿に、心臓が軋む。


 ――それは、そうだ。


 遅れて、理解する。


 アルは認識違いをしていた。それも、自分の都合が良いように。


 魔物が発生し始めている。そうではない。この場において、魔物は既に生まれているのだ。


 当然と言えば当然。


 ここに至るまでに、何度となく魔物を目撃してきたのだ。どうして、この瘴気の中でだけ、それがまた不完全だと思っていたのか。


 歯を震わせながら、後悔を噛み締める。


 避けるべきだった魔物と、遭遇してしまった。


 暴力を振るわれた肩が痛む。それは恐怖の呼び水だった。

 だが同時に、アルにとって生を繋ぎ止める証でもあった。


 震える手が、剣を握り直す。切っ先を揺らしながら、剣を魔物へと向けた。


「は――ぁ――、はぁ――」


 瘴気があることを忘れたように、息を吐く。喉が痛みを訴えるが、今はそれでも酸素が欲しかった。


 戦うしかない。

 あの魔物を、打ち倒すしかない。


 剣を向けられた魔物は、跳ね返ってきた敵意に警戒を示したようだった。醜く不揃いな足を僅かに曲げ、隙を見せれば飛びかかれるような態勢でアルを見ていた。


 まるで闇そのもの。虚ろを通り越したその視線に、アルの体がいっそう震えを示した。


 間違えれば、死ぬ。

 これまで以上に、明確に。アルはそれを実感した。


 ――やるしかない。


 アルは足に力を込めた。タイミングを見計らう。即座に頭の中でシミュレートする。立ち上がり、そのままの勢いで斬りかかる。剣術も拙く、手の震えによって普段通りすらままならないアルにできるのはそれしかない。


「う、おおおおおお――!」


 アルは叫んだ。かつて幼かったころに、そうしたように。


 そして、想定したように、飛び出す――


「――ッ!?」


 その刹那であった。


 アルの視界で、何かが弾けた。それは、連鎖するように続けざまに炸裂音を立ていくと、強い光と衝撃を辺りへと巻き散らした。


 アルは膝立ちのまま、咄嗟に目を覆おうとする。だが、それよりも早く光は収まる。残ったのは魔物と自分以外に何もない。


 そう。


 周囲を満たしていた瘴気が消えていた。


 黒く、薄暗かった森が元の景観を僅かに取り戻している。アルは驚かざるを得なかった。それは、魔物も同様だった。


 魔物が僅かな困惑を浮かべ、思考を停止させていた、それは明確な隙だった。そこへ、風を裂く閃光が如きものが直撃した。


 鈍い音が、辺りへと鳴り響く。魔物を構築する泥が弾けるように飛んで、その先で蒸発するようにして消えた。


「――――あ」


 間抜けな声だった。アルはそれを自覚した。


 それほどに、そこに立っていた者の姿は、予想していないものだった。

 それをよそに、その人物――彼女はアルを見下ろして、口を開いた。


「アル。助けに、きた」


 それはまるで、あの日を入れ替えたような光景だった。

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