第2話 少年と少女
鈍い音が幾度となく、晴れ渡る空の下で鳴り響いていた。
速度を上げては落とし、そして一定の間隔を刻む。そしてまた、再びその速度を変化させ、一定の音を刻み始める。まるで輪舞曲のような繰り返しが、途絶えることなく流れ続けていた。
「くっ、この――っ! たりゃあ!」
決して音楽を奏でているわけではないことを示した、未だ少年の幼さを残した声が混じった。
赤毛の少年――アルは奥歯を噛みしめるよう顎を引く。木で作られた模造剣を構えると、勢いをつけて振り下ろした。しかし、剣の進んだ先には既に木製の剣が待ち構えていた。何度ともなく鳴り響いていた鈍い音が再び鳴った。
「……それは、分かりやすすぎる」
感情が込められていないような平坦な声が、静かに投げられる。アルの正面で同じく木剣を持ち、そしてアルの攻撃を今まで易々と受けていた少女の声であった。
腰ほどまである長い黒髪に、黒曜石のような瞳が特徴的な少女である。決して華美ではない平凡な服に身を包み、腰からは長いスカートを汚さないようにエプロンが掛けられている。装飾らしい装飾は右腕に巻かれている、柄物のスカーフ程度。その手に剣を持っていることさえ除けば、平凡な町娘そのものでしかない。
「だったら、これなら――ッ!」
搗ち合った衝撃を利用しアルは剣を素早く引くと、ぐるりと体を回転させた。少女が防御のために剣を構えていたのとは逆側へ勢いよく剣を叩き付ける。
「――それも、分かりやすい」
予想されていた。
それを示すように、アルは腹部に衝撃を受ける。
「ぁ、うぐぅっ!?」
痛みに声が漏れる。振り下ろす剣線は逸れ、地面へと勢いよく突き刺さった。
大振りに隙が生まれることを即座に判断した少女は、間合いを内側に外すように距離を詰め、剣の柄をアルの腹に突き立てたのだ。
前かがみに姿勢を崩したアルは咄嗟に態勢を整えようと、足に力を籠めようとした。だが、首元に優しく触れた木製の刃にそれは阻まれた。
「はい。アルの、負け」
「あ」
小さな声は、そのまま大きな溜息に変わった。全身を満たしていた緊張は解け、アルは態勢をそのまま崩して地面に膝を着いた。
「うーっ! くそっ。今日もシィから一本も取れなかった」
悔しさに空を仰ぎながら叫ぶ。
「アルの剣は、とても素直。でも、素直すぎる。フェイントにも、引っかかってばかり。隙が大きい。ダメダメ」
シィと呼ばれた少女が淡々と口にする。一言聞くたびにアルは渋面を浮かべ、肩を分かりやすく落とす。
「……はぁ。元々自信なんてないけどさ、余計に無くすな」
「ないのに、なくすの?」
純粋に首を傾げながら聞き返すシィに、アルは苦笑する。
「鍛錬詰んだりしてさ、少しはできるようになったな、って思っても、シィには全く敵わないんだもんな。ついた端から無くなっていくんだ」
「アルには、まだ負けない」
「……シィもこんな感じだし。手ごたえがない、というか。本当に自信無くすよ」
いつの間にかアルの横に腰を下ろし平然としているシィに、アルは再度苦笑した。
穏やかな風が吹いていた。土と、草と、若葉の匂いが流れ着く。シィはどこかくすぐったそうに、長く揺れる自分の髪を押さえていた。
「――何度だって思うんだ。あの時だって、俺が助けに入らないでも、シィだったら一人でどうにかしていたんじゃないかって」
口にしながらアルは空を見上げる。雲一つない青々と澄み渡った空が広がっている。全く違う空模様。それなのに、アルは幼い日の事を思い返す。
冷たい雨が降る日だった。何もかもが厳しさに満ちた日だった。綱渡りのように一歩でも間違えていれば、命を失っていたと断言できる日だった。決して、十歳あまりの子供に切り抜けられるような日ではなかった。
あの日の事を思い返すのは、今に限った話ではない。何度も何度も、時には夢に出るほどに。その度に、その選択が正しかったのかを考えさせられていた。特に、こうして助けた少女――シィに剣術を教わるようになってからは。
山の奥の沢で見つけた少女は、普通の少女ではなかった。
実のところ類稀な身体能力や、熟達した剣術を扱えたのだ。
それが分かったのは、アルが自分の家に少女を連れ帰った後。母に危険な目にあったことをこってり絞られ、行く場のないという少女を引き取ることが決まり、一緒に暮らし始めてすぐの事だった。
最初のきっかけは、アルの実家である道具屋――クーベルク商店での仕事を教えていた時だった。シィはとてつもなく仕事の覚えが速かった。あらゆる指示を一度で理解し、アルと同年代とは思えない素早さで仕事をこなしていた。
それを見ていたアルは、ふとした思い付きでシィに剣の相手を頼むことにした。
物覚えが非常にいいシィであれば、少し教えれば自分の剣の鍛錬に付き合えるようになるだろうと思ったからだ。
そこには、日々を居候として過ごす少女にとって気晴らしになればいいと思う気持ちもあった。そして、更に付け加えるなら、自分が助け出した可愛らしい女の子に、自分のカッコいいところを見せたいと、子供ながらの見栄を張ろうとしたからだった。
その結果、アルは剣の持ち方を教えることすらなかった。
練習用の木剣を握らせた瞬間に、アルはシィのその佇まいが様になっていることを理解した。確認するようすぐに「剣の経験はあるのか」と尋ねていた。すると、シィはあっさりと答えたのだ。「見たことがあるから、使い方は知っている」と。
試しにと打ち合うが、熱のこもる攻撃は一つもその細い体のシィに届くことはなかった。
攻め立てていたはずのアルはあっさりと膝を折った。
アルは自分の実力が足りていないこと、助け出したはずの少女が自分よりはるかに高い腕前を持っていることにショックを受けた。だが、悔しさを抱きつつも、アルは自分の未熟さも理解できていた。
だから、口にするべき言葉は決まっていた。素直にシィに対し「だったら、剣を教えて欲しい」と頼んだのだ。
そこからは、今とそう変わらない。似たような手合わせと、未熟さの痛感。幾度ともなく――少女を助け出してから五年余り歳月をかけて繰り返されていた。
「あの時ぐらいなら、わたしは多分、一人でなんとかできた、とは思う」
はっきりと口にされ、アルは息を吐いた。言葉数の少ないシィのこうした真っ直ぐな物言いは、鋭く刺さることはあれど嫌味も謙遜もなく、気持ちがいいものである。
「でも――」
「でも?」
「あの時のわたしには、きっとできなかった」
アルは横に座るシィを見た。シィは幼い時の記憶と同じように、その黒曜石のような瞳をアルに向けていた。だけど、そこに映る色は記憶とは違っている。
「わたしはあの時、何もかもを諦めていた。生きようとも、思ってなかった」
「それは……」
はっきりと聞いたことはないことだった。シィが過去に――あの沢に至るまでに何があり、どう生きていたのか。
興味を抱くことはあったが、アルを含め家族の誰もが探ったことはなかった。いつか話したくなればシィが自分から語るだろうと、考えての事だった。
「あの日、わたしは大きな失敗をして、自分の生きる意味が、分からなくなってた」
静かに、静かに。言葉を選ぶように、シィは語る。
「あの場所に来たのは、逃げてきたから」
「逃げてきた?」
アルの質問に、シィは首を小さく縦に振るだけで答えた。
「でも、逃げてきただけ。そこから先は、何もなかった。魔物が出るかもしれないとは、どこかで予想ができてた。出会ったら、殺されるかもしれないとも、分かってた。でも、それでいいかもしれないって、思ってた。ここで終わるのなら、そうなんだろうって、感じてた。わたしは、わたしの意味が分からなくなってた」
シィの言葉はどこか抽象的で、彼女の抱える事情を知らないアルには、はっきりと伝わりにくいものだった。ただ、アルはあの時の虚な目をしたシィを忘れてはいない。この言葉は彼女にとっての核心部分なのだろうと理解できた。
「だから、アルが助けに来てくれて、わたしを見つけてくれて、わたしは助かった。それは、本当のこと」
アルを見るシィの目が、僅かにだけ緩んだように見えた。
「寝る場所も、食べるものも、働く場所も貰えて、わたしはわたしでいいって、教えてもらった。わたしは、あの時に助けてもらわなければ、きっとこうして、アルの隣にいれなかった。全部、アルのおかげ」
ゆっくりと、静かに。一つ一つの言葉を選ぶように、シィは語り掛ける。
「わたしは、アルに感謝してる」
「――っ」
正面から投げかけられた言葉に、思わず目を逸らさずにはいられなかった。彼女がお世辞や謙遜の得意な人間ではないと、知っていたからだ。
「そっか……そっか」
みっともなく慰めの言葉を期待して、実際にはそれ以上のもの貰ってしまった。シィの言葉は真っ直ぐなものだ。アルの心に残り続けていた棘を取り除いてくれたようで、どこか胸がすくような心持ちだった。
「うん。そうだな」
言い聞かせるようにアルはそう言うと立ち上がった。木剣を手に取る。
「よし、休憩は終わり! シィ、もう一回、手合わせしてもらってもいいか?」
「まだ、やるの?」
「ああもちろん!」
アルは強く言い切った。
「まだ全然シィには敵わないけど、試せることはまだ沢山あるからな。そんなうちからあーだこーだと言ってちゃダメだろ」
「それは、そう」
「だったら、やれることやらないとな。守りたいって思う相手より、弱いってのもカッコ悪いからさ」
「守りたい? わたしを?」
アルは力強く頷いた。
「シィを守れるぐらい、俺も強くなる」
「ものすごく、怖がりなのに?」
「それは……そうだけど! それでも!」
アルは感触を確かめるかのように木剣を振るう。
「何かあった時に、できるのとできないのじゃ、全然違うから、さ。やれることを、全力でやっていないと。シィが色んなことを俺がいなくてもできていたとしても、本当に困ったときに、あの時みたいに、助けられるようになりたいから」
それは不安さと一緒にずっと抱えていた素直な思いだ。あの日のことは、アルにとってもかけがえのない成功体験なのだ。二度目があったとしても、同じように突破したいと思うのだ。
「そう」
短くシィは答えた。その口元は少し弧を描いていた。
「あんまり、アルに危ないことはしてほしくない。けど、そう言うなら、わたしも手は抜かない」
「ああ。手加減なしで頼む」
木剣を構えたシィに、アルは相対する。
少しずつでもやれることやる。そうしなければ、自分の望みに――シィを、家族を、町の人を守れるような、父のような人物に――“英雄”になることに――近づくことなんてできやしない。
それを再認識できた。休憩で取り戻した以上に、体には体力と気力がみなぎっているようだった。アルは剣を持つ手に力を籠め、一歩踏み出す。
「おにぃーいちゃん! しーぃ!」
と、その時だった。
どこか気の抜けるような、甲高い子供の声が辺りに響いた。
妹のシェンナの声だ、とアルはすぐに理解した。水をさされ集中が途切れたアルは、シィと顔を見合わせて溜息を一つ吐くと、その声に返事をした。
「シェンナ! どうしたー?」
建物の陰から顔をのぞかせていた小さな姿がとてとてと駆け寄ってくる。
小柄な、アルによく似た赤毛の髪をした少女である。年齢はアルより三つ下だが、シェンナなりのお洒落をしているせいか、どこか大人びて見える。
「ねぇ、お兄ちゃん、忘れてることない?」
「忘れてること?」
「例えば、お仕事とか」
「仕事って……」
アルはシィと目を合わせる。午前の分の仕事は終わらせたはずだ。午後にやるべき仕事にはまだ時間がある。それはシィも同じである。だからこそ、アルはシィを連れて剣の訓練を行っていた。
「終わらせたぞ?」
「ぶー。ざんねーん。全くぅ、お兄ちゃんは忘れんぼさんですねぇ」
「なんだよ。何か抜けてたか?」
「クロードさんたち、来てるよ。お兄ちゃんに仕事を頼んでたって」
「あ」
そこでアルは本当に失念していたことに気づく。
午前の仕事を終わらせていたのは本当の事だ。ただ、あくまでも商店の仕事のことでしかなかった。自警団を通しアル個人に回ってきた仕事はその限りではなかった。
「あっちゃあ……。すっかり忘れてた」
「アル、仕事あったの?」
「ああうん。いつものやつ」
アルは空を見て時間を確認する。太陽はまだ登り切っていない。昼にはまだ早い。準備を思えば時間はギリギリだが、まだ致命的になるほど遅れてはいない、はずだ。
「わかった。すぐに戻るよ。ありがとう、シェンナ」
「ふふん。どういたしまして」
偉そうに胸を逸らすシェンナの頭をぽんぽんと撫でて、アルはシィに向き直った。
「ごめん。続きはまた今度だ。とりあえず、戻ろう」
シィはそれに頷いて答えた。
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