第5話 予感

 ふいに、作業する手が止まる。視線は揺れ、彷徨う。しかし、辿り着くのは一点。

 向けられるのは、穏やかに晴れ渡る空――それを背中に抱える、町の北に広がる山々。そこに見えるはずもない、誰かの人影を探そうと注視して、目を伏せる。


 こうしたことを、シィは何度も繰り返してしまっていた。


 無意識と、意識的に。何度でも。


 商店の店先を箒で掃くという、簡単な仕事ですらほとんど手に付かない状態であった。


「――――」

 喉の奥には、得体の知れない嫌な予感が居座っていた。それを紛らわせるために、仕事を無理に探しては集中しようと試みたが、全く効果がなかった。時間が経てば経つほど、その感覚はより一層、存在感を増していくようでもあった。


「――アル」


 心配。

 それを浮かべてしまえば、あの優しい少年が困ったような、複雑な表情を見せてしまうのはすぐに想像がついた。それでも、この喉の奥に鎮座する嫌な予感に対しては、そうした気持ちを抱かずにはいられない。


 そんな折であった。


 シィは町の正門から入ってくる馬車を目端に捉えた。普段よく見るような馬車と違うそうの装丁に、シィは注意を向ける。馬車は中央通りをそのまま直進してくると、町のほぼ中央であるクーベルク商店のすぐ近く――つまり、シィの目の前で停車した。


 近くで見れば、それが行商人や乗り合い馬車が使うようなものでないのが、明確に見て取れた。車を引く馬の毛並みは良く、待機状態となった今も、長い距離を走ってきた疲れを思わせない余裕が見て取れる。幌の作りは分厚い上質の帆布を使っており一見して頑丈だと分かる。部屋を作るように組まれたそれは、よく見られる雨風を凌ぐためだけの幌と形も違っていた。そして何より異彩を放っているのは、その幌に金色で刺繍された六角形と竜の紋章である。それはエルラド聖王国を示すものであり、この馬車が国に属するものであることの証明でもあった。


 シィはそれを見て、緊張を抱くことはなかった。ただし、僅かにだけ警戒心を強めてはいた。


 嫌な予感を抱いている最中、普通では見ないようなものが現れる。それは紛れもなく、何かの予兆に感じざるを得なかったからだ。


 そうしたシィの思いをよそに、馬車から人が姿を現した。少し小柄な、眼鏡をかけた女性だった。年齢は、シィより一回り程度上だろう。レインよりはやや若く見える。女性にしては珍しい動きやすそうなパンツルックに、腕までかかる程度の長さのローブマントを羽織っている。腰回りには幾つかの道具袋が下げられており、ローブマントは煩雑としたそれらを隠すためなのだろうと予想できた。


 その女性の後ろからは男性が二人降りてくる。こちらも動きやすそうな格好と、荷物の詰められた背負い袋などを持っており、総合的に彼女らが野外で何かの活動を目的としてやってきたのだと、シィには予想ができた。


 それはつまり――


「すみませんが」

 女性は、クーベルク商店の軒先で箒を持つシィに真っ直ぐと向かうと、丁寧に切り出した。


「こちらが、クーベルク商店で間違いないですか?」

 嫌な予感というのは形になるものである。


 シィは、それを嫌と言うほどに知っていた。



                ◇



「――ええ。はい」

 短く簡素にシィは答える。


 客であれば、もう僅かばかりかは声色を柔らかくするのだが、今のシィにはそうするつもりは全くなかった。彼女たちは客ではないと、肌が感じ取っていた。


「私は、エルラド聖王国から派遣されてまいりました者で、セレナと言います。彼らは、私の助手達です。こちらに、山の案内ができる方がいらっしゃると聞き、伺いました」

「――――」


「あれ。違いましたか?」

「いえ」


 シィは警戒の色を強める。彼女に対して、というよりは、あらゆることに対してだ。


 彼女――セレナ自身は、言葉遣いこそは丁寧で堅苦しさを感じさせるものが多かったが、その話し方は年下の女の子を意識した、柔らかさを含ませたものであった。しかし、それすらもシィにとっては警戒の対象である。


「いますが、今はいません」

 シィの言葉に、セレナは眼鏡の奥で目を細めた。その言葉の意図を探っているようだった。


「つまり、今は不在だ、ということですか?」

「はい」


 短いシィの返答に、セレナは眉を寄せた。困っている、というのが見て取れる。この女性は、役所仕事のように固く仕事を行おうとしているようだったが、表情や感情を隠し切れないのだと、シィは看破した。


 悪い人間ではないのかもしれない。単純にそう感じる。だが、喉に滞在する予感は、まだ警戒を緩めるなと伝えている。


「……分かりました。とにかく、中に入らせていただいても大丈夫ですか? 詳しい話はそちらでしたいと思いますので」


 セレナの視線はシィからすでに商店の扉へと向けられている。若い少女であるシィが単なる従業員で、話をするべき大人の代表者は別にいると踏んだのだろう。


 それは紛れもない事実であり、大人としては正しい判断だった。シィも、そこにおかしな点があるとは思わない。だから、自分の喉の奥に引っかかる嫌な予感は覚えながらも、それを断る意味と必要性を見い出せず、素直にクーベルク商店の扉を開けるしかなかった。



                ◇



「――つまり、セレナさん、でしたね。あなたは、山の瘴気の発生や魔物の増加を調べるために、やってきた。それで、その調査のために、私の息子の案内が必要だと。そう、仰っていられるわけですね」

「はい。そうです」


 一通りの話を聞いたクーベルク商店の女店主――クレアはその話をまとめ、セレナがそれを肯定した。


 セレナ。本名をセレナ・セシャットと名乗ったこの女性は、自らをエルラド聖王国に所属する、研究調査員だと説明した。それを示すように、彼女はエルラド聖王国に直接所属する証である、六角形に竜が描かれた徽章を示してもいた。


 そうした話を、シィは店内の端で聞いていた。


「厳密に申し上げるのなら、調査と状況に応じては対処を行う、となります」

「対処?」


「はい。瘴気や魔物についての調査だとは先にお伝えした通りではありますが、今回私が来たのは、それが急を要する可能性があるから、でもあります」

「急を……という事は、山の状況が良くないということですか?」

 クレアの声色が変わる。緊張や恐怖。そうした、負の感情が滲んでいた。


「あくまでも可能性、ですが」

 セレナはそう念押しするように言った。

「ただ、私どもの調べからでは、その可能性が高いと見ています。ロッサムでは、九年ほど前にも魔物が突然増加したという事象があったのはご存知ですか?」


「……ええ、もちろん」

 クレアの顔が暗くなる。シィはその頃はまだロッサムにいなかった。だが、その話自体はアルから聞いていた。彼の父親であり、クレアの夫である人物が魔物との戦いで亡くなったのだと。


「私どもは、様々な地方で瘴気活性化や魔物増加の報告があれば、それを全てデータとした収集し、分析しています。そこで分かったのが、こうした瘴気活性化や魔物増加には、一定の波が存在しているということです」

「波……ですか?」


「はい。言い換えれば、一定の周期で瘴気活性化や魔物増加が起こっている、ということです。そして、こちらロッサムでは、それがおおよそ十年程度の周期で起きています」

「十年毎に……でも、私が子供の時にはそんな大きな事件はなかったと思いますが」


 クレアは困ったような表情を浮かべていた。


 クレアはロッサムで生まれ育ったとシィは聞いていた。ならば、十年周期で起こると言われたそれも、何度かは過ごしているはずになる。


「それは、事前の対処が上手く行った例だと思います。その兆候を感じ取って、冒険者の方たちに間引きや浄化を依頼する、などといった事です。実際、私達が集めた情報でも、二十年前や三十年前付近で冒険者や騎士団に依頼が行われていたのを確認しています。基本的に、こうした対処は各地でも行われていますし、珍しいことではありません」

「なるほど……。でも、本当にそんな事まで調べているんですね」


 納得した様子を見せたクレアは、同時に驚いたような表情も見せた。

 言われた当人であるセレナは「それが私どもの仕事ですから」とさらりと流していた。


「私達が対処も行う、と言ったのは、こうした事が理由にあるからです。前回の活性化から九年。予想される十年にはまだ時間はありますが、それが悠長に事を構えていていいということには繋がりません。それと何より――」


 セレナはそこで一度、言葉を置いた。


「各地で瘴気活性化の周期が速く報告されたり、その規模が過去より拡大されていたという事象が見受けられています。これはまだ断言できることではありませんが――世界的に見て、変調が発生しているとも、考えられます。一年ほどの時間がありながら、私どもがこちらロッサムへ調査を急いだのは、それがもう一つの理由です。今のうちに状況を確認して、手を打てるなら手を打っておく。何もやらなければ、瘴気や魔物によって町が被害を被る可能性は高いと、考えられるからです」


「……この話を、他には?」

 神妙な顔つきとなったクレアが尋ねた。


「ロッサムの代表の方と、衛兵の方々にはお伝えしています。状況に応じて、白銀騎士団にも連絡が行くよう手配はしております。特に、代表の方には早い段階で伝わるようにしました。もし可能であれば、警戒はしておいて欲しいとも添えています。こちらに伺えば山に詳しい方がいると紹介を受けたのも、その時です」

「――そういう事だったのですね。理解しました」


 シィもまた、納得する。

 否。線が繋がるような感覚だとも言えた。


 クロード達が受けた魔物の間引きという依頼。

 それ自体は、アルが山の警戒任務パトロールによって瘴気や魔物の痕跡を見つけたことが起点となっている。だが、それは一週間前のことであり、クロード達への依頼や、彼らのロッサムへの移動を思えば、非常に迅速な依頼が行われたことになる。

 それはつまり、セレナが先んじて町の代表へ話を伝えていたことで、アルの発見の有無にかかわらず、冒険者への手配が行われていたということになる。


「ただ、私の息子――アルなのですが、既に冒険者の方の案内で山に行っています」

「冒険者の方と、ですか?」


「ええ。魔物の間引きの為、とは聞いています。一週間ほど前にアルが山を回っていた際に、魔物の痕跡を見つけた、とかで」

 そこで、クレアは同意を求めるよう、シィに目線を向けてきた。シィは小さく頷いて応える。


「そう……でしたか。魔物の間引き……こちらが先に話を伝えておいたことで、冒険者に依頼が行われた、ということですかね。先んじて対処を行なって貰っている、とも考えられます。ただ……」

 セレナは考え込むように、体ごと視線を誰もいない方へと向け、独り言を呟いていた。


「魔物の痕跡があった、というのは気になる。既に兆候が出ているということ……?

 周期には一年近く早い。それはつまり、やっぱり世界全体で活性化が起きつつあるということなの……?」

「あの、セレナさん……?」


「あ、すみません。つい考え込んでしまってました。アルさんは既に山にいるんですよね。いつ戻ってくるかも、分かりませんよね」

「それはそう……ですね。あの、山はもしかして危険な状態なんでしょうか?」

 クレアは心配そうに尋ねた。


 シィにもそれは気になる点であった。先程の独り言めいたものを含め、セレナの言を聞く以上では、不安を煽られているように感じたからだ。


「率直にお伝えするなら、判断材料が足りていないと言わざるを得ません。ただ、痕跡が見つかっているというのは、活性化の兆候なのかもしれません。そうであれば、刻一刻と状況は変化していきますし、あっという間に拡大する可能性が低いとも言えません。今まさに何かが起きている可能性も、十二分にあり得ます」

「そう、ですか……」


 クレアの声が沈む。

 セレナは危険があると断言こそしていないが、ほとんどそう言ったようなものだった。


 結局のところ、母親であるクレアにとって、細かな可能性の有無は関係ない。大事なのは、安全かそうでないかの二択でしかないのだ。


 そしてセレナの話はその後者をほのめかし、前者に触れないものであった。クレアが心配に心を染めるのは、当然である。


 そしてまた、シィも似た感情を抱いていた。

 ずっと感じていた、嫌な予感が輪郭を持ち、胸へと落ちてきたような感覚だった。


 ――完全な、悪い予感として。


「既に状況が動きつつある可能性があるとなれば、私どもも早めに調査を行う必要があります。しかし、その……アルさんはいらっしゃらない、わけですよね」

 セレナは次第に言葉尻を弱くさせながら言った。彼女もまた、想定外の状況に混乱させられつつあるのかもしれない。


「他に、山に詳しい、土地勘のある方はいらっしゃいませんか? もしくは、ご存知ではないでしょうか」

「あいにく、他には――」

「わたしが、行きます」


 クレアの言葉を遮って、ずっと聞き手に回っていたシィは、ようやく口を開いた。


「わたしなら、アルについて行ったこともある。だから、道案内は、できます」

「シィ、あなた……」


 クレアも、セレナも驚いたような表情を見せていた。特に予想外だったのだろう、セレナは虚をつかれたように口を開いていた。それも仕方のないことだ。これまでずっと話を聞くだけだった、ただの年若い従業員の少女が、危険性があると散々話をした山への案内を買って出たのだから。


「わたしは、アルが心配。だから、様子を見に行きたい」

「でも、その……。大丈夫、なんですか?」

 セレナはシィの頭のてっぺんから足先まで見て、おずおずと言った。


「大丈夫」

 シィはきっぱりと言い切った。何に対しての疑問だったのか、抽象的すぎて掴めていなかったが、それでも断言できた。


 言うが早いか、シィは長いスカートをたくし上げると、膝上で裾を結ぶ。動きやすい格好になったことを確認すると、店内の傍に置いたままになっていた、練習用の木剣を手に取った。そして、それを軽く振るった。鋭さに、音が啼いた。


「すぐにでも、行ける」

 その行動に、セレナは呆気に取られているようだった。何も言わず、ぽかんとシィを見ているだけだった。


「――シィ、危ないのよ? あなただって、うちの子なんだから、危ないのは……」

 最後までクレアに言わせず、シィは首を振った。


「そう言ってくれるのは、嬉しい。でも、わたしは、アルが心配。それが一番大事」


 シィにとって、アルは唯一無二の存在だ。


 自分を自分でいいと、示してくれた人物だ。


 この関係を、失いたくないと思う相手だ。


 それが、恋愛感情なのか、家族愛なのか、はたまた別の友愛や尊敬のようなものなのかは、定かではない。


 確かなのは、シィにとっては彼が最も大事であり、そこに影を差すような、悪い予感が胸の内に巣食っているということだ。

 なればこそ、シィに行動しないという理由は有り得ない。


「アルは自分にできることを、やろうとする。状況によっては、無茶なことも。わたしはアルに、無茶をさせたくない」

「……いいの?」


 不安そうに尋ねたクレアへ、シィは頷いた。


「分かったわ。でも、あなたも無茶はしたらだめよ」

「うん。わかった」


 シィはそう言って、セレナを見た。セレナはまだ、話を飲み込めていないようで、ぽかんとシィを見ているだけだった。


「行こう」

「え、ええと。本当に、あなたが案内を?」


 シィはそれに答えなかった。


「ダメだと言われても、わたしは一人で行く」

 代わりに、それだけを言って、すぐに商店の外に向かった。


 何かが動き始めているのであれば、一刻の猶予もないかもしれない。


 手遅れになってはいけない。


 この、悪い予感が当たってはいけないのだ。


 シィの頭を埋めるのは、そうした考えだった。その背後を慌てながら付いてくるセレナには、もうほとんど意識を向けてはいなかった。


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